●『ハリー・ポッター』について● (2003年1月7日)
11月25日(2002年)の毎日新聞の夕刊に、『ハリー・ポッター』を始めとして、なぜ今ファンタジーが読まれるのかについてのコラムが掲載された。あすなろ書房の社長へのインタビューをもとにしたもので、そのインタビュー部分を抜き出してまとめると、次のようになる。「世の中の人間関係がギスギスしているので、現実と遠く離れた架空のいい話を読みたくなるのだろう」「いまのブームは『ハリー・ポッター』のおかげだが、年に一度しか出ないので、ファンは待ちきれずにほかのものを読みたくなる。ただし日本の作品ではダメ。海外のものに限る」
小さなコラムだが、これにはひっかかった。まず「架空のいい話」を読みたいという思いと、『ハリー・ポッター』に起因するファンタジー・ブームとはずれているのではないかということが一つ。また、「日本の作品ではダメ」という決めつけは間違っているのではないかということが一つ。
あすなろ書房は《ローワン》シリーズ、『ネシャン・サーガ』など海外ファンタジーの翻訳を出している出版社だ。日本のファンタジーを出版した業績がないので、日本作品はダメだと軽々しく言ったわけだろうが、現実的なデータに基づくものでも何でもないこのようなコメントを、新聞に堂々と出されてはたまらない。日本のファンタジー作家は怒る権利があろう。上橋菜穂子や梨木果歩や荻原規子らの児童文学系ファンタジーを見ても、小野不由美、ひかわ玲子などのヤングアダルトの諸作品を見ても、売れないなどとはとても言えないはずなのだ。確かに、ハリポタ・ブームが起きてから、以前なら売れなかったろう翻訳ものの児童文学系ファンタジーが売れるようになったかもしれない。しかし、だからといって、あまりも当たり前のことだが、日本作家のファンタジーが売れないということにはならないのだ。『ハリー・ポッター』起因のファンタジー・ブームによって、日本の児童文学系ファンタジーもまた改めて見直されることになったであろうことも、まずまちがいないところだ。
もう一点の「架空のいい話」については、ハリポタ・ブームの前から、日本の出版界ではかなりはっきりとした「売れ線」傾向が見えていた。翻訳物では、以前からこのてのものが受ける傾向にあるが、日本の読書界全体にわたるものとして、近年、象徴的にそれを示したのは、浅田次郎『鉄道員』のヒットであろう。これはまさに「架空のいい話」、泣けるファンタジー集であった。この手の作品は、〈癒し系〉という便利なだけに不気味な言葉の流行とともに一般に受け入れられ、そこにさらに「あなたらしい生き方」「本当の幸福って何?」といった〈自分探し〉という流行がかぶさって、いわゆるスピリチュアルなファンタジーの蔓延を引き起した。これらは「現実から遠く離れた」作品ではないが、ファンタスティックな「架空のいい話」だ。おそらく現実から遠く離れ過ぎないがゆえに、共感を生み、多くの人に読まれるのだろう。日本作家の作品についてすら、『いつでも会える』をはじめとして、この系列のヒット作をあげることが出来る。
海外作品では、今年のベストセラー上位に食い込んだアレックス・シアラー『青空のむこう』はまさにそういう作品である。このコラムの中であすなろ書房の社長は、『34丁目の奇跡』を出すことになっていると言っているが、これもまたそのような系列の作品だ。結局、「架空のいい話」「海外作品に限る」というのは、単に自社の新刊の宣伝をしただけではないかという感じがしてくる。
あすなろ書房は『木を植えた男』の絵本を出した出版社でもあり、いわばスピリチュアル系、自分探し系の癒し本の先駆的存在でもあったのだ。こうした本の流行は、おそらく、ハリポタ・ブームとはほとんど関係がない、と私は思う。
ハリポタ・ブームについては、児童文学出版を長年手掛けている友人の意見が最も的を射ているように私には思われる。それはつまり、「みんなが読んでいるから読む現象」に過ぎないということだ。以前、『理想なき出版』を紹介して、合衆国の出版業界のコングロマリット化と大部数制度について述べたけれども、その影響があるとも言う。『ハリー・ポッター』がある程度売れると見込めたところで、メディア・ミックスで売るためのプロジェクトが発動して、戦略的に売りにかかる。その戦略が図に当たり、一旦売れてしまうと、あとは右へ倣え精神、みんなと同じになりたい欲望、売れているものを欲しがる大衆心理が働いて、自動的に、ますます売れていく、というのである。これだけ売れれば、宣伝のためだけに会社が作れると。
なるほど、とうなずくほかはない。『ハリー・ポッター』はまさにそのように、ある程度人工的に生みだされたヒット商品なのではないかということだ。『ハリー・ポッター』は英国産だが、合衆国である程度ヒットしたことが、『ハリー・ポッター』の運命を変えたのである。
