Isidora’s Page
藍の細道

●杉本五郎『映画を集めて』●      (2001年9月7日)

 この本は私の大好きな本の一つである。平凡社から出ていたが、今は絶版だろうか。ちょっと契機があってぱらぱらと読み返したので、少し紹介したい。
 杉本五郎というのは映画のコレクター、なかんずくアニメーション・フィルムのコレクターとして知られた人である。本書にはフィルムの本数としては近代美術館のフィルムセンターよりも多い、と書かれているが、亡くなられて長い年月が経つので、今では状況が変わっただろう。それにしても、ものすごいコレクターであることに変わりはない。
 本書はコレクションの話、アニメーションの歴史などについて書かれている。フィルムを集めるにはどうしたらいいのか、というエッセイでは、「自分はフィルムを集めるために生まれ、フィルムを集めるために生きているのだと思うことが大事です。そのためには他人から馬鹿とわれようが気違いといわれようがどこ吹く風と聞き流し、フィルムの蒐集は文化的遺産を保護する大事業であると信じ、正しきことの前には千万人といえども我行かんの気概を持たなければなりません。云々」と、これぐらいの心構えで望むのだ、と語る。ユーモアたっぷりなのだが、御本人はこの通りの人生を生きたのかも知れず、私には狂気のように見えるのである。
 偉大だ、とも思うが、それ以上に滑稽だ、という感じもある。人間というのはなんて欲望の強い生き物だろうかと思ってしまう。業の深い存在というべきだろうか。
 フィルムを集めても、一回見たらそれっきりというのが多い(アニメは三回は見るそうだが)、と書かれていて、コレクター気質というのはいずこも同じなのだな、と思う。書物の世界にも蒐集家がいて、本を集めはするが読みはしない、という人種がいる。資料として手元に置いておいて、何かを書く時に参照するというタイプもあるだろうが、そういうものとはまったく別に、ただ集める人というものがいるようなのである。本を集める人も、文化的遺産の蒐集だと思っているのだろうか。国会図書館にもないような本を持っていることは偉いことだとは思うけれども、まあそんなコレクションというのは稀だろう。
 私は、本の仕事をしてるくせに、そういう人の気持ちがまったくわからない。出来れば早く仕事をやめて本を処分したいと常々思っているくらいで、読まないものを集めて何が楽しいのか、と思う。本というのは読んで初めて楽しいのであって、持っているだけでは嵩張るばかりで全然楽しくはない。
 だいたい物を持っていることは鬱陶しい。贅肉が余分についているような感じである。いろいろとものごとに囚われて生きているわけだから、せめて物ぐらいは少なくしたい。とは言え、私の囚われているものごとというのは『幻想文学』を作ることと書くことなのだから、それに付随するものとして否応なく本などを持たざるを得ないという仕組みになっている。これでは悪循環だ。結局、自分などというものにこだわっていては、いつまでも身軽にはなれないのである。
 『映画を集めて』に話を戻そう。本書の「誰も知らないアニメーション」には、「愉快な百面相」をめぐってのエピソードがあって、日本のアニメ史家たち(みんな業界内では有名な人たち)の記述がことごとく自分の見たフィルムとは違っていることが書かれている。本当のところは分らないけれど、もしかしたら実物を見ずに、何らかの書物から引用しているのではないか、と。  だが、杉本自身が、自分の記事を勝手に編集者に縮められ、間違った記述を結果的に残すことになった、という経験を持っている。どこでどんなふうに、自分の言説がねじまげられているとも限らない。だが、それも記名原稿であれば、彼の責任になるだろう。本来責任のないところにも責任が生じる。そんな理不尽なことさえ、私たちのようにものを書く人間にはつきまとう。杉本は自分のそういう経験をふまえて、そういう可能性もあるが、と断ってはいる。
 それにしても、何をソースにするかということで、間違った歴史が広まってしまうというこの現実。いろいろなところで、いろいろな形で、それはあるだろう。このところ、あまりにも多くの本でそうした状況を目にしたため、私はちょっとやるせなくなっている。
 「藍読日記」でピーター・ディッキンソンの 'Changes' 三部作に触れたとき、間違った敷き写しについて述べたけれども、ものを書く人間の一人として、こうしたことにひどく不安を覚える。間違った記述をしてしまうことは現実にあるのだ。書いているあいだに思い込みでつい書いてしまうこと、あやまった記憶で書いてしまうことがある。そういうことが実際にあるし、あとで読むと、何でこんなことを書いたのわからない、という場合すらある。また、自分で経験したことの総体はわずかであって、書物で仕入れた知識しか私にはないのだから、それが間違っているのなら、私も間違うだろう。だが、それを恐れるばかりではものは書けない。ましてこんなに平気で間違ったことが罷り通るような状況では、書くことから下りるのが良い考えだとはとても思えない。
 何かを論じようとするのなら、アニメーション一つと言えども、馬鹿にはできない。私はたぶん一般の人よりずっと多くのアニメを観ているのだろうが、アニドウ関係の人たちにはまったくかなうべくもなく、また、アニメに対してはそこまでの情熱もない。アニメのマニアとはとても言えない。アニメそのものについて論じたいと思わないのもそのせいだろうと思う。だが、一方では、アニメを論じたものを眺めて、自分の見方との懸隔や、そのレヴェルの低さに驚くこともある。そう、誰もが杉本五郎のような知識のレヴェルに行けるわけではない。しかしそれにしても、アニメの表現技法やその成り立ちについて知りもしない人間が、アニメについて論じようとするのは奇妙なことだ。小説の歴史を知らなくて、現代の小説を論じることが出来るだろうか。
 そういうものを、今、この時代にあって読まされるとき、私たちの文化のレヴェルというものが、限りなく低くなっているということをも感じないわけにはいかない。
 杉本五郎は文化的遺産だと言ってフィルムを集めた。果してその遺産は有効に活用されているだろうか。

★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★