Isidora’s Page
建築日誌
■東京都立慰霊堂(旧震災記念堂)■    2005年12月20日

『五十年前にヨーロッパ人が日本に来て、日光廟こそ日本で最も価値のある建物であるといえば、日本人もまたそうだというし、今またブルーノ・タウトがやってきて、伊勢神宮と桂離宮こそ最も貴重な建築だといえば、日本人もまたそうだと思うのである』
これは昭和10年、来日していたブルーノ・タウト自身が、伊東忠太の言葉だとして講演の中で紹介したものである。
面白い。
忠太のアイロニーも面白いが、タウトの逆アイロニーの方がもっと面白い。
以後、忠太とタウトは生涯親密な関係を続けた。……かどうかは知らないが、忠太の言うとおり、日本人は今でも西洋人の価値観は大変有難いものであると信じている。(笑)


東京都立慰霊堂(旧震災記念堂)
昭和5年(1930)竣工。
設計は伊東忠太。
施工は戸田組。
SRC造平屋建て。

大正12年9月1日。
いわずと知れた関東大震災は、東京市の大半を焦土と化した。
犠牲者は、5万8千人とも言われている。
中でも最も酸鼻を極めた陸軍被服廠跡地に、この震災記念堂は建てられた。
再びかかる惨禍のないことを祈念したものの、昭和20年には空襲により倍以上の犠牲者を出す。
以後、東京都慰霊堂と改めることになる。(「由来記」参照)

日本がアメリカと戦争を起こしていたということを知らない若者が増えているという。
そういう人たちは、関東大震災が起きたことすら知らないかもしれない。
もしかすると、阪神淡路大震災が起きたことすら忘れかけているかもしれない。
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」
この言葉は、日本人の能天気さを良くあらわしている。

それはともかく、旧震災記念堂は忠太の代表作である。
しかし、代表作の割にはどこか変である。
タウトに大見得を切った忠太ではあるが、そのデザインはとってもダサいのだ。(笑)
どう見ても日本風ではない。
いや、日本風なんだけれども、どこか東洋風に近い。(ん? 日本も東洋?)
いや、インドかな? インドネシア? 中近東?
小生はこれを「博覧会的東洋風日本建築」と名付けることとする。(笑)

それで、この建物。
実は、設計コンペによる建物なのである。
1等当選は前田健二郎。
前田は、当時第一銀行の技師で「コンペの鬼」の異名を持っていた。
にもかかわらず、実施設計は伊東忠太の案である。
これはおかしい。どうも臭い。……
大変おかしな出来事なのだが、その辺の事情はよく分からない。
モニュメンタル建築のエキスパートである忠太先生だから、まあ、そのー、なんというか、一等案が気に食わなかったのであろうか?(笑)

とにもかくにも、めでたく忠太の震災記念堂は完成された。
控えめではあるが、お得意の幻獣も配置されている。
これに関して、忠太はこう弁明している。

「一見滑稽なる遊戯を試みたかの如くであるが、予の心事には豪も遊戯的気分はなく、……予は真の滑稽味は真剣の裡より生じ、真の真剣味は滑稽の裡より生ずるものと信じているのである。結局真剣即ち滑稽、滑稽即ち真剣である」

うーん、さすがに帝国大学名誉教授。
言ってる事が、さっぱり分かりません。(笑)

東京都立慰霊堂(旧震災記念堂) 
東京都立慰霊堂(旧震災記念堂)外観(その1)

外観(その2)
外観(その2)

塔部分アップ 
塔部分アップ

ハト? 鳳凰?
ハト? 鳳凰?(笑)

獅子
獅子