●地下迷宮はいかにして出現したか● (2002年12月3日)
*稲生平太郎『アクアリウムの夜』を未読の方はこのページを読まないでください。読んでおもしろかったという方にも出来れば読んで欲しくはありません。先日、稲生平太郎『アクアリウムの夜』を読んでくれた友人から感想の手紙をもらった。友人は、仮にAさんとしておくけれども、『幻想文学』の読者でもあり、日本の近代文学もよく読んでいる、私と同年齢の人である。いささか理屈っぽいところもある人だけれど、文学の機微もわかる人だ。で、その手紙を一読して驚いた。評価としてはどちらかと言えば否定的で、それは別にかまわないのだが、その否定の方向に驚いたのである。
それは、「面白くなりそうなのに、後半が舌足らずで尻切れトンボ」というものだった。さまざまの伏線が豊かに張り巡らされているのに、それらが置き去りにされて、思わせぶりな美女に誑かされたような印象である。例えば、白神教が物語の中でどのように機能しているのかピンと来ないし、金星人との関係も腑に落ちない。白神教がなんだかぼんやりとしているので、英子と藤村のエピソードが生きてこない。また、猫のフウについて広田が思うこともいったい何なのだろう。水族館を彷徨するシーンなどには固唾を呑まされるだけに残念である。……
一瞬、驚きはしたものの、冷静に考えてみれば、このような意見はなるほどもっともである。この作品が話題にならなかったのは、こうしたことを思わせる作品でもあったためか、と思われるほどに真っ当な見解であって、改めて、小説を読むとはどのようなことかということを考えさせられもした。
Aさんが篤実な読者であることは疑いを容れない。丁寧に丁寧に読んでくれて、私が著者だったなら作者冥利に尽きると思うところである。しかし、私はここで、敢えて反論を試みたい。私はこの作品を偏愛しているので、きちんとした評価が下せるという自信はまったくないのだけれども、少なくとも、私の予想を越えたAさんの読解に対しては、いくらか自分なりの読み方を示せるだろうと思う。
まず、「さまざまの伏線が豊かに張り巡らされている」という点から問題にしたい。稲生平太郎論を書いてくれた谷澤森君もこの作品では「伏線が見事である」ということを語ってくれたことがある。谷澤君の場合は、Aさんとは異なり、その伏線はきれいに解かれているという見解であるようだが、たくさんの伏線があるということでは一致している。
「伏線」という言葉の意味にもよるとは思うが、私自身はこの小説に、伏線が張り巡らされていると感じたことはない。伏線とは一般的な意味として、後の出来事に関わるようなことをほのめかしておくということだから、そのようなものがない小説の方が考えにくく、その限りでは伏線も敷かれてはいるだろう。例えば、カメラ・オブスキュラのもぎりが異様な雰囲気であることを、広田はその外見描写を通じて強調しているが、それはあとで活かされてくるので、伏線と言えば言えるのかもしれない。また、「タレカヒトリハシヌ」というお告げをめぐって、その表面的ではない意味が暗示されるシーンがある。脅えきっている良子が広田に「気づいていなかったのね」というくだりで、その意味は後に明かされることになるのだが、明らかに読者に疑問を持たせるこのようなもの。あるいはもっと直接的に「この一年がどんなことになるのかを、その日の午後、高橋もぼくもまだすこしも知らなかった……。」というような、人の気を引くような広田の述懐。しかし、こうした例は、それぞれ濃度は異なるにしても、すべて小説を盛り上げ、読者を引っ張っていくための技法であって、伏線を敷いているというようなものではないように思われる。少なくとも、その後のシーンのエクスキューズとして密やかに張られる、ミステリ的な伏線とはまったく別種のものである。
