Isidora’s Page
古雛の家

       ●文の読み方●           更新日2004年1月15日

 『ファンタジー・ブックガイド』を出したら、なんとまあありがたいことにbk1にすぐに書評が載った。その書評では、欠点として著者のスタンスがはっきりしていないこと(セレクションに問題がある)、「好き」「私は良いと思う」というような主観的な記述が目立ったことなどが挙げられ、自分の欲しいのはもっと客観的な評価であると書かれていた。はあはあなるほど。ま、それも一理ないではないが、それは単に書き方の問題に過ぎない。客観を装うことなど簡単なことだ。だいたいもともとはそんなふうに書くつもりでいたのだから。しかしそのことをくどくどとは言うまい。むしろこの評者が「好き」という表現が目立ったと言っていることに注目したい。
 有里さんの日記にも、ニムさんとお二人で拙宅へいらしたときのいことがおもしろく書かれていたのでちょっと引用させていただこう。
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『ファンタジー・ブックガイド』に載せた作品は、本当に好きで手元に置いておきたいものばかりなのだそうな。実際、嫌いだからという理由で入れなかった本はずいぶんあるらしい。
 
ええと、その割りには石堂節が全開ですが……。「息子にも普通はガイドブックでこんなに貶さないっていわれたわ」――貶しているという意識はないようだ。「ちゃんと最後に誉めてるじゃない」――たしかにそうなんですが……。
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 このとき話題になっていたのは高楼方子の『時計坂の家』。私はこの作品を特に高く評価しているというわけではないのだが、『幻想文学』でも何度も言及し、褒めている。話が逸れるので詳しくは言わないが、この作家自身を非常におもしろいと思っているということ、作品はいつも全体としてはいまいいちだなと思うこと、にもかかわらず吸引力があると感じていること。傑作ではないので、欠点を挙げてから、にもかかわらず読め、と勧めたのである。貶しているという意識はもちろんない。私は〈客観的な評価〉をしているつもり。いつでもそうなんだけどね。
 この対話の中では実はニムさんが非常に良いことを言っていて、私が欠点としてあげた凡庸さは、この物語の中ではむしろ必要なことで、凡庸であることが大事だと論を展開したのだね。それに関する議論は今はやめておくけれど、どうせ褒めるんだったら、そういうふうに評価する書き方もあるわけだ。でもここではそのことには深く立ち入らない。
 有里さんには、私が「例によってきついことを言っている」というように見えたということだ。前項にも書いたように、ガイドなのだから、読んで損のない本を挙げているつもりなのだ。にもかかわらず、「手元に置いておきたい本」という私の考えが、驚くべきことのように書かれているということに、私は逆に驚いた。
 結局、先入観があるとなしとでは、文章の読み方なんぞはずいぶん変わってきてしまうということを、私はここで言いたいのだ。私のことを何も知らないと推測されるbk1の評者は、このガイドを何だか能天気に独断的なものと思ったのだろう。「好き」「嫌い」などと言っているのは呑気な感じだ。有里さんは、いかにも石堂藍らしい独断によって厳しいことが書かれていると思ったにちがいない。独断的なのは一緒だからそんなに大きくは違わないと言えるが、その書かれたものから、しまりのない人間を思い描くか、しかめつらの人間を思い描くかは、結構先入観に拠るものが大きいのだと思う。
 私に限って言えば、文庫の解説を書いても――つまり、かなり真正面から褒めているものでも、皮肉な感じなどと言われてしまう。私的な文体とは異なる、色のほとんど無い文体で書いても、そう言われる。私の気分が文章に反映されているのをきちんと読み取っているのではないかと言われたことがあるが、それは違うと思う。私がニュートラルに書いたものを無記名にしたら、見分けがつかないのだから、ただの偏見なのであろうと思う。
 人はたいていの場合、期待しているものをそこに読み取る。私とて例外ではなく、神林長平と稲生平太郎の書いたものは、二人が書いたもの以外ではあり得ない、と思っている。それは「これこれの感じ」と名指すことは出来ないけれども、いかにも神林さんらしい、などという一言で片づけてしまったりする。それは偏愛のしからしむるところなのだけれども、それは先入観でしかないのではないか、と言われれば反論するに心もとないものがある。
 そのように、何がしかの評価を与えられ、それが定着すると、それ以上の読みが利かなくなる、という危険性がある。例えば神林長平は日本SFの旗手であるという言い方で定着すると、彼の作品のもっと一般的な読みというものが失われる可能性があるということだ。また、今、横山さんが解説を書いている日影丈吉なども「いぶし銀のような文章」などという紋切型が定着して、それ以上のところまでいかないという傾向があるらしい。それはいつでも打破できるものかというと、案外難しい。年月を経れば経るだけ難しいのだ。そうしたものが文学史を形作ってしまったりもするからだ。ことは文学だけに限らないだろう。
 とはいえ偏見のない読みは、基本的に成立しないのだから、あまりうるさく言うことでもないのかもしれない。だがこのことは本来、評価するとか批評するといったことに直結する問題である。だから、私としては、自分はどこまで偏見から自由でいられるかということ、というよりも、何らかの読みを行なう自分をどれだけモニタできるのかということについて、沈思せざるを得ない。なぜそんなにもこだわるのか、ということについては、また稿を改めることにする。