Isidora’s Page
古雛の家

       ●面倒なこと●           2003年1月7日

 生きていると面倒なことはいろいろとある。長男は食べることが面倒だと言い、身長が175センチで体重は50キロしかない。次男は人づき合いが面倒らしく、親しい友だちが一人もいない。私は、言葉を使ってコミュニケーションを取るのが面倒でならない。儀礼的なやり取りなどは大の苦手である。パーティで作家に会って、その新刊を話題にせねばならない時など……ま、これはおそらく批評家なら誰でも避けたいことではあろう。
 言葉を使ってのコミュニケーションが面倒に思われるのは、第一には、私が自分のペースで普通に話すと、しばしば誤解が生じるからだ。私は、批評家にはあるまじきことだとは思うが、きちんとした説明がへたくそなのだ。
 また、話のかみ合わない相手とはなぜかとことんかみ合わず、私が例えば「AはBなのだろうか?」と聞くと、「いつ私がAはBではないと言ったのだ!」などというようなことになってしまう。いや、もっとひどくて、私が「AはBだ」と何度も断言しているのに、「AはBだと思いますか?」と聞いてきたりする。これも厄介である。
 文章を書いても、似たようなことが起きる。思ってもみない誤解を受けることが時折あって、驚くことがあるのだ。自分ではストレートに褒めて、終始その論調を崩していないものを、否定的な見解の書評だと言われたりする。当然、全体としては褒めながらも、ある面については否定的見解を示したりすれば、単に、貶している、などと言われたりすることはしょっちゅうで、そういうことには、私も驚かなくなった。またあるいは、論理を尽してAという見解を否定した文章について、Aを否定しているばかりではだめじゃないかと批判をもらったりする。だからAを否定するために書いてるんだってば! とこちらとしては言いたいところだ。いったいぜんたい自分の文章の何が読まれているのかと頭を抱えたくなる。自分で読み返してみても、普通に字義通りに書いてあるようにしか読めないので、まったくどうしていいのかわからない。
 このような出来事に遭うと、私としては、私の文章が悪いわけではない、曲解する方が悪いのだ、と思いたくなる。相手がよほど偏見に満ちているのか、私に何か含むところがあるのか、などと、こちらも無駄に深読みしようとする。だが、実際は私の文体が悪かったり伎倆が及んでいなかったり、あるいは読み手の側に過剰な先入観や思い込みがあったり、何らかの見落としがあったりするだけのことなのだろう。文章を通じての誤解などは、いともたやすく生まれてしまうものなのだ。
 言葉は伝達の道具の一つではあるが、高性能な道具というにはほど遠い。単純な、こういうだらだらとした気軽な文章を書いていても、言葉が伝達の道具としての役目をきちんと果たしているのかどうか、怪しいものだと思う。
 もともと、自分にとってものを書いていくということは、固定化しえないものを無理やり固定させてしまうようなことだと思っている。アニメーションを絵によって説明しようとするような感じと言えばいいだろうか。切り取ることである種の価値を見出しながらも、同時にそうした一面的価値を否定したくなる、そのような背反的な行為だ。
 だから、ものを書きながら韜晦することが習い性になっていることは確かだが、それは書いている自分というものを隠してしまおうとするだけで――自分自身と文章とのあいだの距離を取ろうとするとも言えるだろうか――文章の内容そのものを韜晦しているわけではないのだ!
 このことは、あまり理解されているふしはない。というよりも、私が自己韜晦しているということ自身も、たいていの読者にとっては、考えも及ばないことだろう。だいたい、こんなことは、書評を読む人にはどうでも良いことだ。こうした細かいことを抜かせば、私は、基本的にはなるべく率直な書評家であろうとしているとは言えるのだろう。ある程度の誠実さを守り、嘘はつかない。実際に私が書評家として自分に課しているのはそれだけだと言っても良いかもしれない。
 もっとも嘘はつかないというのは、考えようによってはかなりルーズな縛りで、幅の広い逃げ道になっているとは思う。まずいときには黙る、嘘にはならない程度にレトリックで誤魔化す、ということなのだから、褒められたことでもない。ナイーヴな読者には、それが韜晦と映ることもあるかもしれない。