単に言葉に対する感覚が違っているだけかも知れないが、伏線という言葉とこの小説はそぐわない。謎めいた感じを出すために普通ならば暗示に留める部分を、むしろはっきりと書いていることがこの小説では大事だと私は思う。さまざまな奇妙な情報が断片的に提示されているが、それらは何か恐ろしいものにつながっているということが常に示されていて、そのことが作品全体の色調を整えている。そして色調そのものがこの作品においては、きわめて重要なものなので、それを伏線と言ってしまうと、何か違うものを読み取っているように、私には思われてしまう。
また、Aさんは白神教に関わることを解かれない伏線の一例として挙げているのだが、そうした見地からすれば、それはそもそも伏線とさえ言えない。白神教がついに謎めいたままに終わること、というよりも、あのカメラ・オブスキュラとはいったい何だったのかという謎さえも結局は解かれずに終わることが、恐らくは尻切れトンボという感じを与えるのだろうが、それは決して明快に解かれてはならなかったのだと私は考える。というのも、そうした情報の意味が解かれ、白神教の実態が完全に特定され、事実関係が明らかとなるのであれば、この小説はまったく違ったものにならざるを得ず、それでは作品の意味そのものが違ってしまうからである。
しかし、やはり小説を合理的に読みたい、謎はすべて解かれるべきであり、何だか筋の通らないのはいやだ、という読者もいるだろう。そういう人は、この小説を読まなくても良い、もしくは読んでも仕方がないのだが、そういう感覚をもエスケイプさせる細くて危うい道がないことはない。本当はこんなことは言いたくはない。しかし敢えて言うならば、この作品は、広田義夫の一人語りであるということである。彼は、すべてのことが終わった後に、一年を振り返って語っている。彼は、今や、霊界ラジオに耳を傾け、良子の呼び声を聞き取っている。つまり、語り手である彼は既に狂っているのであり、そのような彼に、不条理でない感覚を求めること自体がおかしいのだと言える。猫のフウと高橋の結び付きを脅迫的に考えてしまい、それを疑問に思わないのは、狂った彼が語っているからなのだ。このように正気を半分失った人間が語っていると考えて読み直すとき、この作品はいわばミステリ的に張られた伏線が解かれるような、比較的すっきりとした作品として読めるのだ。白神教と金星の結び付きは、広田の妄想の中でしか起きていない。現にそのようにしか書かれていないのだから。藤村の語りは妄想の産物であり、そして藤村の妄想が広田の妄想を助長する。英子に関しても怪しいものを広田だけが感じ続けるのであって、それも藤村に影響されてのあとづけの感覚だとも言える。最終的には高橋の死に様だけが不可解な要素として残るが、その死の現場もミステリ的に詳細に描かれているわけではないから、屁理屈はいくらでもつけられる。この前後のことは広田によって何となくそのように思われ、推測がなされるだけなので、確証的なことは何もなく、いかようにも理解できよう。もとよりミステリでも何でもないのだから、その点が興ざめな形で明かされる必要もないだろう。さらに愚かしいこ見方をするなら、狂人の手記の何が信用に足りるだろうか、とも言えよう。しかし、こんなふうに考えてしまう合理主義ほどくだらないものがこの世にあるだろうか。
かつて――およそ百七十年程前――ノディエは『パン屑の仙女』の序文で「良質で真の幻想物語は、信頼が幻滅した時代においては、狂人の口から語らせる以外に適当な設定をもたない」と述べ、特許を取ってもいいくらいの意見じゃないだろうかとふざけているが、それは今も変わりない真理かもしれない。しかし、狂人に語らせることでもっともらしい幻想物語を描くというようなことを稲生平太郎が狙ったというわけではない。このノディエの特許的意見にしても、逆説的なものであって、この狂人とは実は本当の狂人ではなく、他人からは妄想を生きているように見えるが、実はそうではないという予想可能な落ちが付けられている。あたかも狂人が語っているかのように見えること、それが真実、いや、それもまた真実なのだ。
『アクアリウムの夜』自体は、狂気などということは頭から追い払い、ごく素直に、ホラーとして愉しめば、それでよい小説だろう。繰り返すようだが、断じてミステリではないので、作品中に散らされたさまざまな断片が整然と並ぶことや、謎めいたあれこれが整合的に解釈されることを期待してはならない。現実は、整合的ではない。現実は解かれることのない謎であり、不条理である。人間は、そのことを学び続けてきたのではなかったろうか。
