●文豪という言葉● (2005年1月31日)
私はしばらく前からちょっと、サマセット・モームに凝っているのだが、『世界のオカルト文学総解説』の中の、モームの『魔術師』の著者解説部分に、「文豪」という言葉があって、え? と思った。もちろんモームは、世界的に有名な作家だが、文豪という言葉がそぐわない感じがしたからだ。文豪という言葉の意味を辞書でひくと「際立ってすぐれた文学の作家、文章や文学の大家」とある。この定義で行けばもちろんモームは文豪であるが、私のイメージの中ではそうではないのだ。元来、エンタメ系の作家というか、軽みのあるところに、持味のある作家である。自身をモデルにした作家の登場する『お菓子とビール』でも、彼は文豪ではなくて、ただの作家であり、このイメージはモームにふさわしい、つまり作品のイメージに反しないのである。
学研の電子辞書には例として「文豪トルストイ」とあって、これはぴったりしている。大仰で深刻な大作ばかりを書いたし、ロシア人らしい押し出しの良さがあるせいだろう。優れた文学の作家というよりも、有名になった大作をいくつも書いて、何だか偉そうにしているというイメージが「文豪」という言葉の中にはないだろうか。かつて文豪というワープロ機械があったが(今もあるのか?)、文章の大家としてあなたも威張れる(このワープロを使えば)という発想があるのではないかと考えてしまう。
巨匠という言葉にも似たような響きがある。ついこのあいだ、愛・地球博(愛知・窮迫)に押井守が変な人形を出すという新聞記事が出て、それは「巨匠・押井守」という見出しになっていた。眼を疑うとはこのことで、押井守みたいなオタク系作家と「巨匠」という言葉は、なんぼなんでもつりあわない。「巨匠っていう言葉にはスキーってつかないとダメだよ」と長男が言い、巨匠・チャイコフスキー、巨匠・ドストエフスキー、巨匠・カンディンスキー、巨匠・ストラヴィンスキーと挙げたところで、早くも自分の説に挫折した。ストラヴィンスキーは変だから巨匠ではないと言うのだ。日本の映画監督で巨匠とつけられるのは黒澤明か。巨匠・押井守は巨匠・黒沢清というのと同じくらい滑稽である。
宮崎駿は巨匠だろうか……まあ立場的にはそうだろう。あの人物にこの言葉はふさわしくないが。ともかく、死んでもいないのに、巨匠などと言われるようになったら、もうおしまいだ、と考えているほうが作家としては健全である。文豪・巨匠、いずれにせよ、おだてるための修辞、つまりお世辞に使う言葉でしかないのだから。
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