 思えば、文芸界で使われている言葉なぞ、なんとあてにならないことか。こんなルーズな逃げ道を持つ私でさえ、 outspoken だと言われることがあるのだから。
 そのような文芸界はさておいて、日常生活の場では、どんなふうに言葉は扱われているのだろう。私には本当によくわからない。
 批評家としてものを書いたり読んだりするときには、その言葉のあてにならないこと、時として二重三重の意味があることを意識して、書かれている言葉を単純には受け取らないようにするわけだが、日常の場面では、面倒なので、そんなことはやりたくないのである。嘘ではないが本当でもないというような、鵺的な言葉を使って表現するなどということもできるだけしたくはない。儀礼的な言葉も口にしたくない。仕事でやっているようなややこしいことは、やりたくもないのだ。しかし、世の中はままならない。
 世間は複雑で、たくさんの儀礼的な言葉を言わねばならないようになっていて、今、考えただけでも面倒な気分になってくる。相手もまたどうやら儀礼的な言葉を言わねばならぬと思っているらしく、いろいろなことを言う。本気と儀礼とは、一見するとわかりにくい場合がしばしばあって、本気なのだと思って気にかけていると、ただの儀礼的な挨拶だったり、儀礼的なものだと思って聞き流していると、本気だったりするので、始末に悪い。だからせめて自分だけは、儀礼的な言葉を口にするときも、嘘はつかないように、細心の注意を払う。これは疲れるので、できる限り、やめたい。そういうことをしなくも良い人とだけ付き合っていたいと思う。世間一般の人も、そう思っているのではないだろうか。だが、どういうわけか、現実にはそれは難しいのである。日本では、世間の構造がそのようになっているのであろう。
 私はいつの頃からか、言葉に対しては奇妙な強迫観念があって、口にした言葉は、実現されねばならないと思い込んでいるところがある。言葉にしたことは、自分にとっては最大の枷で、その言葉を成就させるべく最大限の努力を払うことになっている。たとえ時間の遅延はあっても、約束は果たしたい。そんなふうに言葉を重要視するのは変なのかもしれないが、きっとこの程度の枷でもつけなければ、何もしないような人間だからなのだろう。不可抗力でどうしても実行できないことが起きることがあると、ひどく傷つく。プライドの問題だと言われるかもしれないが、自分ではそうではないと思う。言葉にしたことは、私の中ではイメージトレーニングがそうであるように、確固とした現実に近いものになるので、それがついに外に出ないまま破壊されることになると、現実が打ち砕かれたのと同じようにダメージを受けるのだ。これは、けっこう辛い。
 そんなつまらないことにこだわらなければよいのだろうが、これは内省する癖と同じで、そんなに簡単に変えられることではないように思う。もはや性格の一部になっている。冷静になれば、つくづく面倒な性格ではある。嘘をつかないように細心の注意を払うのも、結局はこのバカらしい性格のためだろう。
 こんな性格で書評家などをやっているのだから、まったくもって、奇妙というほかない。いや、自分では、嘘をつかずにレトリックで誤魔化すというような隠微なことを、たぶん楽しんでいるのだろう。ばかげたことだが、言葉を扱う面白味は、そんなところにあったりするのかもしれない。

高校受験の次男の英語の問題集に、おもしろい長文があった。京都にホームステイしていたアメリカ人が書いているという設定で、日本人の言葉の用い方について述べている。
《日本人は、相手を心地よくさせるために言葉を使う。本当の感情は言葉の下に隠れている。アメリカでは何か言うときには、本気で言わないと不誠実で不親切だとみなされるが、日本では違う。日本人は「言葉を決して信用しない」と言う。言葉は形式に過ぎず、沈黙のうちに理解しあうのである。》
 日本人は「言葉を信用しない」のだろうか? とてもそのような国民性とは思えないが、と感じたのだが、もしかすると、京都では事情が違うのかもしれない、と考えた。(ちなみにこの問題はラ・サールのもの)
 江戸っ子はまだるっこしいことが嫌いだ。腹に何にもない、竹を割ったよう、などとよく言うが、良く言えば、裏表がなくてさばさばした、あけすけに言うとデリカシーのない人間を私もたくさん知っているし、基本的には自分もそうなのだろうと思う。
 いずれにせよ、儀礼的な言葉を多用する人間は、気遣いがあるというよりは、信用できない人間という気がするのだが、どんなものだろうか。