●図書館の話● 2002年12月3日
『誰が本を殺すのか・リベンジ』という本が出たが、読む気は起きない。『誰が本を殺すのか』に対する批判や共感が多数あったので書いたということだが、柳の下的な本を著者自ら書いてしまうこと自体に、「活字文化の頽落を憂える士」の本音が透けて見えるような気がしないか? こんな出版不況のご時世だ、売れる時に売っておこう……。望む声があったからだという著者からの反論は考えられるが、前著でだってまともな実効力のある提言がなされているわけではない、ただの現状分析に過ぎないのだ。二作目だって、結局、こんな試みもあるという実例が増える程度のことだろう。こんな本が出てしまったので、図書館について書くといったのが宙に浮くことになったが、リベンジの方を読まなくても、まあいいか、書いておこうという気分になったので、書いてみる。
林望は「図書館で借りた本は頭に入らないからダメだ」という旨のことをのたまったそうだが、借りた本だろうが買った本だろうが、きちんと読むのであれば、かわりがあろうか? だいたい自腹を斬って本を買ったりしない(もちろん全部とは言わないが)大学の先生に、図書館で借りるのはダメなんぞと言われる筋合いはない。私が若いころに北沢書店に勤めていた人から聞いた話だが(情報が古すぎて申し訳ない)、本代を最も踏み倒すのは大学教師なのだそうだ。また、研究室に行くとわかるのだが、大学図書館の本を私物化している教師も、私の通っていた大学にはいたものである。これは××先生が借りたまま、一年返してもらってない……ふざけるなよ! それはともかく、図書館はお金のない、私のごとき貧民層には、強い味方であって、図書館のない生活は考えられない。
公共の図書館にもさまざまなものがあるが、ここでは地方自治体の図書館について話をしたいと思う。
神奈川県民である尾之上浩司くんに、埼玉の図書館はいいなあと言われたことがある。県内の図書館で互いに貸し出しあうんでしょ、と彼は言うのである。山梨以外は埼玉にしか住んだことがないから、図書館というのはだいたいそういうものなのだと思っていた。私は最寄りの浦和の図書館を利用しているが、そこの目録にはない本を、まずはさいたま市の図書館(大宮と与野)で調べてもらい、そこにもなければ県立図書館、さらにその他の市町村の目録を調べてくれるのだ。文学全集などと違ってエンターテインメント系は欠品が多いので、こんなふうにしてもらえると、ものすごく助かる。かなり広範な本が入手できる。すべての県単位でこういうことがなされたらいいと思うが、尾之上くんの言うように、そういうシステムが確立していない地域もあるのだろう。
私の住んでいるところは、都立図書館のように在庫の豊富なところも遠くはないし、母校の大学図書館も自由に使えるし、さらには国会図書館も近いから、いざというときはそこへ行ってもよいが、待つことをいとわなければ、市立・県立図書館で国会図書館から貸し出しもしてくれる。ただし書籍のみ。今はもう手に入らない本を、図書館を通じて、読もうと思えば読むことができるのだ。ただし館内のみの閲覧である。(県立を通じての貸し出しは全国共通だと思う。)また、国立大学の図書館も一般人への公開の義務があるらしい。
図書館の機能を、あまり読者のつかない、しかし出版する意義のある硬派の本の書庫に求めるという考え方がある。一方では、よく読まれるような本をたくさん購入して、地域住民へのサーヴィスに務めるべきだという考え方もある。要するに税金を何のために使うのか、という問題である。前者の考え方は、自治体に文化の保護を積極的に求めるものであり、後者は自治体はもっぱら地域住民に奉仕すべきだということになるが、ことはそう簡単には割り切れない。
民主主義そのものの問題とも関わることでもあるし、また行政とは何かという問題にも関わることだと思うのだが、多数が求めることを実現するのが行政の役割なのか? ということである。例えば『五体不満足』を大量に買い込むことは、確かに地域住民の要望に添うことだろう。だが、数人しか読む人がいないような『日本が知らない戦争責任』を買わないことは、地域住民をないがしろにしていないと言えるのだろうか? 行政にとって一人ひとりの重さは均等のはずだ。そして本を読むのは必ず個人であるから、個人にとってその本が他の人も多く読む本なのかどうかということは何の関係もない。その人にとっては、自分の好む本があるかないかというだけのことである。