Isidora’s Page
藍の細道

     ●幾何学的精神●             (2002年12月3日)

 「人間は悲惨と偉大の矛盾である」という名言を吐いたパスカルは「幾何学的精神/繊細の精神」なる響きの良い言葉も考え出した、ハイ・センスな人だ。「幾何学的精神」とは厳密な推論を基調とする、分析的、客観的な、学問に向く思考形態のことであり、「繊細の精神」とは日常の複雑な事象を推論によらず、全体として直観的に捉えるような、人生の諸問題を解決するために有用な精神の動きである。
 澁澤龍彦さんが私たちの作った幻想文学新人賞という賞の選考者になってくださったとき、その選考経過を語るエッセイに付けられたタイトルが「もっと幾何学的精神を!」というものだった。
 文学は基本的には「繊細の精神」をより多く使うものではないかと思うのだが、敢えてここで「幾何学的精神」という言葉を持ち出したのは、幻想的であるということが、曖昧な気分として醸成されているに過ぎず、ややもすれば安易な雰囲気に流れていることを憂えたためであろう。もう一つ、澁澤さんは「幾何学的精神」を「幾何学的なものを愛好する精神」として使う気味があり(「夢について」など)、遠近法なり直線なり多角形なり、幾何学という言葉から想起されるようなかっちり、くっきりとしたイメージを好まれるということもある。
 澁澤さん自身の言葉を引けば、「夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じこんでいるひとが多いようだ。もっと幾何学的精神を! と私はいいたい。明確な線や輪郭で、細部をくっきりと描かなければ幻想にはならないのだということを知ってほしい」(『幻視の文学1985』)となる。それはまったくその通りだろう。
 幻想小説では非日常が描かれるわけだから、それを読者に納得させるためには曖昧な表現ではない方がよいに決まっている。例えば山尾悠子さんが、「マドンナの真珠」で、〈赤道の上を歩いていく時の足の裏の感触がまざまざと思い浮かぶ〉のがすごいと言っているが、これなどはまさにそのような例だと言える。あり得ないことの細部が丁寧に――その丁寧さも、情緒的というよりは、むしろ機械的と言ってもいいような正確さで――描かれることで、幻想が立ち上がるのだ。
 およそ二十年のあいだに幻想文学はよほど文学界に浸透して、その書き手もたいへんに増え、作品数もジュヴナイルを中心に膨大な数に上る。全体の数が増せば、スタージョンの法則によって、クズの絶対数も増えるわけだが、クズでないものも増える道理である。例えば津原泰水や古川日出男のように、 幾何学的なものへの偏愛は措いておくとして、「明確な線や輪郭で細部をくっきりと描」くことで幻想を立ち上がらせるということを、よくよく呑み込んで良い作品を書く作家も出現している。たいへんに心強い。
 一方では、いまだそのことが理解されていない領域もある。今、便宜上、純文学界というものを考えてみると(芥川賞の周辺といわゆる文芸誌)、まったくこのことに思い及ばないままに、幻想小説を書いている人間が多くいるように思われてならなない。また、批評する側もまったくそのことに頓着していないように見える。「夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想」小説になるわけではないのである。例えば村上春樹の『海辺のカフカ』など、どうでもいいところは細かいが、肝心の幻想的な部分がまったくイメージ貧困で感性的なばかりで表現力を欠き、しかも全体の流れとしてもでたらめで説得力がないため、まったくの愚作となっている。
 『幻想文学』を造ってきた人間として、幻想小説があふれていて、時にはベストセラーになるような状況を喜ぶべきなのかもしれないが、同時に索漠とした気持ちにならなくもない。幻想的と認定されるような設定にし、それなりの小道具を持ち出して幻想小説にする、というような安易なものばかりが増え、しかも、そうしたものが、「良い作品」として評価されてしまうからだ。
