●夢と文学● 2001年9月1日
ドール・フォーラム・ジャパンという人形関係の団体が藤田博史という精神分析医を講師として《人形の身体論――その精神分析的考察》というセミナーを開いている。そのセミナーを映画監督の押井守が聴講しているということで、藤田博史との質疑の一部が案内状に掲載されていた。それによると押井の夢には音がないのだそうだ。これはどういうことなのか、と押井は訊く。藤田はこれに答えて、色がなかったり、あるいは行き着く先かもしれないけれど、夢の本質は何かしら欠けているのだ、と言う。つまりそれがフロイトの言う「夢の臍」だと。この回答を聞いて押井守がどう思ったのは定かではないが、私は、色がなかったり音がなかったりというのと、行き着けないとか手に入れられないというのとでは違うのではないか、と思わずにいられなかった。
夢というのは人によって違うのだから本当のところはよくわからないのだが、音がないとか色がないとか触覚がないとかいったことは、目覚めて思い出した時にそれが失われている、あるいはちゃんと思い出せないということなのではないだろうか、という気がしてならないのである。
人は時としてあまりにも現実的で、目覚めた直後、一瞬現実と見分けがつかない夢を見ることがあるのではないだろうか。だとすれば、夢を見ているときに音がなかったり、色がなかったりというふうには感じてはいないはずだ。
個人的な話をすれば、私の夢はそういう意味で欠けているものは何もない。五官の中でたぶんいちばん欠落しそうなのは嗅覚で、日常的にもあまり意識されることがない、それだけに現実でも思い出しにくい匂いというのは、夢でも意識されないことが多いと思う。だが夢に美味しそうな料理が出て来た時、あるいは森林や草原など植物の多いところを歩いている時など、確かに匂いを感じている。この報告を読んだあとに、触覚をありありと覚えている夢を見たので、嗅覚の次に欠落しそうなそれもまた失われてはいないのだと思う。
また、夢を見ている時に何か欠落しているとか探し当てられないなどというのも一概には言えないのではないかとも思われてくる。目覚めたときに何かを失ってしまったという感じを抱くことと、夢の中で何かを探しているという感じとは、私の場合は同じくらいの頻度であるように思う。当然のことながらそんなはっきりとしたものではなく、単に茫洋とした感じがあるだけの夢もあれば、本当に普通の淡々とした夢もある。一晩に何度も見る夢のいちいちを覚えていられるはずもないのだが、そうだとしても夢を見ている時に常に欠落感を覚えていたのでは、人生が切なくてやりきれないではないか。
夢日記とか、日記に夢の話を書いておくとか、そういった例は数多くある。横山さんがこの夏に読んだという佐々木喜善の日記にも夢の記述が頻出するという。夢のことまでこと細かに書いていたら、生きて行く時間がなくなってしまうのではないか、と思うのだが、そうでもないのだろうか。
夢は――たいていの目が見える人のそれは――ヴィジュアル情報がたいへんに多いはずだ。言葉では表現できないような形や色だってたくさんあるだろう。それをどうやって言葉にするのだろう。符牒をメモして、自分にはあのことと分るようにしておくような、そんな程度の記述にしてしまうのだろうか。文学的なというか、外に出された夢の記述などを読むと、やはりストーリーをなぞるような形ばかりのものが多い。きっと夢の大事なところなどは表現できないので、無視されているのだろう。それを読めば、夢を見た人にはその雰囲気が思い出されるのだろうが、見ていない人には、金輪際分りようがないのである。だから、そうした夢の記述を読むと、自動的に自分の見る夢のような感じに読み替えてしまう。すると、それは、彼の見た夢というよりは、私の見た夢となる。私は他者の夢の記述を通して、私が見るであろう夢の世界に至るのだ。
と書きながら考える。なんだ、これは詩や物語を読むことと変わらないではないか。文学を読みながら私たちはいつでもそれを自身のイメージに沿ったものに変えている。例えば小説の作者が創造した登場人物たちの本当の容姿を私たちは決して知ることはないだろう。だが、私たちは容姿をはじめとして、書かれてはいない多くのことを自ら作り上げていく。一つの作品を通じて、自分だけの世界を構築していくのだ。そしておそらくSFやファンタジー、あるいは詩歌は、読者が自分で構築する余地が大きいので、ポピュラリティを得にくいのだろうし、同時にまた多くの熱狂的なファンや良質の読者を持ちうるのだろう。
逆に考えれば、小説や詩を読むことは、特に自分の波長に合った作品を読むことは、夢を生きることに近いのかもしれない。
ところでネルヴァルは「夢は第二の人生である」と言い、乱歩は「現し世は夢、夜の夢こそ真」と言った。この両者は似ているようで、ずいぶんと違う。ネルヴァルには賛同できるけれども、乱歩の感覚は私には分らない。こんなに鞏固に存在する現実を、どうすれば夢だと思えるようになるのだろう。現実が夢のようにはかない、というのであれば夜の夢だってそれこそ夢のようにはかない。この世の中をヴァーチャルなもので、人々の幻想によって動かされていると考えみてもいいのだけれども、それにしても人々の幻想にかけるエネルギーのすさまじさと言ったら途方もなくて、それがこんな現実を生んでいる。それをある種の夢のようなものだと言っておいて、でも自分が夜に見る夢の方がリアリティがあるとするなら、かなり唯我的というか、自分に重きを置いていたのだろうと思う。岸部一徳がキムタクに「ホームページか、そんなに自分が好きですか……」と言う宣伝があるけれど、ちょうどあのような感じである(人のことは言えないのはわかってるって!)。一種の自我肥大症というべきか。
ネルヴァルの方はそれに比べるとまったく大人しくて、自分にとって現実と夢とは等価であると言っている。一般的にわかりやすい考え方に敷衍すれば、内的な世界を、外的な世界同様に大事にしたいということだし、もっと語に即して言えば、自分にとって夢はただの夢ではなくて非常にリアリスティックなものだということだろう。現実も重いのだが、夢も重いのである。だが、現実なくして、夢はあり得ないではないか?
文学は大事だけれど、人生も大事だ。というよりも、人生があり、生きているからこそ文学もある。文学に没入するのもまた、一つの人生のあり方であって、それはあくまでも生きていればこそ、現実があるからこそなのだ。
言うまでもない、当り前の話ではある。ネルヴァルのように、私も夢は第二の人生であると思う。私は自分の夢を生きていると思う。過去を思い返せば、夢の記憶と現実の記憶とは等価になる。そのようだからこそ、当り前のことを、改めて確認しておきたくも思うのだ。