●本を選ぶ● 2004年2月6日
少し前のことになるけれど、幻想掲示板でひとしきり書評の役割とは何か、というような話題で盛り上がった。今は自分のホームページに限らず、Amazonやbk1でも、素人が書評(めいたもの)をどしどし書く時代である。素人の書く書評とプロの書く書評では何が違い、また、それらに何が期待できるのか、というようなことも問題になると思う。プロと素人の違いについては、論じ始めると長くなりそうだが、自分の書いているものをどのように位置づけるかという意識の問題なのではないかと漠然と考える。それは読者の側が書評に期待するものとも重なり合う問題だ。掲示板では、文学として独立している書評と的確な情報としての書評のバランスが主たる問題になっていたと思う。読者の側からすると、書評に期待するのは情報と文芸の二つであるということだ。書く側には、さらに自分の言いたいことを言うという要素が入ってくると思う。これはその本の紹介とはやや別次元でなされる評価であり、評価をこそ書きたいと考えるのが、もっとも純粋な素人の書評ではないだろうか。つまり、つまらない、おもしろい、ということを言いたいのだ。そしてそれを言うために、本自身について語る。読者は、おもしろい、つまらないなどの評価をを含めて情報として受け取るのだろうから、素人の書評はやはり情報主体であると言えるような気がする。プロは、そのような情報を最もスマートに提出するということに心を砕く存在なのではないだろうか。
つまり、読んでおもしろく、なおかつ本の紹介としても過不足ないことを理想としてバランスを取ろうと腐心してしまう、それは一種の業のようなものだ。私自身も常にこのバランスを考えつつ書いてしまう。かなり自己満足的な感じがする。そのように書いた書評を、理想の書評だと思う人はいないのだから。
ところで、数年ぶりに会った大学時代の友人に、今度出す『ファンタジー・ブックガイド』の話をしたら、こんなものが売れるのか? というしごく真っ当な疑問を呈された。彼は理工学部出身の技術者だが、わりとよく本を読んでいる。京極夏彦の最近作(『陰摩羅鬼の瑕』)については「許せる範囲ではない」と、見識のあるところを見せる。で、彼曰く「本には自分で出会う楽しみというものがあるでしょ。自分で探すものじゃないか」。京極にもそのようにして出会ったらしい。タイトルや装幀に魅かれるものがあったというような感じか。
いやいや、まったくその通り。同じようなことをニムさんも言っていた。「私たちの頃は自分で探したよねえ。」
このガイドブックは、自分の好きな本に出会いたい人が本を探す手助けをする本。だが、書いた当人にとってはそれだけ、というわけにはいかない。書評が文芸の一つであるように、ガイドもまたそうなのだ。もちろん、ただのエッセイに比べればそれを感じさせるのは難しいが、個人の著書であるからには、単なるリファレンスであるわけがない。そもそも、『幻想文学』を長年作ってきた私なのだから、単著である必要すらなかったのだ。『モダンホラー・スペシャル』のようなものにして良かったし、企画の段階ではそういうものもいつくか考えた。だが敢えて単著にしたのである。私のような立場の人間には、そのこと自体に、意味があるのだ。たいていの人にとってはわからないことではあるだろうが……。
それはさておき、この「本は出会うもの」というごく普通の読書家の感覚が、昨今では本当に珍しくなった。
掲示板でも、つまらない本を読む余裕(時間的にも金銭的にもだろう)はないから情報としての書評を活用したいという意見が出たが、それはそれでごく当たり前の感覚だろうと思う。なぜなら本が昔とは違ってあふれてしまっていて、しかも刊行点数が異様に多くなったために手当たり次第では、いつまで経ってもクズしかつかめない、という現象が起きているからである。若い人の中には、それ相当の読書教育を受けていないために、クズだけを読んで、本とはこんなものと思っている人もいる。
次から次へと新刊が出る状況では、不意の出会いを愉しむというような悠長なことをしているうちに、出会うはずだった本が店頭から消えてしまって、結局出会えないのでは、というような強迫観念がある。現実に、見かけたときに買っておかないとなくなってしまう、というのはこの十年ぐらいずっと続いている現象である。
しかし、この「良い本を読み逃すかも」という強迫観念には、実は根拠がない。見かけたときに買わず、結局本を手元に置くことが出来なかったからといって、どうってことはないだろう。人間同士の出会いと一緒で、出会えないときはどうしたって出会えない。そして「読まずに死ねるか」という本は、本当に少ないのだから、そんなに焦ってたくさん買ったり読んだりする必要はないのだ。
今は、本と出会うための精神的な余裕も少なくなっているのだろう。「本と出会う愉しみ」のような高度な愉悦とはまったく無縁に生きていく人はもともと大勢いるが、今は読書家の中でさえ、そういう人が減っているということだ。
ただ、ガイドを売りにする『幻想文学』が売れなくなったことでもわかるように、ガイドを手に自分の好みの本を探すことすらしない人が増えている。それでも本を読むとしたら、彼らはベストセラーだとか、口コミでおもしろいよーと言われたような本を読むのであろう。最近の、一部の本が100万部単位で売れるという傾向は、そのせいだと思う。
このような貧しい出会い方しか出来ないのなら、書評やガイドに頼った方がまだしも。でも、書評やガイドにしても、その情報をただ鵜呑みにするだけなら、害の方が大きそうな気がするのだが、どうだろう。ガイドを読んでおもしろそうだと思った本が、つまらなかったのなら、なぜだろう、というところまで考えて欲しい。ガイドの筆者が悪いのかも知れないし、自分の感覚が作品と合っていないのかもしれない、あるいは自分の読書力が未熟なせいかもしれない、とまで考えて欲しい。そして、こうした訓練を積んで、ガイドがなくても、自分のためにこそある書物に出会えるようになって欲しい。こうしたことは、ある程度の読書訓練を積んだ人は自然にやっていることなのだが、最近の若い人たちはなにごとに対しても無防備で、とても危うい感じがするので、敢えて書いておく次第である。