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この作品は、プロットとしては通常のホラー小説とあまり変わるところがない。謎めいた見世物が出て来て、それがどうやら水族館の地下と関わりがあって、しかも新興宗教の秘儀がそこには関係しているらしいということが語られている。秘儀は蛇体の神を通じてこの世ばかりか霊界をも支配するためのものであって、それは十六歳前後の少年少女の心身を必要とするもののようだ。蛇神の信者は何らかの超自然的な力を有していて、主人公の親友はその犠牲になり、自分と恋人も狙われている……。と、表面的なストーリーを取り出せば、変形クトゥルー神話とでも言おうか、まことに凡庸なものであって、このストーリーで、あるいは菊地秀行ばりのオカルト・アクションが、あるいはスティーヴン・キングばりのモダンホラーが書けそうである。物語の中に散らばっているさまざまな素材も、そうしたものを書くことを妨げない。どころか、そうしたものを書くのに充分適している。あるいはそういうはっきりとしたものだったら、きっと白神教についてももっと詳しく書かれたであろうし、高橋の死の真相もオカルティックにして奇妙な説明がつけられたであろう。良子と主人公が死ぬにしても助かるにしても、もっと凄絶なクライマックスとして描かれただろう。Aさんの言う「舌足らず」のような印象を誰にも与えることなく、エンターテインメントとして愉しめたという読者も大勢いたのかもしれない。
だが、作者は、そのような、大雑把に括って言えばSF的整合性には、一切の価値を置いていないと私は思う。少なくとも、私はこの作品の意義を、そのようなわかりやすいホラー作品にはしていないことに置いている。この作品で味わうべきなのは筋立てではなく、もっと官能的なものである。そのためには、スッキリとしたストーリー展開であってはならないのだ。
思春期の少年がふとしたはずみに入り込んでしまった仄暗い裏道は、理性的に律しきれるようなものではない。ホワイト・ノイズに言葉を聞き取り、壁のしみに意味を見出そうとすれば、別様の現実が立ち現れずにはいないだろうが、それは人間的理解の及ばぬものであろう。言語化を阻む世界と言ってもよい。しかし、ここではそのような、世界の一側面を描くことそのものを中心的に扱っているわけでもなく、また、世界との対決を描くことを眼目としてもいない。世界が関わるとしても、それは広田がその世界を味わったという点においてなのであり、重要なのは広田の感覚そのものなのだ。
『アクアリウムの夜』は、すべて一人称の語りによっているが、そのため通常、読者は語り手に同調することになる。ごく素直にこの物語を読むならば、私たちは、この広田義夫という空想癖のある、きわめて感受性の強い、水族館で軟体動物を見ることに喜びを覚えるような少年が味わった世界の感触を、追体験することになるだろう。読者は否応なしに、現実が危ういものになっていく感じを味わうことになる。言ってみれば、広田とともに惑乱していくことになる。それは、ひとつの夢を見ることに近い。
前に白神教の謎は解かれてはならないといったこともこのことに関わる。夢は整合的に解釈されたとき、その夢の味わいを失うからである。
それ自体夢幻のような教祖の手記を始めとするさまざまな断片は、確かに線でつなげられ、全体像が窺えるほどの、オカルティックな幻想を形作っている。だがそれは基本的には、広田の頭の中の妄想に留まっている必要がある。金星人については、高橋の狂気の中に現れるだけだが、それを「冥界の支配」というキイ・ワードを媒介として白神教に結びつけているのは、広田の妄想なのだ。だが幻想なり妄想なりが現実に作用するなら、それは同時に現実でもある。この作品では、現実はそのまま幻想が浸出する場であり、妄想の跳梁を許すのが現実なのだ。しかしそれがもしも、他者にも明瞭で共通の理解を得られるような現実としてはっきりとした形を取ってしまったなら、つまり白神教がクトゥルーのような邪教だということになってしまったならば、侵食しあう妄想と現実の、奇妙で不安定なアマルガム、光り輝く闇は立ち現れて来ないだろう。テーマとしても幻想文学的に単純に図式化されてしまう、現実の裏側にはもう一つの現実がある、という形で。図式的な納得や理性的な理解は、幻想を固定化して現実に還元するに過ぎない。
