●エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』● (2005年2月3日)
エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』(柳瀬尚紀訳・河出文庫)を読んだ。 30年前のベストセラーを、今初めて読んだことになる。とてもフェミニスティックな長篇小説で、しかもかなりの自己戯画化があり(著者はユダヤ系だ!と人種ステロタイプ的決めつけ)、スラップスティック身軽帯びた喜劇性がある。性描写にしてもポルノグラフィ的に過激というよりは、茶化されてお下品な感じたったり、単に率直なだけだったりするもので、描写そのものがすごいわけではない。でもものすごく売れたというのはどういうわけだろうか。ミリオンセラーになるためにはそれなりの理由が必要だが、私にはそれがよくわからない。新しい女の生き方を示しているという点で、アメリカの知識人の女性に受けたのだろうか。それだけでたくさん売れるものか? ポルノ的描写ということなら、映画・マンガの類は言うに及ばず、文学でも、ポルノ専門の世界ではこの程度は毒にも薬にもならなかった時代だと思う(というのは読書体験からそう感じる)。女性が自分の月経のことをあからさまにこんなふうに書くのは珍しかったのではないかと思うのだが、男から書くということならそのころにはとっくにあったし、ポルノ的興味からすれば、男が書くのはOKでも、女が書くのはご勘弁だったのではないかと思う。(要するに当時リブの女性だったならいざしらず、一般受けするようには思えないということで、リブの女性だけではベスセラーにはならないということ。)もしも性描写ということが吸引力を持ったとしたら、この作品が私小説であるということに多くを負っているのではないだろうか。つまり、アメリカの中産階級の夫人、裕福なユダヤ人で二度目の夫は中国系の精神分析医だというような三十歳の女性が、性欲が昂進して止まらず、不倫に走るというような現実への興味。あるいは、ポルノ文学ではなく、主流文学の中でこういうものが書かれることへの興味もあったもしれない。いずれにせよ、状況への興味であって、作品を面白いと思ったというのとはだいぶ違うのではないかと思われてならない。
つまるところ売れたということ自体が差別的な悪意の産物ではないか、と考えるのは、あまりにもひねくれ過ぎた見方だろうか。
著者はもともと詩人であり、文学研究者である。そこで文学史上の作品への言及がいろいろあるのだが、中でも意識しているのはD・H・ロレンスで、『飛ぶのが怖い』は、「女の書いた今様チャタレイ夫人」を目指しているのではないかとも思われる。「男の書いた小説の中の女」を理想と見、それに自分をあてはめようとしていた愚かさを嗤うというような主人公イザドーラ(ほとんど著者)の態度は、いちじるしくフェミニスティックだが、どれだけの共感を得られたろうか。日本で、どれほどの理解が示されたのだろうか。いささか興味がなくもない。翻訳されたのが1976年らしいが、当時高校生だった私は、まさに『チャタレイ夫人』などを読み、今一つ主人公の気持ちが理解出来ないままに訳者である伊藤整の作品などを読んで、こっちならわかる、などと考えていたのであった。当時の凡庸な女子高校生にはフェミニズムの視点など、どこを探してもない。『第二の性』などを読んでもピンとは来なくて、むしろ『他人の血』に描かれるような「恋する女」を演ずるのに夢中になっていた時代だ。そのころ、私がまったく眼中にいれていなかった〈世間〉はどういうものだったのだろうか。
さて、この作品で、イザドーラは〈書く自分〉というアイデンティティと、愛されて良いセックスをしたい自分、良い妻でありたいという自分などに引き裂かれ、それを何とか統合しようと四苦八苦する。不倫に走るのも一種の仮構的な世界のできごとというか、自己愛の延長でしか考えられておらず、不倫相手も自己愛の塊なので、イザドーラの自己愛を見抜いて拒絶する。男は彼女に冷たい関わりしか持たずに、結局二人の仲は破局を迎える。そこでイザドーラは19世紀的結末をつけてみせる(夫の元に戻る)。これは男の望む結末でもあるのだろうが、そのことに意識的であることをイザドーラが示すことで、まだ全部を手に入れることをあきらめていないんだよね、私は、と言っているようにも取れる。
あるいはこんなに飛んでる女でも、夫の元へ帰るのだ、という、〈19世紀的〉展開がヒットの原因かもしれない。しかしそれにしては、ここに語られているイザドーラの憤りややるせなさや何やかやは、やっぱりあまりにも〈目覚めた女〉的である。こういう小説が書かれ、受容されてきたということが、どのような影響を世界に与えてきたのか? それは一考に値することのように思われる。
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