Isidora’s Page
古雛の家

       ●再び書評について●           2003年1月7日

 以前取り上げた『誰が「本」を殺すのか』の中には書評についての一章があり、「結局書評界は一人の淀川長治も持てなかった」と、それがさも残念なことのように書かれている。
 淀川長治とは、要するにクズ作品でも褒めるところをうまく掬い出して、映画はとにかく魅力的なものというメッセージを発信し続けた存在、ということだろう。こうした芸当は、映画に関して生半可な知識しかないと却ってみっともないものになってしまうので、易しい芸ではないことは確かだ。
 だが、果して、書評界はそのような芸のある書評家を持てなかったのだろうか。特に週刊誌などに書く書評家には、淀川ばりの芸を持つ者だっていた(いる)に違いないのだ。だが、例えば淀川がテレビの解説でポピュラリティを獲得し、その芸が多くの人に認められたのとは異なり、書評家の芸なんぞが認められることはまずない。読書人口はテレビを通じて観る人も含めた映画人口より遙かに遙かに少なく、さらに書評を読む者はもっと少ないのだから。日本では書評家には地位なんぞというものはなく、要するにほとんど見えない存在なのだ。また淀川の場合は、彼抜きで日曜洋画劇場をイメージするのが難しいほどに、映画そのものと密接に結びついているが、それはマスメディアにおいて、そのようなものとして映画が提供されたからにほかならないだろう。本は書評や書評家とともに提供されるような仕組みにはなっていないのである。
 書評については人それぞれいろいろな考え方があるだろう。が、どんなつまらぬ作品にも見どころを見つけてそこを褒め、映画をとにかく見る気にさせるという淀川長治ばかりになってしまうことの方が弊害が大きいと私は信ずる。
 クズにも愉しみがあるさ、というのは現代のオタク的な常識かもしれないが、クズはあくまでもクズであって、クズ以上のものになれるわけではない。私が思うに、大衆一般は、ものを批判的に観賞する力がきわめて弱いので、クズをクズだという判断はできない。クズもおもしろいと言われれば、クズをおもしろいものだと思い込むのである。批評家などがオタク的に無節操にクズをおもしろがっていると、オタクではない世間一般では、クズが良いものだということになってしまうだろう。
               *
 まだ『幻想文学』を始めて数年の頃のことだが、年配の読者の方から、「書評なんて君たちには無理。内容紹介だけしておればいいよ」というような御意見をいただいたことがある。当時はこの言葉がよくわからなくて、カチンときたものだから、いまだに覚えているのだと思うけれども、長年やってきて、書評とはそんなに簡単なものではなかったのだということがわかってきた。書評は本の紹介をして感想を付け加えれば良いというものではないのだ。その本の魅力を、あるいは読むに価しない点を、読者に的確に伝える必要がある。それは数多くの読書をこなしてきた上で初めて可能になる一種の職人芸で、素人の手の及ぶところではなかったのである。
 例えば、アシモフの書評家に対する非常に厳しい意見を見てみよう(ハヤカワ文庫SF『ゴールド』)。書評家の条件とは、完璧に丁寧に読むこと、十全な知識を持っていること、自分を語ってはならないこと、だという。言いたいことはとてもよくわかる。今の私は、この意見にかなり全面的に賛成である。自分でも日々この条件を満たすように心がけている。心がけてはいるけれども、だがしかし、そんなのは所詮絵に描いた餅、不可能事である。一冊の本に関して、知識も、時間も、充分に足りることなどがあり得ようか。自分を語らないというのは、さほど難しいことではないが、それすらも誤解を受けることがある。まあ、あちらでは書評家はもっと地位があるのだろうな。アシモフの言う通りにしていたら、日本では、こんなに割のあわない商売はないということになってしまう。だいたい、日本の作家がこんなことを言おうものなら、張り倒したくなってしまうだろう。「丁寧に読みたくもなくなるようなくそおもしろくもねェ本ばかり書きぁがるくせに、えらそうなことをごたごたぬかすんじゃねぇ! 十全な知識だあ? てめェの方こそ生半可な知識をそのまンまだらだら並べンのはいい加減にしやがれってんだ」。ま、こんなところか。