●出版の将来● (2005年1月27日)
『本とコンピュータ』15号「出版再定義 このままでいいのか、わるいのか」(3月10日発売)から次のようなアンケーの依頼があり、それを受けて書いた下書きである。ここ十年ほどの出版不況と出版の電子化(制作・流通面での電子化やデジタルコンテンツ化)をはじめ、インターネットやフリーマガジンによる情報の無料化といった動向は、出版の長い歴史のなかで、その再定義を迫るものではないかと思いますが、日本の出版産業は、かつての繁栄を取り戻せるのか、それとも、ここ数年の縮小傾向をあたりまえの環境として引き受けるのか、そうであるとすれば、書き手から編集者、書店人まで、出版にかかわる人びとは今後どのように生きのびることになるのか。こうした切実な問題をめぐって、さまざまな局面や立場において考えてみる特集です。
出版の定義とは、もともとが「著作物の頒布」というものである。この定義をどのようにいじることも無意味であろうと私は考える。著作物の中には、文章・絵画などばかりでなく、音楽・映像も含まれている。にも関わらず、いわゆる出版業界はこれに関わることができなかった。これらはその他のメディアの業界に奪われ、現在では完全な分業体制となっている。DVDのような大容量の媒体によって、複合的な表現の伝達が可能になったが――つまり映像と本を組み合わせるというような――この方面で出版業界が主導権を握れる見込みはきわめて薄そうである。つまり、こうしたものに需要があるとすれば、最もお金のかかる部分を受け持つ映像メディアの産業が、最も安価な編プロを抱えれば済むことだからだ。
さらに、ニール・スティーヴンソン『ダイヤモンド・エイジ』のように、読者に対応してくれる本などというものが作れるとしても、それを作るのは出版社ではないだろう。あの小説でも技術者だったように……。
結局のところ、出版社が関われるのは、本と雑誌の延長上にあるものだけなのだ。
電子メディアと出版の関わりについて言えば、出版社は電子メディアへの対応が不充分だったために、百科事典のように長年の蓄積によって作り上げたものさえ、活かしきることができなかった。現在も著作権の切れた著作物の電子化作業はなされていない。遠からず、閑になった団塊の世代が趣味でそれに取り組み、ネット上に流通するようになるにちがいない。こうなったときに慌てても遅いのである。
現在、ダウンロードによる本の販売もなされているが、これもまた近未来的には読者と著者の直接的な流通を促すことだろう。もしも書店や取次を通さずに、著者と読者を直接結ぶ代理店が一つ作られて積極的に営業を開始したら、それもまた一つの流れになるかもしれない。こんなことは個々の出版社がバラバラにやってもダメで、出版社を越えた組織が動けば、つまり著作者の組合のようなものがそういうことをすれば、読者はその利便性に逆らえないはずだ。そのページへ行けば、現在電子ブックで読める本はすべてダウンロードできるということになったら、そのページを使わない人間がいるだろうか? 実現の可能性は低いが、電子ブックということを考えるならば、そこまでのことを考えていなければ話にならない。万が一そういう事態が起きたとき、出遅れた出版社や取次は、まさに天を仰ぐのである。
電子メディアが役に立つのは、狭義の情報収集の場としてであって、それ以上でもそれ以下でもない。電子メディアは長いものを読むのに適さない。本・雑誌=狭義の情報だと考えているならば、本がすべて電子メディアになったとしても問題はあるまい。むしろその方が望ましいのである。電子メディアだと検索が容易なので、欲しい情報を簡単に抜き取ることができ、利便性が高い。物としての本は、もはやかつてのような価値を持っていない。(オブジェとしての本を楽しむ人はごく少数派なのでここでは無視する。)ずらりと並んだ文学全集は教養を保証せず、見栄の道具にはならなくなったのだ。応接間の置物としての意味が消えたのである。多くの人にとって、本は情報を与えてくれるものでしかないだろう。電子メディアでも充分である所以だ。
