●発言することなど● 2002年4月7日
この世は力関係で動いている。弱い力しか持っていないものは、発言力がない。強い力を持っているものは、大きな声で発言することができる。そして言葉が世界を動かす。その逆も成り立つ。大きな発言力を持っている者は、権力もまた大きい。発言力というのは、自分の思うことをそのままに言えるということであり、それが届く範囲が広ければ広いほど力があるということだ。誰が言っていたことか忘れたが、テレビ業界では地をそのままに出せる人間ほど大物(あるいは隠然たる勢力を誇る)なのだそうだ。徳光和夫などは従ってきわめて威勢あるタレントなのだと。ジャイアンツ&長嶋のファンは無敵であるということか。そういえば球団のオーナーもまた長嶋絶対路線だが、彼ほどに発言力と権力の相同性を感じさせる人もいないだろう。
だから発言力が一見ありそうに見えても、例えば広告のようなものは、案外と力が弱い。コピーライターという職業が成り立つわけだから、広告主は言いたいことを言いたいままには言えないわけだ。そのままに言っても力を及ぼせないのである。
しかし言いたいことをそのまま言えないのは、人間(じんかん)に生きる宿命のようなものである。たいていの人は言えないままに腹膨るる思いで生きている。口は災いの元でもあるから、言いたいことを言った結果、大昔なら速やかな死が(あるいは緩慢で残酷な死が)訪れたかもしれない。今でも食いぶちが無くなって飢えることもあろうし、社会的な死に遭うことだってあるだろう。
他人のことを慮り、言わずにすますことはたくさんあるし、無用な荒波を立てるのであれば言わずにおこうとする場合も多い。言いだせば面倒なことになるのは目に見えているので、言わないでおく。そんなことは日常茶飯事であろう。
家族のような最も親密な間柄でさえ、言えないことはいろいろとある。まして友人知人程度では言えないことの方が多そうだ。たとえ声を大にして言いたい、などということがあっても、立場上なにひとつ公に出来ないということもあろう。たとえば私の場合は、『幻想文学』を発行し販売する側の人間なので、この雑誌の内容や執筆者の文章について、批判が仮にあったとしても、公にすることはできない。不味いものも、「相当の美味というのではなくても、不味いことはないだろう」と公には言って食べさせるものである。いくら自分の舌が肥えていて、この料理は不味いと思ったにしても、そのように言いながらお客に供する支配人はいない。
一ライターとして他社と仕事をするときも、なるべく何も言わずに仕事を済ませようとするが、これは単純に軋轢を避けるからで、前へ出るくらいなら、私は引いてしまう。石堂藍のイメージとは違う? 石堂藍は私の仮面の一つなのだから、当然だろう。
まあ、言わずに済ませられることは大したことではないのだ、とも思う。だが人によって痛みの感覚が違うように、人によって我慢できる範囲は違う。また、あまり我慢せずに言いたいことをしょっちゅう軽く出しておくという行き方もあるし、我慢に我慢を重ね、言いたいことを溜めた揚げ句に大噴火という場合もあるだろう。私は極端な内省型で、内にこもる性質があるので、他人からは伺い知れないうちに怒りが満ちていることがあり、人からは意味なく切れたように見えるというはた迷惑なタイプである。
このての人間は他者とコミュニケートをとるのが苦手なのだ。ふだんは感情をあまり見せることもなく、何を考えているのか外からはよくわからない。思考過程の説明などもうまくできないものだから(説明するのもかったるがるから)、相手の理解も得られない。何ヶ月、時には何年にもわたってためこんだ憤懣が臨界点に達すると突如として怒りをぶつけるが、ぶつけられた相手は何を怒っているのかわからず、短絡的で感情的な人間と思う……。しかも、こうした過程が起きる前に、そのすべてが目に見えるようであるため、つきあいそのものを避ける。怒りながらも自分の理不尽な点なども見えてしまってうんざりするが、だがなお怒りはあるので……といった具合である。しかしこんなふうに語ることこそ自己弁護で、読まされる方も迷惑である。やれやれ。
ストレートに、何の内省を加えることなくものを言うのはどんな感じだろうか。そういうことの出来てしまう人には、それは自然なことだから、どんな感じもこんな感じもないのだろう。そしてそのような発言が多くの人を動かし得るとしたら、快感だろうか。きっと快感なのだろうなあ。いや、たとえ素直な発言でなくて、意識して発したものだとしても、自分の言葉が威力を持つとしたら、それはやはり快感なのだろう。このとろの国会の騒動を見ていると、そのことがよくわかる。そんな快感を与えるために国会議員を選んでいるわけではないのだが。