●物の価値● 2004年3月13日
先日、東京新聞夕刊のコラム「大波小波」にこんなものがあった。橋本治のエッセイの引用と内容紹介に続けて、次のように展開する。(橋本治は)「どうして本の世界には、『いい本だから、値段を高くして売ります』がないのだろう」と意表をつく指摘をしている。/ たとえばブランド品のハンドバッグは百万円を超えても売れるし、コンビニのおにぎりさえ「質が高いから値段も高い。でも、売る」を実現させている。何百万部もの新聞で書評という価値判定の機関まで持ちながら、「いい、悪い」を値段に反映させる習慣がなぜ出版界にはないのか。それは一種の「批評の不在」なのではないのか。この橋本の論理は痛快だ。/ 「売れるから安くする」「売れないから高くする」というのは、じつは売る側の倫理の欠如なのだ。文学はおにぎり以下なんだな、という橋本の文末が耳に残って離れない。(弁当屋)
「大波小波」は東京新聞の名物匿名コラムだが、最近、文学・書物系の記事はピントはずれのことが多い。この筆者にしても、マジで書いているんだとしたら、よっぽど頭の出来が悪い。本気でもないのなら巨大メディアである新聞にこんなことを書くな。このコラムは、私の新刊案内とは違って、書きたいことが書けるのだし、原稿料だって全然違うのだ。それがこんなバカなことを書いてからに。腹が立つので、書く。
まず、「文学はおにぎり以下なんだな」という言葉について考えてみる。橋本は、どうせ、良いフレーズを思いついちゃったな、とコピー感覚でこれを書いたのだろう。その尻馬に乗り、無批判に橋本の説を繰り返す弁当屋氏は、無能か愚かか、さもなくば読者と新聞の担当者をなめていい加減な仕事をしているかのどれかだろう。
それはさておき、おにぎり全般は、大多数の生活者にとっては、文学より価値が高い。人はパンのみにて生くるにあらず。だが、やっぱり世間的な価値観としては、おにぎりの方が高い。三個のおにぎりと、一冊の文庫本。おにぎりの昼食を抜いても本を買うというのは、一部の変人だけだ。こういうことを踏まえて、橋本は言っているのだろう。もちろんこれはコンテクストを無視した解釈ではあるが、こんな考えも、表面的なコンテクストの裏には潜んでいるものだ。
さらにコンテクストを無視してかかれば、こんなことも言える。経済原理からすれば、コンビニで買われるオニギリの総額は、文学作品が年間に売れる金額よりも多いかもしれない(わからないけど)。そういう経済面で見れば、文学はおにぎり以下だ。あるいは、人数でなら、絶対的にそうだろう。コンビニのおにぎりをよく買って食べる人と、文学を好んで読む人の数を比べたら、後者の方が負けるに決まっている。文学はおにぎり以下なんである。当たり前だろうが。
おにぎりと文学とを比べるのは、経済社会におけるコンテクストを無視しているとしか思えないが、だからといって私も「大波小波」のコンテクストを無視しても良いというものではないので、コンテクストに添っても言ってみよう。ここではたぶんコンビニのおにぎりの話なんだろうが、まず、質が良い、というだけで高額にはしていないのでは、という疑問が湧く。お米も材料も良いから普通のより20円高いシーチキンのおにぎりがあって、ちゃんと支持を得ているなどということはない。質が良いから高いのではなく、具が高いものだから高い値段設定になってしまう。高い値段設定にせざるを得ないので、お米もいいんだよ、と付加価値を付けている。その程度のことであろう。おにぎりとしてはぜいたくな具材を使っているから、高い。同じものでも質が良いから高くても売れるという話ではない。従って、いい本だから値段を高くして売る、という話にはまずストレートに結びつかない。この類推で行くと、厚い本はそれなりに高い、という話になってしまうからだ。それでは橋本の論理自体が成り立たないので、そこは誤魔化して触れないのであろう。
ここでさらに仮定の話として、質の良い20円高いおにぎりがあったとしよう。それを買う客がどのようにつくか、つくとすればそれは何か、という話である。
