Isidora’s Page
古雛の家

       ●宮澤賢治●           2001年8月4日

 六月十二日、宮澤清六氏が亡くなった。享年九十四。兄や姉の分まで長生したということであろう。
 賢治生誕百年のとき、賢治関連の書物が、それこそ山のように出た。それまでも日本の作家・詩人の中では漱石に次いで論じられることの多い人ではあったと思うが、そのときの出版にはすさまじいものがあった。『幻想文学』でも、売れるなら特集をしてもいいとは思わぬでもなかったのだが、今さら何ができるだろう、と考えると、作る気力が萎えた。『RAMPOMANIA』のようなスタンスで『KENJIMANIA』でも作るしかなかったろう。私も東もほとんど興味が持てなかった。ここまで有名で、評論も研究もあふれるほどあるのだから、わざわざ『幻想文学』でやる意義を見出せない。
 賢治への思い入れというのは本当に何なのだろうか。なんであんなにみんな賢治が好きなのか? 日本の文芸で最も映画になっているのは、たぶん谷崎潤一郎だが、最もアニメになっているのは、賢治である。最も多くの種類が、数が絵本になっているのも賢治である。なにしろ書店の絵本のコーナーには賢治絵本・画集コーナーというものが存在するし、図書館にもそういうコーナーのあるところはある。日本の児童文学者の中でそのような破格の扱いを受けているのは賢治だけだ。児童文学史上もっと大事で影響力の大きかった小川未明も浜田広介もそんな扱いを受けていない。
 文壇小説のようなものを除いて、小説に登場する回数が多いのも、もしかしたら賢治かも知れない。夢枕獏の『上弦の月に吼える獅子』、長野まゆみの『銀河電燈譜』、畑山博『ケンジ先生』……ほかにもあるだろうが、くどくどしくは挙げない。こうした小説には、評論同様、書き手の賢治幻想のようなものが反映している。もちろんこうした小説の賢治像には作家自身が託されてもいるのだ。
 語りたくなる作家、ということもあるのだろうが、このあたりの機微は、いまひとつ私には理解しがたい。
 また、画家にとってはその世界を表現してみたくなる作家であるのだろう。こちらの、画家など造形作家の気持はたいへんによく分かる。賢治の世界は自分でも「心象スケッチ」などと言っているがこどく、イメージの勝ったヴィジョナリイな世界であるからだ。賢治のイメージと自分の想像力や伎倆とを戦わせてみたくなるのではないかと想像する。
 賢治童話の絵本というのは本当に数が多くて、私もすべてを確認していないけれど、実に多彩である。自分のイメージに近いもの、かけ離れたもの、いろいろだが、まあ身近なところの話をしよう。
 私の姉は画家の端くれであるが、初めは絵本作家を目指していた。自分の求めるものと業界の体質があわなくてそこから遁走したが、ともあれ、最初に描いた絵本は『やまなし』(福武書店)であった。また姉は賢治に関してはもう一つ仕事をしていて、賢治フリークの畑山博のエッセイに絵をつけるという連載を雑誌の『PHP』に持ったのである。絵を直せと言われるものだから、「畑山さんの賢治観と私のイメージは合わない」とぶつぶつ文句を言いながら、毎月毎月「なめとこ山の熊」「若い木霊」「銀河鉄道の夜」などを描いていった。こういう仕事が成立するのも、いかにも賢治だなあ、と思う。
 アニメになった賢治童話も数多い。手元にある資料で最も早い時期のものは1949年の『セロ弾きのゴーシュ』(日本映画社)。小林喜次脚色、演出。東南アジア映画祭非劇映画部門特別賞受賞。19分の影絵映画だが、未見である。きっと、見れば、こんなものか、と思うようなもものにちがいない。
 未見のものばかりだが、1957年に「貝の火」もアニメ化されている。脚本、監督島崎久夫。9分。これはどんなものなのか、私にはまったくわからない。58年には学研の映画部が初めての人形アニメを製作しているが、それが「注文の多い料理店」である。音楽は林光で、2巻で18分。学研はその後も、「セロ弾きのゴーシュ」(63)なども手掛ける。こ学研のものは観ているようにも思うが、ほとんど記憶に残っていない。アニメ界はこの後変質していって、一方ではテレビアニメが普及し、劇場ものは長篇化するようになるが、その一方で、商業主義的でないものはもっと実験的になる。学習アニメ的なものは影を潜め、賢治の短篇などは作られなくなる。(まったくないわけではない)
 ここで年度を飛ばし、有名な作品をいくつか挙げてみる。高畑勲監督の『セロ弾きのゴーシュ』(82)。田園が全篇に流れるこの作品は、前評判が先行したため、上映時には、それほどでもない、と思ったものの、アニメとしてはそれなりに良質のものであった。ただし原作と引き比べると不満足な気分になる。『ゴーシュ』を青春小説にしたいと思って、甘ったるい脚色になったというが、原作の何を読むとそう思うのだろう。台詞やストーリーラインなどに大幅な改変がなされているわけではないだけに、このピント外れの読み替えにはついていけないものを感じる。
 最大の作品はますむらひろしのキャラクター設定による『銀河鉄道の夜』(85)だろう。なぜ猫でやるのかわからないと清六氏が語ったように、私も猫でやるというのはどうか、と思った。人間でやると、どんな風に描いても賢治ファンを納得させられないだろうという点からみれば、それなりに間違ってはいなかったのかもしれない。かなり美しくて、健闘しているとは思ったけれど、別の描き方があったように、今でも思う。監督は杉井ギサブローで、脚本がやはり賢治ファンの別役実。
 賢治原作のアニメで私が最も好きなのは、岡本忠成の遺作となり、盟友川本喜八郎が完成させた『注文の多い料理店』(93)。ユーモラスな原作はまったく別のものに変貌させられているが、あまりにも違うため、むしろ異和感がない。完全に別物として愉しめるということだ。地下迷宮めいた料理店の内部に、山猫の女妖が現れるという、エロティシズムを感じさせる作品で、パステルで描いた絵が繊細に、夢のように動く。戦後のアニメ界で最もユニークな才能を発揮したすばらしい作家だけのことはある。優れたアニメ作品に与えられる大藤賞を受賞しているほか、各種の賞を受賞したのも、この作家に対する斯界の敬意の表れだろうと思う。
 このほかにもアニメ作品はあるが、まああと語るに足るのは名倉靖博「どんぐりと山猫」ぐらいか。もちろん未見のものもあるので何とも言えないが。
 アニメの話ばかりになってしまったが、賢治作品について直接的にはあまり語りたくないのだろう、たぶん。
 もしも論じたいと思うことがあるとすれば、なんでみんなそんなに賢治が好きなのか、ということか。面倒なのでやりはしないのだが。単純に考えれば、永遠の少年、という幻想だろうか。『星の王子さま』がもてはやされるのと一緒である。サン・テグジュペリの少年性なるものはどうやらかなり人格的に問題のある少年性であったようだが、賢治の場合は、たとえ多少の問題があったとしても、決してそれが声高に語られることはないだろうし、また否定的に語られることもないだろう。それは、現実に塗れて生きることに対する一種の免罪符なのではあるまいか。理想を求める人であり、天性の詩人である賢治が好きであるということでもたらされる自己陶酔なのであろう、などと意地悪く考えてみたくなる。
安藤徳香画『やまなし』   岡本忠成「注文の多い料理店」
安藤徳香画『やまなし』より      岡本忠成「注文の多い料理店」DVD表