●仕 事● 2004年2月7日
先日三村美衣さんと会い、たまたま視力の話になった。最近視力が落ちてね、老眼も入っているかもね、というようなありふれた話題である。私も三村さんも1.2になってしまったと嘆いているところがこの業界ではありふれてはいない。私の身体の中でいちばん丈夫なのは目で、いくら酷使しても(これだけ本を読み、パソコンの画面に向かっていても)、悪くならない。1.5から1.2になって落ちてしまったという程度である。三村さんの場合は、もともとは2.0(おそらくはそれ以上)だったというから、それはもうアフリカのサバンナで狩猟生活をしたり中国やソ連の軍隊で斥候をしたり、あるいは船乗りになったりするのに適した視力である。私はこの業界の中では視力が良いのを常々に自慢にし、眼鏡人間たちを哀れんでいたのだが、まさか同類がいるとは思っていなかった。今はコンタクトもあるので、外見からは判断がつかない。三村さんによれば大森望氏も視力はすこぶるいいそうだ。三村氏曰く「本を大量に読むにもかかわらず目が良いのではなく、こういう丈夫な目だから書評家をやっている」。大森氏の自己認識が書評家かどうかは私にはよくわからないけど、ともあれ、結論として「書評家は目が良い」。
冗談はさておき、とにかく目を酷使しても疲れないような人でないと、この商売には向かない。たとえ視力は悪くとも、目を使っても頭が痛くならないというのは必要条件だ。書評家というのは、単に依頼された本を読めばいいというわけではない。基礎教養が厚くないととんちんかんなことを書いてしまうので、普通の人よりもはるかに多い読書量を要求されるからだ。
書評、あるいは文芸批評でも良いけれども、そういう活字に関わる仕事をしていると、本を読むことはすっかり商売になってしまい、多くは義務感で仕方なく本を読むという感じになる。仕事で本を読むことは喜びとはほど遠く、苦痛である場合が多い。特に「好きな小説」のような趣味的なものほど、仕事で読みたくはないし、仕事で読むときのような、分析やチェックをしながら読むということをしたくはない。無意識のうちにやってしまうのにもうんざりする。人からおもしろいと勧められた本を、批判的に読み出さずにはいられないという根性の悪さにもげんなりする。
「好きでたまらないことを仕事にしよう」と謳う村上龍の本『13歳のハローワーク』が売れているけれども、そんなに好きでたまらないことなら、仕事にしない方が、たいていの場合、幸せである。好きでたまらないことも、職業にしたら、好きでたまらないものではなくなる可能性が高いのだ。もともと、好きでたまらないことを職業にしている人なんて、この世の中にはそんなにはいない。ごくごく少数の恵まれた人たちだけが、そういう職に就けるし、就いた後も好きなままでいられるのだ。だいたい、多くの人は、好きでたまらないことを持っていないんじゃないだろうか。得意なことを職業にするということはあるだろうし、就いた職が気に入って好きになることはあるだろう。それはごく自然だけれども、好きなことを職業にしてしまおうという発想自体が、ひどく歪んだものに見える。村上龍は畢竟、成功者であり、また自己愛と自己肯定が異様に激しいから、こういう本が平気で書けて、疑問を抱くことがないのだろう。そもそもこの本には特殊な職業ばかりが載っている。野球選手や幼稚園の先生になりたいというガキの発想と、現実を見ていないという点では、ほとんど変わりがない。中高生が何となく将来に希望が持てないとしたら、それは何の特色もない自分は、何者にもなれそうもない、という感覚を抱くからだろう。この本はそういう感覚を助長する本だ。もっともそんな風に感じるような特色のない子は、こういう本を読まないかもしれないけれど。