Isidora’s Page
古雛の家

       ●出版の理想と現実●           2002年7月6日

 五月下旬の『出版ニュース』は日本の出版統計を掲載している。
 そのデータによると、年間の書籍刊行点数は、新刊が約七万点で前年度より9パーセント増。新刊の平均定価は2715円。雑誌を除く書籍総売り上げは約1兆32億円。書籍全体の推定発行部数は13億8578万冊。返品率が38.6パーセント。
 新刊刊行点数が最も多いのは断トツで講談社。二位が自費出版の文芸社。三位以下は角川書店ほか老舗が並ぶ。
 雑誌の刊行点数は約4450。部数は全体で約48億冊。何となくめまいがする。このほとんどはゴミとなる(古紙再利用がきちんと機能しているかどうかについては疑問を呈しておきたい)。
 ここに挙げただけでは資料としておよそ不充分なので、ほとんど何もわからないと思われるだろうが、ともかくも新刊点数があまりにも多いということはおわかりになるのではないだろうか。その中には、文芸社、新風舎などの自費出版書店もあり、資源の無駄遣いというほかはなんとも申し上げようのない駄本がひしめいているのである。
 出版業界の未来は暗い。年々暗くなっていて、明るくなる兆しはない。当然のことながら印刷業界とか書物関連のデザイン業界とか広告業界とか、何もかもが暗い。
 何を陰気になっているのかと言われそうでもあるが、このような統計資料を前にして、書物、あるいはこのように書かれたテクストなど、いわゆる活字文化と言われるもの全般について考える時、私はひどく殺伐とした気分にならざるを得ないのである。
 私はきわめてマイナーな書評家で、いわゆる文学的に高度な書評を書く機会はほとんど与えられないので、右から左へと流通させてあとには何も残らないような、うたかたのごとき情報を流している。真面目にそのことについて考えると、それは無駄以外の何ものでもないのである。その無駄なことをして、私はお金をもらっている(ほとんどそれで喰っている)のだから、始末が悪い。
 七万点の新刊のうち、五百冊ぐらいを読んで、書評を書く。だが、本当に買って読むに値する本というのは、年に十冊かそこらあれば幸運、とうようなものだ。「読まずに死ねるか」とおっしゃる書評家の方がいるが、読まずには死ねない本など、生涯のうちに百冊もあれば、充分ではないか。いや、ふつうはそんなに多くないし、また必要でもない。真に書評に値する本は少なく、また、読むべき本も多くはない。だが、刊行点数はかくのごとしというわけだ。
 悪貨は良貨を駆逐するということばがあって、それは貨幣の場合には、がめつい気分になればれも道理だと思うけれども、書籍でも同じようなこと(決して一緒というわけではない)が言えてしまうのはなぜだろう。単純に考えれば、読者がそれを選んでいるということになる。市場は読者迎合的に動くから、どんどん品下がる。同時に、良書も悪書も同じ値段になるのなら、製作者はコストの安いものを選ぶ。つまりは、出版社も手間ひまかけた本作りは切り捨て、コストパフォーマンスの良いものを目指しているという考え方が出来る。同じ価値を市場で有するのなら、悪い出来の方が手が抜けるのでより良いということになるのだろう。
 こんなことで、活字文化とは言えないのでは?