『オズの魔法使い』がまず合衆国の神話的物語としての地位を獲得し、60年代には『指輪物語』というファンタジーが一世を風靡し、その影響下に作られたスペース・ファンタジー『スターウォーズ』が現代の国民的神話となった合衆国だからこそ、その末裔である『ハリー・ポッター』というファンタジーが圧倒的な支持を受けたということは考えられる。しかし、そうした経緯を考えないとすると、どうしてファンタジーでなければならなかったのだろうか。
簡単な答えは、あすなろ書房の社長の見るように、現実逃避だろう。
現実では問題があまりにも複雑なので、完全な悪と戦うというように単純化できる話が好まれ、そこでカタルシスを得ることが出来るので人気がある。また、ドラえもんに根強い人気があるように、何でも願いがかなうという庶民の夢を体現しているがゆえに魔法ものは好まれる。虐げられている少年が、魔法界では英雄であるところも、まさに「夢がある」というところだろうか。
『ハリー・ポッター』のファンタジー性は、結局のところ、この「夢がある」という程度のものではないかと私は思う。ファンタジーに特徴的な、世界を巻き込んだ光と闇の闘争というテーマは、『ハリー・ポッター』ではさほど重要視されていない。
ここでひとこと付け加えておくと、ジャンル・ファンタジイで描かれる光と闇の戦いについて、一般に誤解があるように思われる。光と闇の闘争は、二つの世界の葛藤であって、それは善と悪と単純化されるとは限らない。モダン・ファンタジイの祖とも言うべき『指輪物語』にしても、闇の軍勢と光の軍勢の戦いがメインに描かれているわけではなく、あくまでも自分との戦い、葛藤、それを通じての成長や喪失を描く物語なのであって、光と闇の戦いはその象徴に過ぎないのである。その点を理解していないファンタジイ作家は稀であって、たいていの場合、主人公は光にも闇にも傾く両義的存在である。さもなければ、戦う相手が両義的な存在になっている。そして、その両義性が説得力をもって大きいほど、物語は魅力的になるのではないだろうか。『ハリー・ポッター』では、ハリー自身が葛藤を抱えた両義的存在となっているが、その点についての掘り下げはきわめて浅く、おざなりである。
また、魔法そのものの本質についても深く考えられている気配はない。魔法学校ものなのに、魔法の習得が魅力的に描かれている場面がほとんどない。三巻で「闇の防衛術」が少しだけ具体的に描かれるけれども、おそらくそこぐらいだろう。いったいこの生徒たちは何を学んでいるのだろう。魔法の呪文か? 本を見て材料さえ集めれば魔法薬も自力で作れるのなら、料理学校のように、行っても行かなくても良い学校なのではないかと思えてしまう。だいたい魔法の砂時計をひっくり返すだけで倍の時間が生きられたりするのでは、この世界の魔法の原理はデタラメなのだというほかないだろう。このような設定では、魔法の側面で緊張感は求めるべくもない。つまるところ、魔法は超能力で、魔法の品々は超科学の産物であっても一向にかまわないのだが、それをやれば、あからさまにドラえもんになってしまうので、それはできない。「魔法」には夢があるし、子供にもわかりやすい。だから「魔法」なのだ。ファンタジーとなっているのは、作品の本質から出たことではなく、おまけに近い。『スターウォーズ』の本質が、英雄叙事詩で、SF的な側面はすべておまけであったのに、とてもよく似ている。もっとも、おまけ(付加価値)の威力は侮れない。現代の先進国ように、多くのサーヴィスが均質化している社会では、おまけがものを言うこともしばしばある。
しかし、所詮おまけはおまけである。本質ではないのだ。『ハリー・ポッター』の二番煎じとばかりに、次から次へとファンタジーが出版されることに違和感を覚えざるを得ないのも、ハリウッドでファンタジー映画がこれからどんどん作られる予定だということをバカらしいと思わざるを得ないのも、『ハリー・ポッター』はそれらのファンタジーとは、ほとんど関係がないと感じるからだ。『ハリー・ポッター』ほど魔法をガジェットにしてしまって深く考えない作品は、まずないだろう。作家たちはファンタジーをまず書こうとしてしまうからである。だからこそ、彼らのファンタジーはファンタジーの領域に、『ハリー・ポッター』とは別の次元留まり続ける。
