●このHPについて~神林長平と稲生平太郎のこと●
私は石堂藍の筆名で、もっぱら書評やブックガイドを書いてきたけれども、本来の仕事は出版業全般なのだ。依頼があれば、書物の製作もするし、紙面作りまでのプロデュースをすることもある。
個人経営なので小さな仕事ばかり手がけているけれども、とにかく物を作ることが好きだ。原稿を書くのは得意ではないし、苦痛なことも多いのに、直接に手を動かして作るのは、たとえ得手でないにしても、本当に楽しい。ホームページ作りはふだん出版ではできないような物作りの楽しみを味わわせてくれる製作の領域だということを、
アトリエOCTAのページを作って知った。
仕事の方のページが出来上がったときに思ったのは、今度は思いきり趣味のページを作ってやろうということだった。外観も内容も思いきり趣味に偏している。ものを書く仕事には制約が多いが、ここではなるべくそういうことを考えないようにした。と言っても限度はあるが。
自分のために、自分の愛するもののために作ったページである。私が愛するものたちをやはり愛してくれる人たちがどこかにいることを信じて。
私の愛するものと言えば、作家なら、神林長平と稲生平太郎である。
ページを作るのならこの二人のものを、とすぐに思った。
神林長平については、『太陽の汗』という小説を一読してほれ込んでしまい、以来、熱烈なファンをやっている。『幻想文学』という雑誌で「死後の文学」(44号)という特集を組んだとき、松本まで行ってインタビューさせてもらい、あまりの幸せさに、これで『幻想文学』はやめてもいいとまで思ったものであった(それから8年も続けることになったが)。
稲生平太郎のことは大学時代から名前だけは知っていた。稲生平太郎とその仲間が『ソムニウム』という雑誌を作っていたからで、その出版活動をある種の憧れをもって眺めていたようなところがあったのではないか。ともかくも『幻想文学』を始める時から稲生平太郎の周辺の人々には原稿の上でお世話になった。どういういきさつでどうしてそうなったのかは知らないが(相棒の東雅夫がそういうことは全部仕切っているので)、連載のエッセイをお願いできることになって、それで現在までなんとなくおつきあいがある。25年前に初めてお会いしたときに、とんでもなく緊張したこと、どんな会話を最初にかわしたかまで覚えている(あまりにばかばかしいので再現しない。たぶん稲生平太郎は忘れているであろう)。
この二人の作家とは、多少なりとも個人的なつきあいがあるけれども、今でも直接に接触する機会があると、なにがしか緊張してしまう。年齢も近いこの二人は日本が誇ってよい最高の文学的知性の一角を占めていると私は信じているので。きっと二人ともに、そんなことは私の過剰な思い入れに過ぎないと笑うことだろうが。
私は文学的に信頼を寄せるに足る人物をほとんど持たない。傲慢だから、誰も尊敬したりはしない。しかし、この二人は別だ。彼らのことは本当に尊敬しているし、信頼してもいる。だから私は、安んじて彼らのファンでいられるのである。
その後、『幻想文学』を通じて付き合いの始まった友人たちに参加してもらい、いろいろなページを付け加えた。
最初に参加してくれた三人の名前を組み合わせて ARIES という言葉をひねり出し、〈白羊高原〉と名付けた。今後も元気があれば、増やしていきたい。
恵まれた人生を送って半世紀が過ぎた。なすべきことはそれなりになしてきたので、死まではすべておまけの人生だ。おまけも素敵なものになったら、それはとても素晴らしいことではないか。
(2000年11月執筆、2010年4月8日改稿)
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★