●神秘文学補遺● 2003年1月7日
『幻想文学』で「神秘主義」の特集をしたい、というのは年来の願望だった。「神秘主義」とは何か、ということについて深く考えていたわけではなかった。神秘的なものを直接的に表現しようとしている文学、というような、漠然としたものとしてしか考えていなかったのである。この特集について考え始めた、三年ぐらい前には、いわゆるオカルティズムを含めた、広範なものを漠然とイメージしていたのである。そして、その中で、私が幻想文学の中で最も愛好している文学、もしくは、私にとってはこれこそが幻想文学なのだ、と思わせる文学、エリアーデやチャールズ・ウィリアムズなどについて論じられたらよいのでないかと思っていた。
会う人ごとに、神秘主義の特集をしたいと語っていたのだが、大方の反応が「それは売れそうにない」というものだったので、私は驚いた。超自然的な幻想文学の背後には、多かれ少なかれ神秘的な世界観があるものではないだろうか。神秘主義的なものは幻想文学の根幹を支えているものであって、幻想文学が好きなら、「神秘」と聞いただけで、わくわしないのだろうか? どうやら、そうではないらしい……。
神秘主義、神秘主義と考え、少しずつリサーチを始めると、私のイメージするようなものは到底作れないのだ、と思えてきた。オカルティズムを取り上げてしまうと、あまりにも範囲が広くて収拾がつかない。中途半端な扱い方をして、『ユリイカ』の『オカルティズム』の二番煎じようなものにはしたくはない。あくまでも文学でなければ、それもオカルト文学のような説明的な文学ではないものでなければ、という思いは強まった。全体の構想は立たないまま、自分の好きな神秘的な文学をどのように扱えるだろうか、いったい、誰にどのように書いてもらえばよいのだろうかと考え続けているときに、石井啓一郎氏と知りあう機会を得た。イスラーム文献が『神曲』に与えた影響についての研究(65号で一部訳出したアスィン=パラシオスの浩瀚な評論)があると聞き、神秘主義について意見を交換するに及んで、「神秘的合一」「神秘体験」などのキイワードをメインにするほかないのではないか、と思うようになった。
今思えば、別の構想を立てることも出来たのかもしれない。しかし、そのときは、それが最も統一感が取れるだろうと信じたので、仕方がない。結果的に、日本では紹介されていないものを中心にした、あのような特集になった。
とはいえ、最終的な目次立ては偶然の産物である。例えば白鳥友彦さん、大滝啓裕さんや田中義広さんのように、私よりもずっとその手の文学に詳しい方々には、神秘的合一、神秘文学ということで何か紹介して、というような雑駁な頼み方をしている。フライ・ルイスやヘンリー・ヴォーンは、念頭にはあったものの、訳詩を載せようと思っていたわけではなかった。スペイン黄金世紀の神秘文学についてはぜひとも何か載せたいと思っていたが、むしろ十字架の聖ヨハネだろうと考えて、執筆者を探していた。木村榮一先生が紹介してくれた教え子の、まだ本当に若い田邊さんに打診したところ、ヨハネのほかにフライ・ルイスも訳しているというので、そちらにしようということになったものだ。ヴォーンは、横山さんと話している最中に話題になり、「最近チャールズ・ウィリアムズを読んでいるということで意気投合したミルトンの研究者がもしかしたら詩の翻訳を引き受けてくれるかもしれない」ということから、こうした形になったのである。小野さんは、現代の否定神学系の神秘詩人R・S・トマスに関する論考も書いていらして、神秘詩の方面には実は詳しい方だったのだ。
鶴岡賀夫さんへのインタビューも、ぎりぎりの時期に吉永進一さんから教えてもらって、打診したものだ。鶴岡さんが、聖ヨハネについての篤実な論考を上梓していたということを知ったときには、ため息が漏れた。
しかし、最終的に積み残したのは、チャールズ・ウィリアムズ、マクドナルドやディヴィッド・リンズィなど、私が最も神秘的であると思う一群の文学についての論考だった。要するにこれが書ける人がいるとして、それは横山さんしかいないのであるが、まず引き受けてはくれないということはわかっていた。一応、念のために聞いてみたが、書けそうにもないと、当然といえば当然の答えが返ってきた。そこで、苦肉の策として、対談の形でそれらの文学について語ることを試みてみようということになったのである。
