●パロディについて少し● (2005年2月3日)
小林信彦『東京散歩 昭和幻想』というエッセイ集を読んだ。小林信彦は《オヨヨ大統領》《唐獅子組》などのユーモア・シリーズを代表作とする作家だが、近年のエッセイにはだいたい暗いトーンのものが多い。子ども時代の文化的生活を失ったという喪失感、自分が大事にしている文化が日々失われていくことへの怒り、自分の小説が理解されない苛立ちに集約される。世相批判も、この三つ――というよりは、自分的文化の喪失という一つの根っこから生じているもののように思われる。小説家というのは、結局のところ、自分のことを語る人種なので、エッセイを書こうが小説を書こうが、自分のことに終始するのは珍しいことでもなんでもない。私が不思議でならないのは、ユーモア、ユーモアと言いながら、エッセイがちっともおもしろくないことなのだ。本書で唯一笑えたのが、〈「フラン・オブライエンのような笑いの小説が書きたい」と言っても「日本では無理でしょう」のひとことで片付けられた。そりゃそうかもしれないが、やってみなけりゃわかんねえじゃねーか!〉という一文であった。しかし、そのあとでまたすぐ、出した小説が売れなかったとかいう愚痴になってしまうのである。そのあと売れるようになったんだからいいじゃないか、と私は思うが、売れた話になると、自分の笑いの本質はちっとも理解されてない、理解するのは若干のすぐれものだけだ、とくる。そして、だいたい現代の日本人は、笑いの基礎教養がなくってダメだ、笑いさえスノビズムでしかない、というようなことを言い出すのである。
さて、私は小林の小説の良い読者ではない。私が中学生のころ、《オヨヨ》は中学生のあいだでは大人気で、本を読むような子はみな読んでいる、という風だったが、ひねくれ者の私はそんなものは死んでも読むものかと思って手に取らなかったのだった。仕事で何冊か読んだが、ここで彼がオブライエン風と言っている『ちはやふる奥の細道』は読んでおらず、その出来栄えはわからないのだが……タイトルから想像される通り『奥の細道』のこじつけ解釈的パロディになっている模様だ。ほかにも短篇集『発語訓練』の説明もあるが、これまたパロディとかパスティーシュの類である。
笑いの教養というより……単に共通の文化的基盤というべきではないのか。それがないと理解されないのだから、結局世相ネタのギャグと同じものでしかないのでは? 本来、共通の文化基盤はころころと変わったりしなかったのだが、今はもう、良し悪しは別にしてそうではない以上、あらゆるパロディはそうならざるを得ないようにも思う。小林の大好きな映画をネタにした話も、同じ映画体験のある人には通じるかもしれないが、映画の始まりから100年経って、ばかみたいにたくさんの映画が作られた以上、ある作品を共通言語として持てと言われても無理な話だ。
私だってパロディが嫌いなわけではないし、さまざまな先行作品の茶化しも、楽しむ方だ。しかし、こうした直接的なパロディについては、前々から疑問に思っていて、それを表明もしているのだが、要するに、それはただの自己満足に過ぎなくて、ほとんど手淫のようものではないかと思われてならないのだ。
そういう文学があっても悪くはない。サークル内のお楽しみとしての文学。いや、どんな文学だって、所詮はそうなのだから、知識を共有する人たち同士で、隠微に楽しめばよいのだとも思う。そして、いつだって、自分の知識教養の及ばない作品がある、ということを認識しておきたいものである。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★