個人の側から見れば、それがどのような本であれ、読みたい本がないということは税金の無駄遣い(行政のサーヴィスがなっていない)と感じるはずだ。行政の側から見れば、おのずと見解は異なる。効率の良い税金の使い方をしなければいけないわけだから、一冊で何人もの人を満足させられる本を優先的に購入することは理にかなっている。充分にたくさんの読者がいるなら、ほかの本に当てる予算を削って『五体不満足』を百冊買うことは、サーヴィスが良いということになる。同じ予算で多数が満足するためには、少数派は犠牲になってもやむを得ないのである。言ってみれば多数決主義である。これを民主主義とは言わないが、しかし、税金をどう使うのかということを考えたとき(というのは行政はどうあるべきかということだろうが)、多数決主義に拠らない考え方をとることは、たいへんに難しい。文化の保護だとかいうような視点から単純に割り切れるような問題ではないということがわかるだろう。
図書館へ行って、私が最もよく見かける利用者は高年齢層である。年金ぐらしで、読書だけが愉しみの老後を送ることになった社会的弱者が、「自腹を斬ったらどうなんだ?」と思うような本まで図書館で読もうとすることを、一概に非難できるだろうか。その人の読書力がさほどはなくて、小難しい本は読みこなせないから手に取らないとしても、はたでとやかく言えるだろうか。
子供たちもまた図書館を多く利用するが、彼らの事情もまた似たようなものである。
そうした読者を受け入れていく地方自治体の図書館が、多くのリクエストがある一般的な本を複数仕入れることには無理がない。
とはいえ同時に、図書館は、いわば地域の文化的基地ともなり得る存在である。もちろんどこもこの不景気で予算もなくて苦労しているに違いないのだが、ともかくも書籍という情報の集積地であるのだから、それをもとに情報を発信することもできるのだ。ある程度以上の規模の図書館では、図書館便りで本の紹介をしたり、また特集を組んで本の展示をしたりといったことをしていることと思う。そうしたことをもっと積極的にするとすれば、図書館員が文化的に意義ある本だと思うものの一部を購入してそのための特別の書架を設けたりすることもできるだろう。また、郷土作家や地方出版を支えるということも、自治体としてはふさわしいことに違いない。その程度で充分ではないだろうか。私は、地方自治体の図書館の存在意義が硬派の本のための書庫であるとはとても思えない。例えば全県単位で、一つの図書館とみなすなら、そのような考え方も多少は有効だろうと思う。しかし、市区町村単位にそのようなことを要求するのはお門違いのように思える。
そもそも年間七万冊とも言われるこの過剰出版の中で、文化的意義などと考えることすらバカらしい。
例えば、私だってそうだけれど、出版人の中には、自分の仕事こそこの国の文化を支えているのだという矜恃を持って本を造っている者がいるはずである。しかし、造っている側はそう思っていても、そんなことは理解されないのが世の常である。だいたい、どうして客観的に「これは文化的意義がある」などということが判断できるだろうか。いわゆる「識者」の判断など当てにはできないし、読者を頼りにすることもできない。図書館の司書ならそれができると考えるのもおかしな話だ。(実際、図書館で最も改革すべきは、司書の質である。リファレンスの使い方ぐらい心得ておけ!)
はなはだまとまりがないが、今の図書館がこれでいいのか、という議論に対しては、しょうがないだろうと答えるほかないということである。行政に文句をつけるのなら、もっと別のことにエネルギーを使いたいものだ。
*なお、同じ税金を払っていても、規模の小さい自治体では図書館の恩恵に浴すことがほとんどない。山梨の長坂町には図書館はなくて、農村環境改善センターの中に小さな図書室があるだけで、まったく使えない。自治体の規模によってはこういうところも多いに違いない。そういうことを考えると、あまり人が読まないような本を抱えている図書館が現実にあるということ自体が、税金が実は均等に使われてはおらず、文化的な貢献をしているということを示していると思う。
(2010-4-7追記)その後市町村合併により長坂町は北杜市となり、図書館は拡充された。八市町村が個別に持っていたものが取り寄せも簡単にできるようになり、非常に充実している。都会とは比ぶべくもないが、立派なものだ。利用者があまり多くないようなのが、むしろたいへん残念である。