Isidora’s Page
古雛の家

 ●遅刻魔のいいわけ●           2002年7月6日 

 ロバート・レヴィーン『あなたはどれだけ待てますか』(草思社)をおもしろく読んだ。時間感覚は人それぞれ違うのだが、文化によっても大いに異なるのであって、どの時間感覚が正しいとも言えないということがよくわかる。
 時間にうるさい人、ルーズな人、いろいろな人がいる。私はきわめて大ざっぱである。よく人を待たせる方だ。かつてはそうではなかったのだが、最近、すっかりそのように変わってしまった。
 私は横山さんに「いらち」(関西の方でせっかちを指す)の典型であるとお墨付きをもらったほどのせかせかした人間なのだけれど、おそらくその故に時間にいい加減になったのである。あまりにも忙しく、せわしなくしているものだから、時間で判断するのだと非効率的で、自分が今していることで判断するようになってしまったのだ。レヴィーンいうところの出来事時間で、時計時間とは異なる時間の流れを生きているといえる。今は原稿を書く時間で、それが終わるまではほかのことをしない、というようなものである。
 時間を基準に人生というものを考えてみると、時間を使っていくことがすなわち生きるということになる。人には決められた時間しか割り当てられていなくて、その人がどのように時間を使うかということが、どう生きるかということに直結する。限りがあるのだから、有効に使いたい、つまり出来るだけ納得できる形で使いたい、とは誰もが思うことではないだろうか。
 自分の時間を自由に使えるということは最もリッチなことだ。しかし、ことは面倒で、時間がありあまっているときには、自由に使うための資金がないことが多いから、時間を完全に自由に使うことはままならない。一方、時間を自由に使えるほどの資金ができるような状況は、往々にして、時間が素早く過ぎ去る社会であくせく働くということを意味していて、お金持ちほど自由に使える時間がないらしい。とはいえ、欧米人はおおむね(たぶんヨーロッパの方がアメリカよりも一層)、インフラがしっかりしているせいなのか何なのかよくわからないが、日本人などと比べるとよほどリッチな感じに時間を使っているように思うけれど。
 要するに、時間は、その人その人にとって固有の価値があるものだ。だから自分の時間を差し出すということは、格別な意味がある。例えば、自分の意志とは関わりなく、すべての時間を差し出さねばならないことを、奴隷状態と言う。普通の人は誰でも奴隷にはなりたくはないだろう。一方、自分の意志で誰か(何か)のために時間を使うことは、誰か(何か)を大事に思っているということを示している。互いの時間を差し出しあう、つまり一緒に時を過ごすということにも、大きな意味があるが、その関係性は一様ではない。レヴィーンも言っているが、人間関係の上下、対等などによって、ずいぶんとその感触は異なるのだ。例えば上位の者が下位の者と共に過ごすとき、上位の者がその場を支配するのは、上位の人間の方が時間をいいように使えるからである。また、目上の者が目下の者を待たせるのは許されるが、その逆ならば失礼に当たる。そのように、時間の使い方は、人間関係も反映するものだ。
 人を待たせるのは、どんな相手にもせよ失礼である、という教育を受けなかっただろうか。私はどうやらそのような教育を受けて育ったらしく、五分早めに行く、という習性をかつては持っていた。しかし今は、五分遅めに着くことがしばしばだ。よくいってぴったりの時刻で、早めに着くことは滅多にない。
 いつも遅れてくる人は、別に自分が偉いと思っているわけではなくて、時間にいい加減なだけなのだ。間に合うと思ったのだ、というのが彼らの言い分である。失礼、という感覚も薄い。やあごめんごめん、という程度のもので、悪気も何もない。そのような人に待たされることが打ち続き、結局、自分のように礼儀にうるさい人はそんなにいないのだ、と思うようになった。そうすると、失礼だと感じていた感覚も何だかバカらしいものに思えてきた。
 また、人を待たせることは、ある意味でその人に甘えることでもある。それは私には心理的負担となる。そこでそうした事態を避けるために、遅れないようにしてきたのである。だが、そんなこだわりもあるときから捨ててたくなった。甘えればいいではないか、と思うようになった。
 現実的には、さすがに簡単には甘えられない。少し遅れると、恐縮の極みという感覚がわき起こる。しかし、この数年、遅刻の常習犯になって、だんだんそれに平気になってきた。まあ、いいか、と思う。それに応じて待たされるのもまったく苦にならなくなった。
 ほんとは遅刻しないのがいちばんだけどね。
 いつも待たせているみなさんごめんなさい。