●知識の範囲● 2004年2月7日
先日、渡部直己の評論集を読んでいたら、金井美恵子の小説をめぐって、虚数の概念が援用されていた。複素数平面とXY平面を直交させるという、数学的には不可解としか言いようのないイメージも出て来るが、そのフレーズでは言いたいことは何とかわかるので、数学的理解の浅さについてツッコミを入れたいわけではない。むしろ数学はある程度(数2Bの範囲)理解しているようだ。だが、なぜ数学を用いねばならないのか、その必然性が何にもない。だいたい、「Xのn乗の解を結んでできる正n角形」や「絶対値1の複素数の集合」と言われて、絶妙な比喩だと膝を打つ人がいるとでも思っているのだろうか? もちろん理科系で文学好きの人はいるだろうが、ド・モアブルの定理って、技術者が仕事場でも使うようなもの? 文学専門の人間なら、まずこんな高校数学など覚えちゃいまい。たとえ数2が受験に必要だった人でも、大学に入った途端に忘れるに決まっているではないか。まさか読者ターゲットが、理系の高校・大学生なんてことはないだろう。こんな比喩を使うことには、文学的になんら意味がないのだ。金井美恵子自身が虚数という言葉を使っているために、数学的なそのイメージを鮮明にするためにこれをしたのだという弁明も一応は成り立つ。だが、金井の虚数理解は、まさに幻想的なものであるから、それを無視して数学的に正確な表現をしてみせるのはアホらしい。しかもそこからさらに数学的知識を比喩として引っ張り出してくるのは、愚の骨頂である。虚数imaginary numberは、想像上の数、つまり、あると便利なので考え出された数に過ぎない。それに対応するようなファンタスティックな実体(ちょっと奇妙な言い方だが)があるわけではない。そして現実的には、ベクトルを考えるために使われる、ある意味で実用的な数でもある。しかし金井「はそこにはありながら私たちの目には見えないようなもの」というようなものの比喩として使っている。まずはその点を指摘した上で、彼女がその言葉をそのように使った心性を分析するべきではないのか。または、一般的にこの言葉がそのような雰囲気で認知されているかもしれないという可能性を考えるなら、そもそも「本当はこう言うべき」という指摘自体が的外れも甚だしい。
ところで、長男は、クラスメイトに、虚数と実数ってどっちが大きいの、と訊かれて一瞬絶句した、という話をしてくれた。数学の教師は、虚数は簡単ですぐわかるから教科書を読んどいて、と飛ばしたらしい。そばで話を聞いていた次男は爆笑。あなただって笑っているかもしれないけど、中の上の高校だって、私立文系ならこの程度なのである。
そういう実態を渡部はどう思うのやら。そんな馬鹿はオレの評論は読まなくていい、とか思うのかしらね。そりゃ、読まないだろうけど。
渡部直己にとって、ド・モアブルの定理は常識の範囲なのだろうか? 彼にとってはわりと親しいものなのだとは思うけれど、それが常識の範囲だと思っているとはちょっと信じられない。どうせかっこつけて使っているだけじゃないかと思う。もしもそうではない、というなら、自分の常識を疑ったほうが良い。そして誰にでもわかるように「原点を中心とした円を描き続ける」とか言えば良い。だが、こんなふうに簡単に言ってしまうと、的外れな感じがするというなら、単に文学的にもっと凝った表現を使えば良いだけのことだ。
いわゆる「サイエンス・ウォーズ」で、哲学者や文学者が使う数学的な表現について、徹底的な揶揄がなされた後に、敢えてこういうことを書く度胸はすばらしいとも言える。
私は数学の問題を解くのは好きだが、しかし、それは一種のパズルとしてであって、だからいつまでも高校生のレヴェルにとどまっている。数学を文学の比喩に使えるほど、高度に理解していないし、文学批評をやっていて、その必要を感じない。科学書の書評でも必要になるのは、多くの場合、物理学の公式や化学式の理解の方だ。数学の公式や定理を持ちだせるのが教養のある証拠、もしくは頭の良い証拠ということはまったくなく、文芸評論では独りよがりな感じがするだけだ。こういうものを抽象的に使うことが文芸で許されるのは詩歌だけ。それもうまく使わないとやっぱりばかっぽく見えるので、難しいけれど。