購買者は20円の価格差に反映されるべきおいしさの質を、厳密に判断するか? これは手元に資料があるわけではないが、以前ある本で、味覚を本当はわかっていない、という記事を読んだことがある。つまり、同じものを与えられた場合、「おいしいものだよ」と言われたものは「おいしい」と感じ、「質が悪い」と言われたものは、「おいしくない」と感じるという実験結果である。特に若者は味覚が鈍い(若ければ若いほど、味蕾の状態は良いのに、微妙な味を理解しない)ので、要するに少し定価上げのおにぎりは、「これは質が良いものだ」ということを、常に謳い続けていなければならないということだ。簡単に言えば、そのように言っていさえすれば、「おいしい」と信じて買ってくれる客がいるということだろう。広告があり、マーケティングがあって、初めて成り立つ商売であると思う。そんなに変わらないから安いほうを買う、という購買者も多数いるだろう。どっちにしろ、シーチキンのおにぎりなんだし。そんなようなことをつらつらと考えていけば、「質が高いから値段も高い。でも、売る」を実現させているのが倫理的な問題とは何の関係もなく、単に消費者心理を研究した結果だということがわかる。というか、こんなにだらだら書かなくったって、普通はそんなとはわかりきった話なのだ。
さて、おにぎりの類推で一冊の雑誌を考えてみる。すると、250円の雑誌があり、その誌面などをカラーにして紙質も良くした良いヴァージョンが280円で存在するということになる。雑誌はおにぎりとは違って、そんなふうにしておいて、好きなほうを選んでね、という商品ではないのである。280円のビッグコミックと250円のヤングジャンプがあったとして(仮定の話だよ!)、安いからヤングジャンプを買い、質が高いからビッグコミックを買う、というわけではまったくない。所詮どっちも同じマンガ雑誌、ではないからである。あるいは京極夏彦のミステリと宮部みゆきのミステリがあり、同じページ数なのに、双葉社の宮部本に比べて講談社の京極本は50円高い。その時に、出版する側、著者も版元も、京極の方が質が高いから値段も高いのだ、と言ったら、どうなるか。あるいはまた同じ京極本でもいい。Aの作品とBの作品、造本は一緒。でもAの方が良い出来なので高いです、と著者や出版者が言ったらとうなるか。ちょっと考えればわかりそうなものだ。
おにぎりの対照には、むしろ、豪華本と文庫版というものが当てられるべきであろうか。豪華本を買う人々も当然いるわけで、本というオブジェとしての価値を買うわけである。そういうことは出版社だってやっている。おにぎりとそんなに変わりはしないのだ。
もちろん、文学を売る人の「売ろうという意識」は、明らかにおにぎりを売る人のそれよりも低い。企業としては、出版社の方が7-11に負ける。コンビニの徹底したマーケティング・リサーチはまったくすごいものだ。だが、徹底した大衆迎合がすばらしいことだとも私は思わない。コンビニで売れるような本しかこの世に残らないなら、私は本にお金を使うことはないだろう。どんなにクズでも映画の方がなんぼかマシである。
さて、ブランドもののバッグの話が出ているので、ブランド品とは何か、ということも考えてみよう。ブランド品の持つ価値とは何かということだ。ブランド品は、本当に品質が良いのか、値段に見合う品質を持っているのか、というのがまず問われるべき問題である。信頼性はある程度高い。しかし、ノー・ブランドでも、同程度の品質を持ち、しかも安い、ということはある。ブランド品は、往々にしてその実用価値以上の高い値段設定になっているものだ。なぜならブランドを一緒に売るからである。ブランドがどのように築かれてきたかということは、売れた、というその実績においてであって、それ以上でもそれ以下でもない。ちょっと年月が経つと、そんなことは忘れられてしまうのだが……。ともあれ、ここでライターが百万円のバッグを買うことを引き合いに出すのは、まったくおかしい。百万円のバッグは、既にブランド価値が確立しており、それを手にしていると、一部の人々には百万円のバッグを持っているということがわかり、しかも、自分もその価値体系を信じている、という条件があって成立する。百万円の価値とは、物そのものの品質の良さではなく、その他の付加価値による。言ってしまえば、信仰の問題である。これは古書の世界の物語と対照させるとわかりやすい話である。えーッ、こんな本に百万も出すの?!(バカじゃなかろか)というのが、古書を自慢された時の私の反応ということになるだろう。だが、現実にその値段で流通し、価値体系を同じくする人のあいだでは、「掘り出し物ですねー」などとうらやましがられたりもするわけで、ものの価値などというものは、要するにその趣味の人々との相関関係で成り立つに過ぎない。あるとき、カルチエが急に人気がなくなり、ブランド・イメージさえ消滅し、誰も買わなくなったら、そのバッグに何十万も出す人はいなくなるだろう。需要と供給のバランスというのは、どんなところにも働くのである。ブランドは、質が良いから高い金を取れるわけではないというのは、子供でも知っていることだ。