それならば、『ハリー・ポッター』の本質は何なのか? 私の読むところでは、それは学園ミステリである。全寮制の学園で不思議な事件が起きる。その謎を、三人組の主人公が解いていく。ミステリの展開が一年にもわたるので、間延びした感じはするが、かなり周到に伏線が張られており、読後に、さまざまな細部が、そうだったのか、と腑に落ちるような仕掛けになっている。そのミステリ度は決して半端なものではなく、いわゆるサイコ・ホラー系のミステリよりもはるかにミステリになっている。手がかりもミスディレクションも、作品の冒頭からちゃんと出ていて、しかも小さい謎を解きながら、大きな謎に迫っていくという周到さも持っている。
例えばミスディレクションを見てみると、それぞれの巻が次の巻のミスディレクションともなっている。初回が最も怪しいスネイプをひっかけの犯人として、「闇の防衛術」の先生を犯人にし、二巻目では、第一巻目を踏まえ、新任の「闇の防衛術」の先生をひっかけに使って、ギャグシーンにも緊張感を与える。そして第三巻目ではまた別の方法を取り、四巻目ではまた「闇の防衛術」の先生が犯人である、というふうに、それぞれの巻をすべて読んでいるという前提でも、ミスディレクションが考えられているのだ。新しく登場する人物が少ないから、仕方ないとも言えるかもしれない。四巻目は、物語としては最もつまらない巻だが、ミステリ度は非常に高く、伏線も見事に張られていると言って良いだろう。たくさんの小さい謎がちりばめられ、宝探しもの風でもある。
大きな謎はこれまでのところいずれも WHO DONE IT だったが、ただそれはあくまでも物語を動かす装置である。『ハリー・ポッター』はパズラーであるなどと言っているわけではない。要するに、ファンタジー版ずっこけ三人組というところだ。赤川次郎の学園ミステリを考えてもよい。
『ハリー・ポッター』は、学校内で起きた謎の事件を学校内だけで解決しようとするミステリであるために、設定上でさまざまな無理が生じる。学年ごとに一冊という設定も、足かせになり、いろいろな側面でかなり不自然である。世界一すばらしい魔法使いであるはずのダンブルドアは、犯人を学園に招き入れたり放置したりしなければならないので、不必要に無能である。気の良いハグリッドに隠し事が多いのは、ミスディレクションを用意するため。ハリー・ポッターが勇気はあるけれどもあまり頭が良くないのも、すべてはミステリであることから要請される必然なのである。
いくつかのキャラクターはミスディレクションを目論んで書かれている側面があるので、どこかしら微妙になる。その典型はスネイプだが、そのような役回りを毎回当てられているために却って魅力的なキャラクターに成長しているのがおもしろいところだ。ミスディレクションとは縁のない完全な脇役になると、わかりやすいキャラになるのも、ミステリであることから生じるのだろう。
『ハリー・ポッター』は、学校を舞台にしているが、学校ものの名作『クオレ』や『ビーチャの学校生活』のような平和で教導的な作品ともまた違う。全寮制で、四つの寮が細かな点数制度によって成績を競わされているところから見ても、とても平和な学園生活が送れるとは思えない。現代的にイジメもあるわけだし、もっと陰湿な事件が起きても良さそうだが、そういったものは描かれない。むしろ、この、リアルに考えれば暗い設定に足を取られないため、基調はコメディになっている。
犯人はヴォルデモートとその一派の誰かということに決まっているので、学園生活と子供たちの人間関係は刺し身のつまでしかない。パズラーではないが、パズラー系ミステリのさまざまな欠点が、『ハリー・ポッター』という作品を決定しているのだ。
さまざまな魔法の小道具は、ミステリの雰囲気を高めるためにも使われている。魔法の地図も姿を消すマントも変身薬も、犯人探しのために奉仕する。あるいはその他の魔法のガジェットも小さな謎解きに利用されたりする。『ハリー・ポッター』がファンタジーであるのは、最後の犯人との対決が派手になるためと、こうした小道具を有効に活用するためではないかとさえ思われることもある。
もっとも逆の見方も考えられるだろう。まずこうした小道具やキャラクターが出来上がって、ミステリの形はあとで整えられたのだと。『ハリー・ポッター』のような世界を描きたくてミステリの形式をそれに援用したのだと。だが、物語を書く動機は何であれ、出来上がったものが享受されるほかない。『ハリー・ポッター』はただの冒険ものでも、いわゆるファンタジーでもない。それでは、これまでのファンタジーと、そんなには変わらなくて、ここまで売れるということもなかっただろう。
『ハリー・ポッター』は、学園ミステリにファンタジーの毛が生えたようなものなのだ。だからこそ売れる。ミステリは強い。しかし、読者もそれに気付かない。ファンタジーを読んでいるのだと思っている。いや、もちろんファンタジーではあるのだが、しかし内実としては謎解きものを読まされているのである。友情・努力・勝利という「少年ジャンプの法則」がくっつき、さらにファンタジーのガジェットがくっついた謎解きものを……。
