●『ドイツ女性の歩み』● 2001年6月18日
河合節子・野口薫・山下公子編『ドイツ女性の歩み』(三修社)を読んだ。「女がものを書くと」で書いたことが、はからずも確認されるような事例がいくつもあって、また胸が痛んだ。『ドイツ女性の歩み』は、伝説時代から現代までのドイツ女性の肖像を描いたフェミニズムの一冊で、自分にはめられた〈女性〉の枠を打ち壊そうとした、あるいは少なくともその枠に抵抗した女性たちの紹介がなされている。全体として紹介に留まっているという印象で、私が望んでいたような省察は得られなかったし、少なからず期待外れだった論考もあるが、興味深いものもいくつもあった。
例えば「作曲vs「女らしさ」の足枷」。クララ・シューマンを初めとする19世紀の女性音楽家を取り上げた論考である。ユニークな父親によって音楽教育を施され、才能がありながらも、社会的には結局認められず、徒に苦しい思いを抱かねばならなかった女性たちの人生の戦いが描かれている。女性が何かその才能を認められるということは、およそ二百年前まで、本当に困難なことだったのでだということが実感される。
また、クレメンス・ブレンターノと駆け落ちした16歳の少女アウグステをめぐる物語『「愛」の悪魔』を読んだばかりだったということもあって、ロマン派の時代にはなんておもしろい女性がたくさん揃っていたのだろうとも思わされた。中でもカロリーネ・ミヒャエリスとテレーゼ・ハイネを描いた「ゲッティンゲン大学教授の令嬢たち」は印象深かった。テレーゼは最初の夫と別れたのち、文学者であった二度目の夫の代筆を務め、夫の名前で自分の作品を出し、文筆で家計を支えたという女丈夫である。夫の死後もテレーゼは「夫の遺稿」という名目で作品を書き続けねばならなかった。18世紀末から19世紀初頭にかけてのことであり、ジェーン・オースティンの文筆活動とほぼ同時代、日本近世を代表する女性作家・荒木田麗女と比べれば二十年ほど遅かった。この時代、ドイツで女がものを書くということは、たいへんな困難を伴ったのである。本書によれば、ドイツで最初の女性作家とみなされているのは、『ユダヤ人のブナの木』を書いたドロステ=ヒュルスホフというテレーゼより三十歳若い女性となる。つまりドイツは女性解放の後進国だったのだ。テレーゼが夫の名前で書き続けたということは、ジョアナ・ラスが訴える、女性の創作がいかに抑圧されてきたかの傍証の一つである。
また、カロリーネはたいへんに素晴しいキャラクターの女性であり、ロマン派の恋愛沙汰の中でもこの人とシェリングの愛情には胸打たれるものがある。カロリーネの開明ぶりは、今泉文子が既にロマン派の研究書の中で紹介しているけれども、このエッセイではロマン派と関わる前からの、若い時代の彼女の聡明な姿が描かれている。また同じく本書所収の「ゲーテ周辺の女性たち」の中には、シラーの「女は家庭を切り盛り……」といった詩(1799)を読んで、カロリーネが「爆笑のあまり椅子から転げ落ちた」というエピソードが紹介されている。いったいどんなに魅力的な女性だったのだろうと憧れの気持を呼び覚まされる。彼女の本格的な評伝が読んでみたいものだ。
そしてもう一篇「「グリム童話」を語った女性――マリー・ハッセンプフルーク」も紹介しよう。ハインツ・レレケの論文「「マリーばあさん」の「きっすいのヘッセン」のメルヒェン――『グリム童話集』の初期の聞き書きにまつわる神話の終焉」(1975、岩波書店『現代に生きるグリム』所収)によって明らかになった、グリム童話の起源神話の誤りについて、さらに深く語ったものである。レレケの論文によって、昔話は土着のお婆さんが語ったのではなく、若い未婚の女性を中心とするグリムのサロンで主に語られたことは周知の事実となっているだろう。語り手の背景をグリム兄弟が抹殺したことにより、「ひとりの女性が語った話から、民衆という抽象的な主体がはぐくんだ「グリム童話」へと変貌を遂げていきました」と筆者である川原美江は語る。しかし、単に一次資料の事実を見つめることで結論を導きだしたレレケ論文によって、マリーは復権された。レレケ以前までは「記憶力の良い田舎の老婆たちが最良の昔話の源泉だった」とされ、ナショナリズムと密接に関わる神話として機能してきた「民衆的な昔話」は覆された。川原はそこからさらに一歩進んで、彼女の語ったメルヒェンには彼女自身の願望が込められていたこと、病弱な娘としてグリム兄弟との交流に悦びを見出していたこと、けれどもその交流の過程はすべてグリムに吸収され、彼女には結局結婚の道しかなかったことが、語られていく。
これは横山茂雄が以前から主張している、柳田国男の『遠野物語』と佐々木喜善の関係とパラレルである。喜善は男性で、昔話を語ることには何たる自覚もなく、文壇への道を目指したが、文学者としては結局立つことが出来ないままに終わった存在であること、それに対してマリーの方は、女性であるがゆえに、たとえ文学の道を遠望することはあっても、自らがその道に立つなどということは最初から思いも寄らず、だからこそ昔話を語るということに唯一の自己表現を託したという点で、相似とは言い難いが、よく似たものがある。何よりも二人の語りは、それぞれ文学的には偉大な才能ある存在によって手を加えられ、それが「民衆の声」として世に通用したということ、そして今やグリムも柳田も文学しすぎていて、民衆の声などではなかったということが知られているという点でパラレルなのだ。
しかもさらにその原話である喜善、マリーの語りにしても、民衆の声などではないという点でもパラレルである。川原の論考はそのあたりを明らかにするものだが、横山茂雄の論考もまた、喜善についてそれを明らかにしていくであろう。喜善は今でも「民衆の声」的な、田舎の朴訥な青年として語っていたと見られているが、それは違うだろうと、横山茂雄は語る。マリーが若い男女のサロンの中で、自分の教養や才気をもって語っていたことが知られたように、喜善の立場もまたそのように改められるべきでなのである。
私がフェミニズムにおいて最も心を引かれること、それは、歴史が、ひいては人間の現在の社会が隠蔽しているもの、あるいは歪めてきたものを掘り起こし、白日のもとに晒し、私たちの意識を書き換えることだ。果して書き換えられたそれが正しいのかどうか、本当のところはわかりようがないにしても。ともかくも私たちが文化的な装置によってそう思い込まされてしまうもの、無意識のうちに捏造されてしまうもの、それらのものから離脱すること、それがフェミニズムの一つの機能であろうと私は思う。私が女であるということによってかぶせられている幻想すべてから解き放ってくれるもの、その力となってくれるものがフェミニズムなのだ。
ここで私は再び、「自由」という非現実的な言葉に還っていかざるを得ない。フェミニズムは自由を獲得するための、つまりは達成不可能なことを最初から目指している思想的戦闘の道具だ。この道具を用いて書くことは、何かに囚われている状態から、わずかなりとも自由な状態に近づく一つの道であると信ずる。そして書かれた最良のものは、私を既成概念から、私の自由を奪うものから解き放ってくれる。
神林長平と横山茂雄の仕事を愛するゆえんである。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★