 などと考えているところにアンドレ・シフレン『理想なき出版』(柏書房)の書評を読み、早速購入することにした。
 結論から言うと、合衆国の実情はあまりにも違いすぎて、役に立たないが、いずれにせよ、危機的状況であることは同じらしいということだ。
 シフレンはフランス系ユダヤ人で、戦中に家族で合衆国に亡命した。父はフランスで高名な編集者で、プレイヤード叢書を作り、ガリマール社に叢書とともに吸収されたというエリートで、亡命後もパンセオンという硬派の出版社を経営した。比較的早く亡くなったので、パンセオンとは縁の切れていた息子は、他社の編集者を務めた後、パンセオンに招かれて編集を務める。ヒット作も硬い本も作り、そこそこだったが、メディア・コングロマリットへの吸収という事態を免れず、ついには、会社から追い出されてしまう。利潤追求の大企業(この場合はニューハウス)の傘下に入ることで、採算があわないと言って切り捨てられるのだ。
 日本でも同じだが、出版は独立採算では良書は出せないので、一社で平均して最終的にとんとんに帳じりを合わせるというのが一般的だった。儲からないが、文化を支えているという自負が金銭的な不遇を補うとされたのである。しかし、独立採算の波は世界的潮流らしい。これにはやはり、あまりにも拝金主義的になってしまった世界観が影響していると思う。拝金主義は、世俗大衆化したものが最高のものであるという価値観につながる。お金を生むものが偉いのなら、たくさん売れるものが良いものということになる。たくさん売れるということは所詮大衆迎合的なものだということだ。例えば、自己満足的な売れない文芸作品を出して、芸術だなどと偉そうにしているのは言語道断。『少年ジャンプ』のようにわかりすくてみんなに受ける世界を作る方が偉いのだ、という感覚につながる。これは要するに、良い仕事をすることは、趣味的なこと、一種のいぜいたくと見なされて見下され、金を儲けたほうが尊敬されるということにもつながる。
 こうした傾向について、本書でも「独立採算」「市場という検閲」という言葉で説明している。著者の言いたいことはよくわかる。出版人として、売れる本を作る一方で硬派の本もいろいろと出し、言論の自由を守ってきたのに、メディア・コングロマリットによる寡占状態で良書が世に出ず、充実したバックリストも無くなり、経営も従来の出版社のあり方とは違って、経営陣が無意味な経費をかけて(法外な何億という役員報酬、億単位の金のかかる贅沢な会議など)、社を赤字に追い込んでいる。良いことなど一つもないではないか、というわけである。
 著者はしばしば、採算を考えずに、新人の文芸作品やこれは必要だと思う社会関係の評論書を出さなければだめだと言い、初版数百部のカフカなどを引きあいに出す。あれが出なかったらどうなっていたことか、と。それは確かにそうかもしれない。だが、日本の出版業界にいる私には、そんな言葉すらもしらじらと響くのだ。別にカフカが出なくても何とかなっていたろうと……。
 私は、やはりポストモダンの子であるのか、硬派の本なんて何程のこともない、と思ってしまう。書籍なんて誰が必要としているのか? とも思う。情報はあふれている。情報なら本によらずとも得られる。ほとんどの人間にとって、書籍は不要なもの、意味をなしていないものなのだ。
 だがシフレンも言うように、「問題を徹底して論じ、考察する手段」として書籍は有効だ。つまり、深く考えるためには書籍が必要なのだ。インターネットという文字空間は、それに代わりうる可能性を持つが、現在、あまりにもごみ溜めと化しているウェブが有効な場所になり得る可能性については、到底楽観視できるものではない。ともあれ、社会全体が深く考えることをしなくなっているのだから、そうした硬派の本もどれだけ有効か、と感じる。
シフレンの本には、開拓すれば読者はいる、しかし圧倒的な宣伝費をかける大企業攻勢の前に、本自体が消えて行っている、という見解が見られる。しかし日本の場合、そもそも読者がいないのではないかと私は思うのだ。少なくとも、シフレンが言うような、ある程度の規模を持つ読者は。
 「本には、主流に逆らい、新しい思想を生み出し、現状に立ち向かい、いつかは読者に受け入れられる期待して待つ力がある」とシフレンは語る。素晴らしい言葉である。一流の出版人で、現に硬派の本もベストセラーにしてきた人だから、説得力もある。
 一出版人として、私は、そのような理想論を好ましくも思う。だが、今、絶望的とも言える日本の出版現況を見ながら、理想的な言葉に接すれば接するほど脱力する自分を感じざるを得ない。いや、私が感じているのは、圧倒的な無力感であり、徒労感なのだ。
 書評家としても、また、出版者としても、理想的なものがどんなものかを知っている。そこからあまりにも遠く隔たって、私はただ虚空を見つめざるを得ないのである。