ファンタジーもしばしば謎解きの要素を持つ。あるいは、本質的にそれを持っているようなジャンルかも知れない。それは、「私は誰?」というものと「この世界は何?」という大きな謎だ。前者を代表しているのは『ゲド戦記』や『プリデイン物語』、『空色勾玉』などで、後者は『守り人』や『スレイヤーズ!』など。あるいは二つあわせたものは数多いだろう。例えば『幾千の夜の還るところ』『風の竪琴』などなどいくらでも挙がってきそうだ。しかし、そうした謎と『ハリー・ポッター』のミステリ的な謎はまったく違うものだ。
『ハリー・ポッター』にも「僕は誰?」という問いがないわけではない。しかしそれは物語を動かしていく推進力にはなっておらず、「僕が誰か」なのは物語の過程で外から答えを与えられてしまう。彼はただ行動する刑事の役を振られ、そのように動き、直接的な事件を解明するだけだ。ハートボイルドの探偵がそうするように、体を張るが、それはそのように定められているのでやむなくそうしているまでであって、彼の本質には関わらない。だからこそ、このシリーズは、少年の成長を描くはずなのに、ちっとも彼が成長しないではないかと何度も言われるのである。ミステリ・シリーズの中で、成長していくキャラクターを描くのは難しい。成長するとは、同じ失敗は繰り返さないということだが、こんなにも限定的なフィールド(全寮制の学校の中で、登場人物の顔ぶれがほとんど変わらない)で、さらにそのような限定をつけてしまえば、ミステリとして身動きが取れなくなってしまうだろう。
今のところ、『ハリー・ポッター』の続巻は出ていないようだが、恐らくはもうこのミステリが要求する限定性を支えきれず、これまでのようなミステリ型の物語展開を持たない、普通の冒険ファンタジーのようになっていくのではないだろうか。とはいえ、三巻を読んだところでは、今後はミステリ性からは脱却するのではないかとも思われたのだが、四巻では逆にミステリ性が強まってしまったので、このような推測も当てにはならない。あるいはなおもミステリで押すのだろうか。
『ハリー・ポッター』が売れるのはかまわない。300万部とか350万部とかいった数字は、あまりにも縁がないようなものだから、想像も難しい。売れる場合には売れるのだ、と、ただもう感心するばかりである。映画が死ぬほどつまらなくても、ヒットするならするでよい。あの演出や演技でも笑える観客は、それはそれで幸せだろう。要するに、ふだんは本を読まないし、映画館にも足を運ばない人々は、この程度で満足できるということなのだろう。
ただ、メディアなどで、『ハリー・ポッター』こそがファンタジーであるかのように言われることにうんざりする。また、『ハリー・ポッター』を批判すれば、これまでこんなに売れるファンタジーを書いてこなかったくせに、などと、批評家に知ったふうな口をきかれるのも業腹である。『ハリー・ポッター』よりもおもしろくないから売れなかったのだと言われたりするのは、我慢ならない。売れたのは企画の勝利であって、作品の真の力ではない。あるいは良いもの、おもしろいものが売れるわけではないのであり、大衆に大々的に受け入れられたからとて、それが優れていたり本当におもしろかったりすることの証には、まったくならない。ファンタジーのガジェットとミステリを結び付けてそこそこおもしろい物語を作ったのは大したものだ。しかし、それだけのことだろう。ファンタジーとして素晴らしい作品では、かけらもないのだ。私にすれば、『ハリー・ポッター』が『指輪』の出がらしなどと評価されることすらも許しがたい。比べることからして、ピントがずれていると思う。
『ハリー・ポッター』のブームが過ぎ去ったとき、日本のファンタジーの状況はどうなっているのだろうか。このブームのおかげで『指輪物語』も売れ、本当にファンタジー好きな読者が少しは増えたのだろうか。もしもそうなら、このブームも良かったのかもしれない。しかし、ブームの終焉とともにファンタジー・ジャンル全体が活力を失ってしまうのではないかという危惧もある。ブームが終わると、そのブームを批判するようなキャンペーンが起きることがあるからだ。ピント外れの批判がファンタジー全体に対してなされる恐れもなしとはしない。
こうしたことは杞憂のたぐいなのかもしれないが、私はつい想像してしまうのだ。ブームの後に、駄本のひしめく、荒寥たるファンタジー・コーナーが残されて、寒風が吹きすさんでいるさまを。
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