Isidora’s Page
古雛の家

 ●早稲田松竹●           2003年1月7日 

 年末の記事である。この春に閉館した早稲田松竹が、再開を望む声に押されて経営続行を決めた、とあった。
 早稲田松竹はいわゆる名画座で、二本立てでロードショーから降りた映画などを上映している。高田馬場駅の近くにあって、私の時代には早稲田の学生なら誰でも行くような映画館だった。しかし、私の場合、そんなにしばしば行った覚えがないのは、映画と言えば当時はほとんど池袋の文芸坐で観ていたせいではないかと思う。最近では一年に一度、行っても二度とか、せいぜいそんなもので、とんと利用しない映画館になった。
 最後に行ったときも、そんなに人は入っておらず、おじさんが多くて、学生はあまりいなかった。経営困難で、ということは人が入らなくて閉館を決めたのだろうが、そうでもあろう、という感じの入りだった。
 仕事を止める契機は、体が続かないか資金が続かないかのどちらかであろう。気力、などというものは、ちゃんと儲かって健康ならば、いくらでも出てくるものだ。経営者は恐らくは映画人間なのだろうから、続けられるものなら、続けたいと思わないわけはなかったろう。利用者がいないから、その結果資金繰りが苦しくなってやむなく止めるのであろうに、やめてしまった後で復活して欲しいと運動を起こすなどというのは、手前勝手で馬鹿げたことだ。それにほだされて再開したのはいいけれど、また時日を経れば客足は遠のき、閉館已むなしということになり、経営者はさらに苦しい状態になる……のではないか、とついそんなふうに悲観的な考えを抱いてしまう。
 今は、ロードショーの映画館に行っても、たいていすいている。結構大きな場所で、数人で観ていると何だか悪いような気がしてくる。渡電くんも、一人で観ることになると、申し訳なくて……と言っていたことがあるけれども、レンタルビデオが普及してからの日本の映画館というのは、名画座でなくてもそんな状況なのだ。まして名画座は、片端からつぶれて、ほとんど残っていない。文芸坐はリニューアルして、何となく安定はしているようだ。浅草はちょっと前には結構人が入っていた(オジサン多し)。あとは銀座、上野あたりか。早稲田松竹が残ったのは、経営努力によるものなのか、立地条件などによるものなのか、私にはよくわからないけれど、残っていたのがむしろ不思議なくらいだ。
 映画館で映画を観るということが廃れて久しい。しかしハリポタなどには人がいっぱい入る。これはどういうことだろうか。今の新しいものは観る、話題性で観る、話題に乗り遅れないために観る、ということだろうか。ビデオのレンタルとロードショーが同時なら、ロードショーの動員数はどっと減るということだろうか。たぶんそうなんだろう。
 私はビデオなどで映画を観るということがほとんどない。仕事がらみで一応観ておくというようなことはしても、楽しみのためにビデオを借りてきて映画を観るということは滅多にしない。映画がそれほど好きでもないからだろうけれど、テレビで映画を観ても、そんなにおもしろくないからだ。息子が往年の名画のビデオを借りてきて観ているのを見ると、なんだかかわいそうになってしまう。こんなチンケな画面でしか観られないとは……。
 しかし、一般的には、レンタルビデオで充分だと思うから、こんなにも名画座が廃れたのに違いない。特に、二本立て、三本立てのように、時間がたっぷりある人にはお得であるいうような名画座にとっては、時間が自由になる学生が利用しなくなったことは大きな打撃であったろう。
 もっとも、古い映画を観る機会がまったく失われたわけではない。フィルムセンターは健在だし、監督別の特集上映などには、人が結構入っている。観る人がいないわけではないけれど、ただその人口がとても減っているということなのだろう。
 映画はフィルムだ、映画は映画館で、出来れば大画面で(ものによっては絶対的に大画面で)観るものであって、テープやデジタルで観るものではない、などと言って、ビデオデッキも所有しない渡電くんのような、生粋の映画ファンは、今でも稀少人種だが、やがて絶滅していく運命にあるのではないか。
 早稲田松竹の延命もいつまで続くのであろうか。日本映画を上映してきて、映画ファンに強い支持を受けていた大井武蔵野館でさえ、廃業した。どんなふうに生き延びられる見込みがあるというのだろう。
 年の初めから、暗い話題になってしまった。ハリポタのようにつまらなくてどうでもいい映画が、全国の上映館の半分を占めてしまうということと、名画座の終焉とはパラレルである。どこか一点に偏るのは、文化的には貧困であることを免れない。多様性が豊かな文化を生む土壌となる。
 文化に限らず、人が豊かに生きていくということは、さまざまな選択肢、それも選ぶに足る優れた選択肢がきちんと与えられているということにほかならないと思う。