本やバッグに限らず、世の中には、良いものを作っている人がたくさんいる。私の友人の〈野菜の里〉では、有機野菜を作っていて、品質は高いし、だいたいはおいしい。だが、高い値段で売れるかといえば、そんなことはない。同じ有機で安いものが出れば、その値段になってしまう。つまり、有機野菜の中の優劣は価格に反映されず、市場の平均価格へとならされてしまうということだ。また、野菜のような日常食べるものは、そんなに高くては売れない。「いくらなんでも大根一本を千円で売るわけにはいかない」とかよこさんは言う。当たり前と言えば当たり前だが、ブランド品というのはそういうことを平気でやっている、狂気じみた世界である。野菜の場合は、コンスタントに食べる日常品なので、そうした狂気とはなかなか結びつかないのだ。一部の高価な輸入野菜などは、日常品ではないから、高い値段で澄ましていられるのである。良いものだから、高い、と開き直っていられるなどということは、この世の中にはほとんどないのだ。おにぎりにしても、消費者の動向を見ながら、周到に値段付けが行われているに違いない。
それでは、とにかく質が高いので高くなります、という本の話をしよう。まず、質が高いので値段も高いです、と言われて、そうですか、と言って金を出す人は、世の中にはどこにもいないであろう。例えば一着のノー・ブランドのコートを買うことにしよう。「カシミア100%ですよ。てざわり、すばらしいでしょう。デザインも仕立ても良いです。細部にも凝っています。そして、たくさんのその他の商品と比べても良いでしょう」などとすすめられたとする。すすめられた人はためつすがめつし、類似商品ととことん比べ、確かに素晴しい、と納得して、初めて高い金が出せるのである(お金持ちは違うでしょーけど、庶民はそうです)。それも、コートを初めから買う気があり、このデザインや色が気に入って……など、いろいろな条件が付帯しているのだ。人が気軽にお金を出せるのは、明らかに、品質に比べて値段が安いときである。質が高いですよ、でも安いですよ、という方が売れるに決まっているのである。
私たちマイナーな出版者の多くは、質は高いですよ、でも、ちょっと定価も高いです、という本を出しているつもりではないだろうか。どちらかと言えば、インディーズのブランドで、頑固に良いものを作り続けている人々のよう。あなたには、この素晴しさがわかりますよね、と言いながら、本を出している。でも、振り向いてくれる人は少ないのだ。質が良い、だから高い、なんて、本を作っている人々がいくら言ったって、買ってくれる人がいないだけである。単にそれだけのことなのだ。それはむしろ読者の問題ではないのか。
だいたい、本の消費者は、質が良い本だから買う、などという行動を取るものだろうか、という問題もある。質の良し悪しは、例えば、カメラならかなりはっきりと比べられるだろう。機械類は、たいがいそうなっている。本は、そういう商品とは違うのである。本がそういう意味で比べられるとしたら、良い紙を使って良い印刷をして良い製本をしているか、というようなところでしか比べられないのだ。そんな基準では、普通は本を選ばない(古書は別)。良いものだから買うのではなく、あくまでも自分の趣味に合っているかどうかで買うのである。そして、言うまでもないことだが、本に対する趣味は千差万別なのである。
基本的に本の値段の格差は、外形で決められている。文庫本は安く、豪華本は高い、というふうに。そして、部数とも密接な関係がある。売れなければ高く設定せざるを得ない。同時に、軽装版ではなく、重厚な作りにせねばならないとかいった問題も生じ、外形と部数とにも相関関係はある(ただし常にというわけではない)。ある程度の部数が見込めれば本は安くできる。編集者も著者も、できるものなら、安くして多くの人に読んでもらいたい。そうではないか? 高いものを買う人の人数は限られている。だから、本に限らず、どんな商品でも、ぎりぎりのコスト計算をして市場に物を出している。高いけど質が良いんだから買え、というのが倫理的なこととはとても思えない。そんな風に開き直るとしたら、ただのアホである。