「神秘的文学夜話」は、本来はあの二倍以上の分量があったのだが、紙数の関係でかなりはしょっている。見る通り、神秘体験を得させるようなヴィジョンの文学ということが中で最も大きな問題となっている。ヴィジョンの文学という言葉はとても茫洋としているが、それはこの世界の裂け目から彼方の世界を垣間見せるようなことが描かれているということ、あるいは世界の裂け目そのものが描かれているということである。異界が描かれているということではない。また、ヴィジョンは、オカルティックなタームで説明されるようなものではない。それは論理的には語ることを許されぬ超絶的ななにものかであり、説明的に語ろうとして出来てしまうようなものは、ヴィジョンとは言えない。あるいは説明された当の部分はそれではない。しかも、そのようななにものかが確かに描かれるためには、相当程度の迫真力が必要であり、結果として読み手も言語を絶する体験を味わうことになる。そのようなものをヴィジョンの文学と私たちは呼んだのである。
それが翻訳を通しても可能なのはどうしてなんだろうか? ということがひとしきり話題となった。私は小説を絵で読んでしまう方だ。たいていの小説は、映画のようだ。そして問題のヴィジョンの部分も映像的に見える。だが、映画を見ているようというよりは、作中人物としてそのヴィジョンを見ている感じがある。カメラ・アイが切り替わるように、あるいはどこからか二重の視点となって。まあ見え方はこの際どうでもよいとして、ヴィジョンがありありと見える、ということは、言葉そのものの問題ではなく、言葉が作り出すシチュエーションが問題だということになるのではないだろうか。それが目に見える程度の翻訳加減であれば見えるということだ。絵がくっきりと浮かぶ程度の翻訳で良い。つまり、そこではメロディーとしての言葉は問題ではないということになる。
ちょうど、この対談を終えて帰る電車の中で、私はコニー・ウィリスの『航路』という作品を読んだ。『航路』は映画化を意識して書かれている作品なのかどうかはわからないが、たいへんに映画的、ヴィジュアル的だ。どのシーンも明瞭に視覚化できる。その中に、ヴィジョンというわけではないが、それに近似のシーンがあった。疑似臨死体験の最中に、暗い廊下のようなところの向こうに、明るい光が見える、というものなのだが、このシーンの緊迫感は、映画のサスペンス・シーンを観るのと変わらず、どきどきさせられるようなものだった。翻訳がすばらしいから、と言ってしまえばそれまでで、それを否定するつもりもないのだが、そんなに単純に大森望氏の手柄に帰して良いものだとも思われない。もともとちゃんとそのように読めるように配慮しつつ書かれていて、それは巧みな翻訳によって損なわれることなく伝わったのだ、と言うべきなのではないだろうか。
小説は言語で書かれた抽象的な存在に過ぎないのだが、そのように視覚的インパクトを与え得る。時としてそれは非常に強い衝撃を読者に与えることがある。そしてそれは翻訳も可能なのである。
詩には詩でヴィジョンの詩とも言うべきものが存在するのだ。そして対談では、詩と小説では違う、ということをさかんに言っている。別のことが起きていると私も言っているのだが、そのあたりになるとまったく言葉にし難い。これはとても体感的なものであると思う。
だから、無理を承知で言葉にしてみる。小説のヴィジョンは、それによって「宇宙の真理が分った」とか「この世の神秘が理解できた」というようなものに近い。そんなものが本当は分るわけはないのだから、分ったと思うような感覚を抱くことすら間尺に合わないが、そんなふうに表現したくなる。どこかしらに認識的なものが含まれているような感じ。あくまでも感じであって、言語的認識を伴うわけではないが、あたかも言語で語れそうな錯覚を与える。一方、詩によって見えるヴィジョンは、もっと感覚的なもので、例えば、「このヴィジョンは私をどこかへ連れ出す」というような感覚を与えてくれる。それは、ある種の波長のあう音楽が、自分の心を広げてくれるような気にさせるのに似ている。どちらかといえば、エクスタティックな感じである。
こんなふうに截然と分けてしまうのはまちがっているような気がするし、誤解を与えるだけではないかとも思うが、敢えて言葉にしてみた。いつかもう少しきちんと語ってみたいとも思うが、今はこれぐらいのことしかできない。
ともあれ、翻訳して言語を変えてしまおうが、伝わるものは伝わるのだと思いたい。
そして、最初から日本語で書かれたものでも、通じない人には通じない。ヴィジョンを感じ取れない人もいるだろう。これもまたどうしてなのか、私にはよくわからなくて、長考の対象となるのだが、今は、「そういうものなのだ」という横山さんの言葉に従っておくことにしよう。
【ブックガイド】神秘文学への誘い