●思考・想像力・デジャヴュ● (2010年8月1日)
マーガニタ・ラスキ『ヴィクトリア朝の寝椅子』(横山茂雄訳・新人物往来社刊)は、1953年に英国で刊行された中篇小説である。日本にこの作品の存在が紹介されたのは、ほかならぬ訳者の手によってで、1985年、『幻想文学』10号から連載が始まった「不思議な物語」第一回でのことだった。横山(筆名は稲生平太郎)は、内容を紹介した後、「凝った文体ゆえに決して読みやすくはない物語だが、佳作の名に恥じないものだと思う」と、賞揚している。
その内容とは、肺結核で療養中の若い人妻が、ヴィクトリア朝の寝椅子を媒介として、およそ90年前の重症の肺結核の女性に精神転移してしまい、どうすれば元に戻れるのか必死で考える、というものである。 この作品の勘どころについては、横山が、同書の末尾で、必要にして充分な解説を施しており、付け加えることはほとんど何もないと感じる。参考までにその要旨をかいつまんでおけば、「時間と意識」をめぐる精妙な物語であり、性意識が正面から取り上げられている点はフェミニズム批評の対象ともなるだろうし、エクスタシーというテーマが聖俗両面から、死の問題も含めて考察されているところは特筆に値する、ということになるだろう。
私見では、特にラストが素晴らしく、感じ入った。この点については、bk1のインタビューで横山も言及し、「不意を打たれた」と語っている。
また、作品の評価については、中島晶也の書評が、その価値を見事に言い表していると思うので、その最後の部分を引用させていただくことにしたい。
大胆な奇想とリアリズムが見事なまでに連携しており、周到な語りの仕掛けと精緻な心理描写に支えられた、深い目眩と出口の見えない緊張感は比類がない。(『幽』13号/2010年8月)〈これほど手に汗握るスリルと恐怖を味わわせる小説は、ちょっとない〉とも中島はブログに書いている。高い技術力を持つスリリングなホラーとして、この作品を高く評価していることが窺える。
実は、ペーパーバック版の前書きでP・D・ジェイムズも、中島と非常に近いことを語っている。すなわち――初版刊行時に読んだ時には、この10年のうちで最も怖ろしく、高度な語りの作品だと思ったが、40年後に再読した今もその思いは変わらない。この作品は、自我の混乱と、働きかけることも理解することもできない状況に囚われていることの自覚という、人間にとって最も原始的な恐怖に読者を巻き込む――。さらに、いくつかのレビューを見たというくだりでは、批評家にしろ読者にしろ、その恐怖に動かされなかった者はなく、また多くがその迫真の語りの技術を絶賛している、とも述べている。
こうした分析や評価に、批評家としては付け加えることはあまりないのだが、ここでは個人的な読者として、簡単な感想を述べてみたい。
まず、私はこの作品をとりあえず原文(つまり英語)で読んだ。いつもの言い訳になってしまうが、私は英語ができない。従って、残念ながら、「恐怖」だとか「精緻な語り」だとかを感ずる余裕はまったくなかった。また、過去の世界に移動してからは、メラニー視点で少しずつ世界が広がっていく様子が丁寧に描かれているので、読みにくいというよりは読みやすかった。……つまり文学的な何かを落として読んでいたのだろう。
私がまず感じ入ったのは、メラニーの論理的な思考力と前向きな性格である。メラニーは、実にあれこれといろいろなことを考え、想像し、そして実際に試す。メラニーの意識が覚醒した身体は、肺結核の末期で、ほとんど瀕死の状態だ。しかし、どうやら脳はものすごく活発に動けるらしい。特に自分が今いる年代(1864年)を知ってからが顕著だ。例えば、通常のタイムスリップものでは決して現れることがない種類のパラドックスについてメラニーは考える――この水はもう腐っている、私が着ている服はぼろぼろで虫食いだらけ、この肉体だって蛆に喰われてとんでもないものになってるわ……。この想像力はとてもユニークだ。過去に紛れ込んだら、その世界の住人がみんな死体に見えておぞましい、などというコンセプトで書かれる作品はほとんどない。せいぜい、本当はみんな死んでいるんだ、不思議だ……と思うぐらいである(こういうパターンは多い)。しかもその時のメラニーの想像力が細かくて、目に見えるようなのが大きな特徴である。ほかにも言葉が時代を超えられない等、時間をめぐるパラドックスについては、安手のSF小説が及ばないものがあるので、その点に興味のある読者には是非とも読んでもらいたいと思う。
メラニーの前向きさは、何とかして自分がいるべき場所――愛する夫と赤ん坊がいて、治りかけの肉体の上に進歩した医療のケアが受けられて、もっとずっと快適なところ――へ戻りたいという強烈な動機から生まれている。しかし、その努力が、すべて架空の――というかメラニーに考えつく――物語に依拠している点が、興味深い。まず、何よりも神に頼るのは、当然のことだろう。しかし単純な祈りではダメだと分かると、神(のようなもの)に認めてもらわないといけないのだ、と思い、何が要求されているのかを考え、それを次々に実行に移していく。
私も、子供の頃、うまくいかないことがあると、よく同じようなことを考えた。つまり、自分の行為を見つめている超越者がいて、いちいち審判しているという幻想である。そのような幻想が、本作のように直接的に描かれている作品がほかにあっただろうか? メラニー自身の子供時代の回想では、神様が自分のために世界を作りかえてくれたという幻想を抱いたことがあるとも語られているが、私もこんなことをしていた。これは文化の相違を越えて、子供に共通に発現する想像なのだろうか? 想像力と信仰という、人間の精神活動にとってきわめて重要な課題が、ここには内包されていると私は考えるのだが……。
もう一つ、ひばりの声を聞いていた修道士がいつの間にか時を超えていた、というエピソードにもとても興味を引かれた。読んだ途端に、懐かしい感じがして、これは知っている、と思ったのだが、ありそうなところに同話が見あたらない。探し損ねているだけかもしれないが、この話の寓話としてのリアリティの高さが、既知感を抱かせたのかもしれない。また、知っていると感じた話が、実はそうではなく、錯覚だったということも、往々にしてあることなのだろう。いわゆるデジャ・ビュの感覚だが、実はこの『寝椅子』は、メラニーの精神が宿る肉体(ミリー)の意識が、メラニーの意識に混じり込んでくると読めるところにでも、デジャ・ビュの感覚で解ける部分があるのではないか、という感じを持っている。あるいは意識の混じり合いが、デジャ・ビュを思わせるというべきか。とすると、この作品は、時間の飛越やデジャ・ビュ的体験をしばしば取り扱うエリアーデ作品にも通ずるところがあるとも言い得るのである。なお、解説には、修道士の話の出典にまつわる興味深いエピソードも紹介されているので、ぜひ読んでみてほしい。
『ヴィクトリア朝の寝椅子』を、私は読み損ねたのか、こんなところにばかり面白みを感じる。翻訳作品を通読した時にも、展開が分かっているせいか、恐怖を感じることはなかった。まあ、こんな読み方もできるということだ。小説の読み方は、一通りではないのである。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★