 もしも澁澤さんが今も生きていたらどうだったのだろうと思う。澁澤さん自身も最後には小説家になってしまったのだし、六十歳を越えたら文芸時評のようなことはなさらなかったかも知れないけれども、それでも澁澤さんが世間でもてはやされているような愚作を「つまらなかったね」と一言、発言しただけでも、随分とちがったのではないか。そう思うのは、私の幻想だろうか。
 ともかくも、澁澤さんが幻想文学全体に与えた影響にはたいへんん大きなものがあった。私前後の世代(五十歳前後の人から、三十歳ぐらいまでの人)で幻想文学に触れているような人には、澁澤さんの影響を受けた人や澁澤さんを愛好するが多い。
 ごく一例を挙げれば、山尾悠子さん。澁澤的世界の影響を受けて作家になった端的な例ではないだろうか。彼女の作品は明晰なところはくっきりと明晰で、まさに幾何学的なところがある。同時に夢の文学の系譜にも連なっているので、混沌としたところもまた魅力となっているわけだが。
 ほかにも澁澤さんの影響を受けて、あるいは澁澤さんの仕事を入り口として、あるいは水先案内として、幻想文学の世界に分け入った人、そしてこの文学界で活躍している人は多いと思う。『幻想文学』の編集者である東雅夫にしてから、やはり澁澤さんの影響を抜きには語れないし、国書刊行会の編集長である礒崎氏もまた自他共に認める澁澤マニアだ。
 『幻想文学』でも最も売れたのも澁澤龍彦スペシャルとラヴクラフト&クトゥルーなので、このことからもおおむね日本の幻想文学の嗜好傾向がわかるような気がする。
 ラヴクラフトはさておき、澁澤さんがどんなふうに多くの影響を与えたのかは、とても私の論じられるところではないけれども、それが幻想文学に関わる人の精神的な面に今も大きな影響を与えているようにも思える。人は何にしても COOL なものを真似たいと思うものだ。
 澁澤さんについて考えるとすると、やはりその最大の特徴は端正な語り口、独特のフェティシズム、知的な趣味の良さといったものにあるように思われる。ちょっとボルヘスに近いようなところもあって、澁澤もボルヘスも好きという人は相当多いのではないだろうか。
 澁澤さんは、幻想文学に関わるさまざまな周辺領域について書いたけれども、どんなものに対しても、あくまでも知的遊戯の対象物として見ているのだと思わせるような距離感がある。趣味嗜好の発露の仕方がとても上品で、崩れない。余裕を感じさせて、かっこいい。それは、荒俣宏とか高山宏あたりには欠けている――あるいは意識的に捨てたのかもしれないが――ものだろう。そして距離を取りつつも愛しいものは愛しいとさらっと言ってみせるあたりが、いっそうダンディである。
 澁澤さんは、錬金術など、オカルティックなものについて語る場合も、実に品の良い距離の取り方をする。また神秘的なものについて語る場合も、神秘的なものを賛嘆しながら、「それはあくまでも過去のものであって、私たちは神秘の感覚を失って久しい」というふうに、きちんとした距離を置くのである。その点でもボルヘスに共通したものを感じさせる。
 しかしそのような距離の取り方が次世代に伝わって小説などに活かされるようになったとき、知的玩弄物に堕す傾向は否めないのではないだろうか。お飾りとしてのオカルティズム、他人事のように理性的な解読を施された神秘主義。
 もちろんこうした傾向を一概に否定するつもりはない。ただ、それは私自身が求めるものとは違う。私は意匠としてのオカルトにも研究対象としてのオカルティズムにも興味はない。神秘主義的なものを距離を取って眺めていても仕方ないと思う。もちろん理性を忘れて熱狂的にのめり込んだりするのでは、さらにどうにもならないが、あまりにも知的な距離の取り方ではつまらないし、そんな位置で小説を書いたところでどうだというのだ、と思う。
 そうしたことは澁澤さんのせいというわけでもなくて、むしろ日本の文学界ではその方が受け入れられやすいのだろう。そして日本の文学の愛好家にしても、そうしたスタンスを望んだからこそ澁澤さんを好んだのかもしれない。
 またしても、自分が規格外だということを述べ立てるだけに終わりそうだが、私は、距離の取り方が美しくみごとに決まることよりも、距離を取ることを敢えて無視する方を選びたい。くっきりとしたものが混沌に溶け込んでいくその一瞬を、遠近感が喪失する瞬間を味わいたいのである。

★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★