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建築日誌
■旧岩科学校校舎■    2008年08月29日

サイタ
サイタ
サクラ ガ サイタ
旧岩科学校校舎 

はい、みなさん、ご一緒に!

懐かしいですね~。
尋常小学校。
『小学国語読本』(しょうがく こくご とくほん)
いえ、「とくほん」と読んでも、サロンパスのことではありませんよ。
あの頃は、よく先生に叱られたなぁ~。
……って、懐かしい訳がございませんね。(笑)
それに、尋常小学校って……?!

旧岩科学校校舎
上の写真、一番奥に子供をおぶって授業を受ける女の子がいる。
信じてもらえないかもしれないけど、宗男も小さい時、姉がおぶって中学へ通ったという。(笑)
宗男は小さかったから記憶はないが、姉は事あるごとにこの話をするのだ。
姉と宗男は十四五歳くらい年が離れているから、まんざら嘘でもないらしい。(正確な歳の差は分からない/笑)
そういえば宗男の小学校の入学式の写真には、若い姉が保護者として写っていた。
母親の顔は見当たらない。
これは記憶がある!
入学式直前に親戚が亡くなって、母親はそっちへ出かけて行ったからなのだ。
……と、昔話をしてもしょうがないですね。
貧乏話につながるんで、この辺でやめておきます。(笑)
とにかく、ノスタルジアにかられる風景だなぁ~。?

旧岩科学校校舎。
木造2F建て。
竣工は明治13年(1880)。
設計・施工:棟梁 高木久五郎・菊池丑太郎。
左官:入江長八・佐藤甚三、ほか。

長野県松本市にある開智学校が明治9年(1876)の竣工であるから、学校建築としてはかなり初期の遺構である。
擬洋風建築であるが、瓦屋根に漆喰及びなまこ壁、唐破風に下魚(げぎょ)までついた、限りなく社寺風建築に近い擬洋風建築。(笑)
時代が早過ぎたこともあるが、伊豆という特殊な地域性と棟梁の心意気が相まってのデザインである。
平面計画は凹字型となっており、近代学校建築の典型例の一つ。
近代伊豆のあけぼのを象徴する、国指定重要文化財である。
とにかく、地方の学校建築としては、ものすごく豪勢なものだ!

この岩科学校の建設は、教育熱心であった岩科村(当時)あげての一大イベントであったという。
資料を見ると、建設費の4割以上が村民からの寄付金である。
もちろん、となり村の松崎村(当時)出身の入江長八も、故郷に錦を飾るため遠路はるばる駆け付けた。
長八、66歳の時である。
その代表作、2Fの客室の欄間絵「千羽鶴」がこれ。↓
旧岩科学校校舎 2F客間の千羽鶴

旧岩科学校校舎2F客間脇床

見事である!
学校の客間にこんな艶やかな鏝絵(うなぎえ、ではございません)はどうかと思うが、とにもかくにも長八は故郷に錦を飾ったのだ。(笑)
ちなみに総工事費が2,630円余りで、そのうち長八に支払った分が25円であるらしい。
まあ、工事費の1%にも満たないわけだから、儲け抜きでのご奉仕だったのだろう。……
ん?
左官手間代が全部で127円。
長八さん25円。
ん~、やっぱり長八さん、そこそこもらっていたのでしょうか?
いや、細かい詮索をして申し訳ありません。(汗)

2Fバルコニーへにつながるホールには、これまた見事な牡丹のランプ掛けが見られる。
欄間部分には鳳凰の鏝絵(うなぎえ、ではありません)。
伊豆地方では、このころから行燈の代わりにランプが使われたとあり、いち早く最新の設備を投入していたというわけだ。
この2作は、長八ではなく甚三の作。
佐藤甚三は長八の高弟で、岩科の出身である。
1F車寄せの見上げは、洋風と和風が入り乱れたエネルギッシュなデザイン!
欄間は中央に龍と、左右に麒麟(キリン)が彫られている。
アサヒはどこか?
と探したが、アサヒもエビスも見当たらなかった。(笑)
幾何学模様の化粧方杖(ほうづえ)もどこか和風で、雲型にかたどられているところに職人の心意気が感じられる。
さぞかし当時は「おしゃれ~」と感じたに違いない。(笑)
いや、ほんとにおしゃれなのである。
そうそう、唐破風についている下魚(げぎょ)は、長八が棟梁の高木久五郎の鑿(のみ)を借りて彫ったものだという。
「おれにもやらせろっ!」
ってことだろうが、長八のスーパースター振りがここにも発揮されている。

【所在地】静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442 グーグルマップ


旧岩科学校校舎
旧岩科学校校舎


2F中央下魚は、長八の作

旧岩科学校校舎

旧岩科学校校舎
ランプ掛けと鳳凰の鏝絵(うなぎえ、ではありません)

旧岩科学校校舎
バルコニーからの眺め

旧岩科学校校舎
1F車寄せの見上げ

旧岩科学校校舎
座敷わらしではございません