Isidora’s Page
古雛の家

 ●常識とは何か●           2003年7月10日 

 ハラブジャ事件というものを御存じだろうか。『クルド人――もう一つの中東問題』によると、フセイン大統領のイラクが国内のクルド人が多く住む市に毒ガスをまいて、五千人を死に至らしめたと言われる虐殺事件である。また『クルド人とクルディスタン』によれば、ヒューマン・ライツ・ウォッチによる人名聞き取り調査では三千人の死亡者が確認されており、それより死者数が少ないことはないとされている。そして、クルド人問題は、トルコ共和国、イラク、イランの国情のため、表にはなかなか出ず、この事件も一般には知られていない。当時も医師団の介入もなく、今もまだ後遺症もひどいらしいが、完全な調査もされていない状況だという。私もクルド人問題の本を読んで初めてこのことを知ったのである。
 先日毎日新聞の「記者の目」というコラムを読んでいたら、ハラブジャ事件に触れ、この事件の信憑性を疑っていた。いかなる文脈でそのようなことが言われているかと言えば、イラクには大量破壊兵器などなかったのではないか、合衆国の大義など怪しいものだという文脈においてである。
 記者は使用されたガスはマスタードだが、それは致死性のあるものではない、CIAの調査でも数百人とされているし、イランによるものだという見解もあると述べて、疑っているのだ。
 この記事には、私はかなり驚いた。
 まず、ハラブジャ事件は1988年に起きている。イラクに国連の査察が入る前である。そして、その時の査察では、化学兵器は存在し、そして工場も生きていたが、査察によって壊滅させられたのである。従って、ハラブジャ事件は捏造だから化学兵器はないという論理は成り立つ可能性がない。
 また、マスタードガスと言っているが、ハラブジャ事件では、サリン、ブタンなどを含めた複合ガスが使われていて、その効果や対処法などははっきりしない、後遺症もひどい、との報告が人権擁護の活動を行なっている医師によってなされている。地下鉄サリン事件を思い出すだけで、それがどんなにひどいことだったか、私たちにも少しはわかろうというものだ。
 さらに言えば、こうした化学兵器の製造法や原料は欧米諸国からイラクに輸出されたものである。米国は、フセインの軍使力強化を後押しし、化学兵器(毒ガス)の使用も黙認したと言われている。そのような国の諜報機関の公的な報告が、どうして信じられるというのだろうか。
 およそ記者の論点からすれば、ハラブジャ事件は持ち出す必要がない、というよりも、持ち出せば自分の論点にマイナスなので、持ち出すべきではない事件だ。にもかかわらずわざわざ言及するのはどういう意図によるものだろう。ただの愚かさゆえだろうか。まあ複雑な背景を考えるよりも、そう考えたほうが自然ではあろう。
 また、記者はイラクに大量破壊兵器はなかったのでは、ということの傍証のひとつとして、かつての査察官スコット・リッターの証言を挙げている。なるほど。だが、これは毎日新聞全体に関わることだと思うが、毎日では、リッターが来日したときにも、彼の主張について積極的に取り上げなかったではないか。
 忘れもしない、毎日新聞では、コラム「余禄」(朝日の「天声人語」に当るもの)で、パウエルによる、大量破壊兵器の存在を見つけたという報告を取り上げ、彼がハト派であることや理性的であることを確認し、そしてその報告は学術報告のようだったと称揚して、米国の主張を後押ししたのだ。リッターはパウエルの発表直後に、あれは英国の調査機関の古い報告であって信ずるに足りないという説明をきちんと出している。だがもちろん黙殺された。
 当時、リッターは甘い、などとも言われたし、査察を途中でやめさせられた怨恨だとかも言われていた。しかし、完全に無視されるべきではなかった。その主張は、判断保留つきでも取り上げるべきだった。それを怠り、あまつさえ「米国の大義」を尻押しするようなことをしておいて、今ごろになってリッターの名前を出す。そうして自分たちがかつてしたことには口をぬぐうというのか。
 これほど唖然とさせられた署名記事も久し振りである。
 だが、私はたまたま仕事でクルド人問題の本を読んでいたから、このことに関する確かな記憶があったが、いったいどれだけの人がこの記者の言葉を疑うだろうか? ほとんどの人は、読んだらそのまま受け取り、共感することだろう。米国の大義は最初から嘘っぱちだったのだ、そうさ。
 私たちは、どこまで、この世界について知っていれば良いのだろうか。情報は真偽含めてあまりにもこの世の中に多い。すぐ足元にある日本社会のこともわからないのに……と言われれば、それもまた確かにそうだ。だが、あまりにも近視眼的なこと、常識的で現実的で反論しにくいことばかりを言っていても仕方ない。これは知っておくべきではないかということはあるはずではないか。その境界は現実的にはどのあたりなのか? これは哲学的な問題になってしまうのだろうか。


☆二ヶ月以上前に、新聞記事を一読して怒りと共に書いた一文である。思えば、半年も更新しておらず、書き散らしたものはどれも中途半端。仕方ないので、申し訳として、いささか古いがこの一文を掲載しておく。クルド問題は、言語を奪われているという点が、私の琴線に触れる。かつて朝鮮の言葉を奪った日本でも、この問題にもっと関心が持たれて欲しいと思う。