猫のフウの病気が高橋の狂気と結び付けられるのは、妄想と現実とが分かちがたく結びついていることを象徴していると同時に、広田が危うい位置に立っていることも示している。フウの失踪と高橋の死を結びつけて疑わない広田は、別様の世界認識へとたどり着いてしまったのである。私はAさんにこの箇所への違和感をはっきりと指摘されるまで、ここでひっかかる人がいるとは考え及ばなかった。広田がさまざまな体験を経て、ここに至るのは不自然だとは思わなかったし、またこのようなシンクロニシティの感覚はそれほど特異で受け入れられにくいものだとは考えなかったからだ。だが、確かにもしかすると、この箇所で「ついていけない読者」を出してしまう可能性が高いのかもしれない。客観的な評価は私にはもはや出来ないので、この点に関しては、いささかの不安を覚えないでもないとだけ言っておく。
この小説は広田の感覚を描いていくものであり、読者はその官能を味わうのだというのと同じことが、藤村多佳子の回顧談にも言える。入れ子の中で多佳子が語っているのはあくまでもそのような世界に触れてしまったときの、感覚的な想い出である。そこでは多佳子の官能がすべてであり、それは現実に英子がそのような邪教と関わる存在だったかどうかということを問題とはしない。もちろん素直にこの章を読めば、英子は白神教の巫女のような存在であると読めよう。しかし、そのことが物語中で事実であるかどうかは、どうでもよいことだ。多佳子にとって、それはまさにそのような宗教的な秘儀につながる危険な体験であったのであり、そのことの生々しさが感じ取れればそれでよい。
そしてこの藤村の味わった不思議な感覚は、広田が生きている世界を裏側から読者に味わわせる役割を担っていると言える。高橋の場合と並んで、こうした世界のあり方を肯定的に受け止めてしまったケースデータとして示され、そこから、広田の味わっているであろう世界を補強し、読者の想像力を助けている。高橋の狂気が、一見理性的な方向から訪れていることが語られているのと対照的に、感覚的な表現が多用されているのも、そのためだろう。
白神教がどのようなものであり、それに英子がどのように関わっていたのか、本当のところがはっきりしないということが、果たして多佳子の体験のリアルさを削ぐものだろうか。そうしたことが明晰になっていれば、その生々しさが読者によりリアルに感じ取れるのかと言えば、私は逆ではないかと思う。むしろ多佳子の体験は、読者にとって単純な恐怖の体験に変わってしまうだろう。だから私は、この部分でも、白神教をめぐるさまざまなつながりがあからさまにならないことは、作者の要求した必然であろうと考える。また多佳子が精神を病んでいるかどうかが決して瞭然とはしないのも、これまで再々述べてきたのと同じ理由による。だが結局、そのために、あの、夢のように描かれている藤村の体験が、充分に活きた感じを与えなかったのだとすれば、それはいわば、稲生平太郎の技術の限界であり、同時に、読者の側の限界でもあるだろう。
何もかもが曖昧なままに、広田は水族館の地下へと入っていかねばならない。最初にカメラ・オブスキュラで見たあの幻影が、広田にとって現実のものとなるためには、地下の迷宮が現出するためには、そうでなくてはならなかった。この小説全体が過酷な通過儀礼を、というよりは後戻りの不可能なイニシエーションを描いているのである。そしてそれを読者も共に生きることが、この物語を読むときの幸福な読み方なのではないだろうか。
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