Isidora’s Page
古雛の家

 ●善と悪●           2001年9月28日 

 『幻想文学』の特集を「都市幻想」に決めていろいろな方々に執筆の依頼を始めた矢先、マンハッタンのワールドトレードセンタービルの破壊というニュースが飛び込んでた。あれ以来、ニュースもテロ事件のことばかりになってしまったようで、現在はいつアメリカが行動を起こすのかを見守るというような状況になっている。
 テロ事件を知ったときにまず思ったのは――こんなにも行方不明の人間が出るとは思っていなかったので――飛行機に乗っていた人たちの運命の無惨さだったた。そしてどうやらかなりの人が死んだらしいことがわかると、次に思ったのは、ごく単純にも世界戦争のイメージ。アメリカがこんなことをされて黙っているわけがない、これは中東地域との大規模な戦争になってしまうかも……というものだった。テレビをつければ、バカなオヤジが、「日本も憲法を変えて、即刻自衛隊を繰りだして、やっつければいい」などと叫んでいる(ああうんざり)。一方には、アメリカ自身の傲慢で恣意的な外交姿勢が招いた結果であると冷ややかに見つめる人もいたわけだが、どちらにせよ、アメリカが報復行動を起こさないわけはなく、その時には自分も悪かったのだから、などとブッシュは考えずに、禍根を絶つと称して徹底的にやるだろうと思ったものだった。現実にはさすがにそんな短絡的なことではなかったようだが、それでもブッシュの演説を聞いていると、「善と悪の戦い」という言葉が頻出し、相手は絶対悪で正義は我に在り、という論調で、局面を突き進もうとしているようだった。
 一般的見地からすればテロは悪いことにはちがいない。だがアメリカ合衆国が善と正義であるわけもない。もともと単純な二元論ですむほどに世界の政治というのは簡単なものではないはずなのに、こういう戦争的局面になると、善だの悪だのという考え方を持ちだして、白黒をつけようとする。善も悪もいい迷惑である。
 これは別の側面からすると、やはり大義がなくては戦争は起こしにくいということなのではなかろうか。「私は善だ」と、戦う双方が言うわけで、その善の理由があとからすれば突拍子なく思えても、その時はそれなりに切実(自分でそう信じている、あるいは信じているふりをする)のだろうから、始末が悪い。しかしここで、どちらが正しいのかひたすら舌戦をするとか、徹底的に討論をして決着をつけるということはしないのだ、あたり前のことながら。水掛け論になるからではなくて、やはりそういう討論の場でもで理性が支配的にはならず、感情的になるだけで意味がないからなのだろう。あるいは理性的になれば、負けを認める可能性が高く、それはしたくないからなのだろう。
《理性は……政治的・社会的行動の基準として浸透することはなかった。……文明化の過程は、わずかな者の試みであることが明らかになる。そこに見られるのは、輝かしい無敵の進軍ではなく、ファナティズムと非合理性からなる広大な原野での幸運な少数の人びとの孤独な探検である。》……とある書物でみかけた言葉だ。
 昔も今も理性では問題は解決せず、結局は力ということになる。その時に善だの悪だのといった、ある面で神学的な(あるいは倫理的な)言葉が使われ、一つの争いが終わるたびに神(あるいは道徳)の居場所はますます狭くなっていくのであろう。