出版界では圧倒的な少数派、出せばどんなものでも売れるというような一握りのベストセラー作家は別だろう。売れる分を見越して安くしたりはしない。その分、自分も出版社も大いに儲かるような、適度な値付けをするのである。実際、売れるのに高い本も存在する。例えば、橋本は小林秀雄の本を例に挙げているらしいが、これは一種のブランド販売だろう。高くても売れたのは、必ずしも質が高かったからではない。もっと別の、ブームのようなものではなかったのか。消費者は小林秀雄というイメージを買ったのである。また、現代にはもっとすごい例がある。ものすごく売れることがわかっているのに、ちっとも安くないハリー・ポッター。あれに対して、「高いじゃないか」と文句がほとんど出ないところを見れば、「質が高い、だから値段も高い」と図々しくも出版者が言っていて、それを人々が受け入れていることにはならないだろうか。私見では、とても質の高い本とは言い難いのだが。あれは、値段が高いとわかっていても、ブームになっていて、とにかく売れるから、強気の出版社(と原著者)が高い値付けから一歩も引かないだけである。ずいぶんな商売ではないかと思う。まあ、企業は利潤を追求するものだから、それで良いのだ、と言われるかもしれないが。ハリポタ現象を見ていても、「いい、悪いを価格に反映させる」などという言葉が、何の意味も有していないことはわかるだろう。
批評の不在とか新聞書評が機能していないとかいうゴタクも聞き飽きた。まず、「何百万部もの新聞で書評という価値判定の機関」という理解がなってない。新聞の書評欄は価値判定の機関ではない。購買層にマッチした本の紹介コーナーである。記者の判断や、書評委員の判断が入るが、彼らも自分にとっておもしろそうな本、それもたまたま見かけたり送られてきたりした本を適当に選んでいるだけで、価値を判定しているわけではない。「価値判定の機関」というなら、新刊を手分けして全部読み、なるべく公平なランク付けをするような機関でなくてはならないが、そんなものがこの世の中にあり得たことはないし、これからも存在することはないであろう。もちろん求められてもいないのである。批評が「これは質が高い、だから定価も高いが買え」と言ったとして、誰がそれを受け入れるのか。
『幻想文学』の書評では、幻想文学というジャンルに限って、それを私はやって来たが、価値付けが恣意的だと言われたりすることはしょっちゅうだったし、また、私が質が高い本と考えたものが売れるとは限らなかった。読者は、質の高いものなんて、はなから求めてはおらず、また批評にも興味がないのである。そういう本の紹介で、自分にとっておもしろそうな本を見つける、というのが普通の読者の態度なのである。何と言われようが、幻想文学の価値付けに関しては、私は私なりに自信があるが、これは質が高いぞ、という時には、どのような位置付けにおいてなのか、どのような意味で高品質なのかをはっきりさせなければ言えない、とは思う。そしてまた、質が高いからそれを私がおもしろいと感ずるとは限らない。それとこれとは別問題、という側面もあるのだ。
私のようなマイナーな批評家ではなく、メジャーな批評家がそういう価値判断を、狭いジャンルでなくて、本全般についてやれば良いのか。本全般についてやるというのがまず不可能だが、それが出来たとしても、メジャーになるということは、一般大衆に受け入れられるような批評を展開してきたということだ。そういう人が「これは質が高い、買え」と言ったとしても、それは単に一般大衆の嗜好に合う本だ、ということしか意味しないのではあるまいか。
さて、以前、本の値段のことを書いた。高くても、私にとって価値のある本なら買うだろう、というのは、読書家に共通する心意気だと私は信ずる。だが、「私にとって価値のある本(いい本)」とは何か? それは一義的には決めようがない。そこに本という商品の特殊性がある。文学もまったく同じこと。いいものはいい、などという言葉遊びは、今どき文学上でも成立するとは思えない命題なのである。