Isidora’s Page
建築日誌
■川越氷川神社本殿■    2008年05月26日

おお、江戸のバロック!
「日光を見るまで、けっこうと言うな!」
とはよく言ったものである。
しかし、日光はけっこう遠いので、川越の氷川神社で満足する人もけっこう多い。
ということで、宗男はあまり知られていない川越の氷川神社探索を決行(けっこう)した!(笑)

洋の東西を問わず、人間の欲望は「標準」から「過剰」へと移行する。
はい。
これがバロックである!
お腹の出っ張りも同じことで、知らず知ら腸内環境は善玉菌が駆逐され、気がつくと「メタボ菌」の増殖で手に負えない。(笑)
「小股(こまた)の切れあがったいい女」とは、スレンダーな女性に対する褒め言葉。
宗男は、ジーンズの股が擦り切れて、小股どころか大事なところが涼しくてどうもいけない。
ああ、こまった、こまった!
……すいません。
僕、走り過ぎていませんよね。(笑)

川越氷川神社本殿。
起工は天保13年(1842)で、竣工は嘉永2年(1849)。
明治3年(1870)に御遷宮が行われている。
一重入母屋造向背1間、千鳥破風付き、銅板屋根。
棟梁は、印旛捨五郎(正)・桑村三右衛門(副)。
彫物師は、嶋村源蔵・飯田巌次郎。

全身「くりからもんもん」のや〇ざ屋さんのようである。(笑)
いや、これぞ江戸彫りの最高傑作!
硬い槻(ケヤキの古名)材を用い、木目を生かして立体感を作る木地彫りである。
そうそう、乳首の廻りを龍の目に見立てたや〇ざ屋さんの彫り物と同じ。
いや、これはちょっと違うかな。(笑)

そもそも、この建物の価値をはじめに認めたのが、大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モースである。
モースは、考古資料の調査のためここを訪れるが(明治15年)、発見したのは精巧なくりからもんもん、いや、氷川神社の建築装飾の見事さであった。(笑)
「アメリカでは、美術館の板ガラスの箱の中に陳列するような芸術作品群である。」
と、屋外にそのまま露出された日本の建築様式を賛美している。
文化財として認められたのは、それから70有余年を過ぎた昭和31年のこと。(埼玉県指定有形文化財)

とにかく、びっしりとひしめき合った彫刻のリアリティーに驚嘆される。
トップの写真は、本殿西面にある「牛若丸と浄瑠璃姫との出会いの場」。
牛若丸が横笛を吹いて、浄瑠璃姫をナンパしている図柄である。(笑)
本殿東面は「源義家の勿来(なこそ)の関」という図柄。
そして圧巻が本殿北面の「源頼朝―鶴ヶ岡」の構図である。
鶴ヶ岡八幡宮の祭礼に、千羽鶴を放つ姿だという。
右側に「とんがりコーン」が2つある世にも珍しい場面でもある。
いや、キヌガサタケであろうか?(笑)

その他、腰廻りには「川越十ヶ町の山車(だし)」の模様が彫られている。
うまく写真が撮れなかったけど、(中へ入ることはできなくて、連子窓の隙間からレンズを突っ込んで撮ったので)面白い題材がわんさかと盛り上がっている。
そして、向背を柱と本柱をつなぐ「海老虹梁」(えびこうりょう)は、まるで筋張ったナニかのように見えて仕方がない。
ナニ?
いや、だからそれ、何である。(笑)
雲水に子持ち龍をかたどったということであるが、筋骨隆々とした立派な虹梁なのだ。
当初は、この向背柱にも「登り龍と下り龍」が彫られる予定であったらしいが、どういう訳かすっきりとしたおとなしいデザインに収まったようだ。
バロックも、度が過ぎるとグロテスクになるということを察してのことだろうか?
それとも造営費が重なりすぎて、クライアントから「もう、けっこう!」とでも言われたのであろうか?(笑)

【所在地】埼玉県川越市宮下町2-11-3 グーグルマップ


川越氷川神社本殿 
川越氷川神社本殿

川越氷川神社本殿
連子窓からのぞいた本殿全景

川越氷川神社本殿
過剰なまでの軒廻りの彫刻

川越氷川神社本殿
本殿東面「源義家の勿来(なこそ)の関」

川越氷川神社本殿
本殿北面「源頼朝―鶴ヶ岡」(通称とんがりコーン)

川越氷川神社本殿 
海老虹梁(ナニ?)右端に見えるのが、すっきりとした向背柱

川越氷川神社本殿
お札のとうりゃんせ