●『テクスチュアル・ハラスメント』● (2001年6月10日)
小谷真理が山形浩生の「小谷真理は巽孝之のペンネームである」と断定したことに対して裁判を起こしたことは、SF業界にいる者なら知らない者はいないだろうが、一般的にはほとんど知られていないことだろう。この訴訟事件を聞いたとき、こんなことを裁判で争わねばならぬとは、なんとまあ侮蔑的なことか、と思ったものだ。争うまでもない、山形が全面的に悪いのであり、どんな謝罪でもするべきなのだ。このふざけた物言いは、冗談だと言い抜けるにはあまりにも低劣である。小谷真理と巽孝之はお互いに影響を受けあっていることは大いに考えられるが、まったく別の人間であって、個別に執筆活動をしているのだ。どうして小谷真理を一人の独立した人間として見ないのか。この発言は小谷真理はいないものとしようということにほかならず、そしてそこにいる人間を見ないという状況は、それを人間だとは思わないということだ。インディオや黒人奴隷がかつて人間としては存在しなかったのと同じように。これは、白人だけが人間だった時代の感覚と変わらないということすら、山形浩生にはわからなかったのだろうか。
この事件をきっかけに「女性の著作権を考える会」が発足し、アンケート調査を行なった。女性クリエイターが「抹消された」例について、自分の体験でも良いし、聞いた話でも良いから教えてくれ、というもので、「抹消」の例として挙げられていたのが、ジョアナ・ラスの『女性の作品を抑圧するには』と題する批評で取り上げられた項目である。(邦題は『テクスチュアル・ハラスメント』、小谷真理による訳でインスクリプトから発行されている)
ここでそれを列挙ししてみよう。
私のところにもこのアンケートは回ってきたが、大した返事も出来なかった。この事件が起きるまで、こうしたことをあまり真剣に考えたことはなかったのだ。だから具体的なことはとっさには思い浮かばなかったのだが、歴史的に見てこういうことは頻繁に言われてきただろうな、ということは容易に推測できた。現代ではむしろ正面切ってこんな評価を下すことはないのではないかと思うけれども、細かなところではいろいろと存在するにちがいない。古典の分野では現存する日本最初の文芸評論である『無名草紙』を男の手になるものだと主張する学者が、圧倒的少数派ながら存在した。また、純文学の文芸批評家の女性作品の取り上げ方には、ちょっと前まではしばしば小ばかにした感じがあったものだ。「いいねえ、女は文学的理念がなくて……」というような言い方で。彼女は書いたが、女はそもそもものを書くべきではない。
彼女は書いたが、何を書いたか見てみろ、とても読めた代物ではない。
彼女は書いたが、生涯にただ一作だけだった。
彼女は書いたが、本当の芸術家ではないし、作ったのも芸術ではない。
彼女は書いたが、男の近親者に手伝ってもらったのだ。
彼女は書いたが、例外で、本当は男だったのだ。……
私自身の乏しい体験からすると、私を男性だと思ったという人が案外と多く存在するということが女性差別の表れだと感じる。「あい」だろうが「らん」(本当はこっち)だろうが、名前をどう読んだにしても、普通は女だと思うのではないか? 男性的な文章というのは現代ではあり得ぬし、なにゆえに男だと思うのか。
一つ考えられるのは、幻想文学には「女性幻想」が異様に多いため、男性は男性的なジャンルだと感じる傾向があるということ。また幻想文学自体が、通常のリアリズム文学に比して高度な側面があるため、それを特に愛好する者にはおそらくぬきがたい選民意識があるということ。男性にとっては、幻想文学の仲間だということは男だという前提的な条件を満たしていなければならないということなのではないだろうか。
これはかなり昔の話になるが、10号で鉱物特集のガイドをしたとき、ある大先達(明日の仕事に差し障りがあるやも知れぬので名前を秘す)に「女にしては珍しい本を読む」と言われたことがある。女が読む本、男が読む本というのがあるのか? つまり男の読む=高級な=幻想文学という概念があるのであろう。ナンセンスというほかないが、だからそういう「男の領域」にいる私は、男だと見られたりするのであろう。
ともあれ、このように性別の読み替えは最もありがちな女性抹消の手段であると思う。しかし、どんな仕事も性別で計られるべきものではないだろう。あるのはダメな仕事、良い仕事といった基準なのであり、女の仕事や男の仕事といった基準ではないのだ。当たり前のことだが。ちなみに、私は神林長平と稲生平太郎のファンページを作っているわけだが、彼らの作品を男性の仕事だと取り立てて考えることはまずない。私が好きな彼らの世界は、性別とは無縁のところにある。
念のために言っておくと、これは作品において著者が男性であることをまったく感じさせないという意味ではない。私が最も深く共感するのは、性別を超えた領域にあるものだということである。
さて、ジョアナ・ラスの『女性の作品を抑圧するには』を読んでいると、本当に悲しくなってしまう。
女が書くものは下らなくて品性が劣っている。家庭を切り盛りするのが女の務めで、母たることの方が重要だ。書くことは社会的に見てごくごくつまらないことだし、大した金も稼げない。お前の書いているものなど見たくもないし、書いているお前のことは愛せない……。
女性のもの書きは、あるいはものを書こうとする女性は、長年にわたってこのように言われてきた。こんなふうに言われてまで、なすべき価値のあるものなどこの世の中にはない。やめてしまえばいいではないか、と思う。だが、それでも書くことを選んでしまうということがある。それはもう、どうにもならないことなのだろう。とは言っても、こうして選んでしまうことを、女たちは、自分からは完全に肯定することはできなかったのではないだろうか。
私にとってもまた、文学に関わるということは、傷を負い続けることにほかならない。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★