情報を求めてではなく、単に読むことを楽しむために長い文章や小説を読む場合、電子メディアだとうまく読めないという事実は、今もまだ改善されていない。プリントアウトして読むのもいいが、保存性の点で難があり、電子ブック的な利便性がなくなってしまう。そうすると、本を買えばいいやというふうになるだろう。本の優位はそうそう揺らがない。だが、それも技術革新によって変わるかもしれない。何とも言えない。もしもそういう流れになって、電子ブック化を進めたとしても、電子ブックも含めた本に対する需要の増加は基本的に考えにくい。
また、この電子メディアの問題は、長いスパンで考えたときに、どうなるのか予断を許さない。日本が今のように豊かな社会を将来にわたって維持できる見込みはそれほどない。世界全体を考えても同じことが言えるのであって、電気が満足に使えない時代が百年先には来ているかもしれない。もちろんシズマ・ドライブみたいなものが発明されて世界は平和になっているという可能性だってあるだろうが。出版業がそのころにどうなっているかなどということは私には見当もつかない。百年前だってそうだっのだから……。だが、紙を用いた出版の技術が無くなるのは危険だ。原始的な活字は、無くしてはならない印刷技術だと思う。しかし……出版の話だった。とにかく、電気さえも危うくなった世界なら、本どころではないだろう。
七十年前、カレル・チャペックはコラムの中で、本が売れないと出版社が嘆くのは、本が出過ぎているせいだ、と書いている。近代以降、本の数は常に過剰なのである。でもチャペックが今の本の冊数を見たら、驚いて泡を吹くほどの量が出ている。出版社はいろいろと愚痴を言いながらも、仕事を拡張してきたと言えるだろう。今後もそうならないとは限らない。だが、私はこんなばちあたりな状態は、結局一過性のものであると思う。返品率・裁断率を考えると言語道断なこの現状は、長くは続くまい。自費出版の伸張も、年金問題・不況問題とからみ、今後はどうなるとも言えないようなものだろう。かつて出版は不況に強い産業と言われたが、今はもうそれも神話でしかない。出版業界の上得意様である本に対する愛を持ち、大きな価値を置く人々の率は減っている。さらに図書館の整備により、金銭的余裕の無い場合は図書館を利用するという傾向は年々強まっている。情報を求めるだけなら、ネット/ケータイでもOKである。つまり、本に関しては、世界的状況を考えて、今後明るい見通しがあるとも思えない。
年間、文庫も含めて六百冊以上の新刊に目を通し、二百冊ほどの旧作を職業的に読んでいる者としてまず感じるのは、本の質が著しく低下しているということである。活字を大きくする傾向とも相まって、価格に比して内容があまりにも薄い本が目立つ。似たような内容の本がしばしば見受けられ、なくもがなの本も非常に多い。本の刊行点数がとにかく多すぎるのだ。編集者の質の低下も顕著で、本造りの粗雑さ、誤植の多さや誤訳のひどさなど、目に余るものがある。一方、読みたいと思うような質の高い本が異様に高額な場合もしばしばある。だがしかし、これらのことは、実は現代になってから(第一次大戦以後)はずっと言われ続けてきたことであって、目新しいこととも言えず、出版業界はそのように言われ続けながら生き延びてきたのであるから、何とかなるだろうという見方も出来る。しかし出版を取り巻く諸々の状況、学力の低下、学生の本離れ、さらには上層階級が教養として本を読むことの減少などの事実は、厳しい予測を強いる。
諸々の要素を勘案すれば、出版業界の前途はさらに多難なものになると思われる。長いスパンでは何とも言えないが、今後二、三十年にわたり、硬派の書物の出版はますます厳しくなるだろう。生き延びるために、中小の出版社は提携するなどという生ぬるいことではなく、積極的な合併によって、資本を充実させ、絶対的に読まれるべき良書だけを出すという方針を打ち立てていただきたい。刊行点数を増やしたり、定価を上げたりすることで、何とか対応できるのはあとわずかである。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★