Isidora’s Page
建築日誌
■旧衛生湯(現美容室あみん)■    2009年10月08日

ここは、銀座通りのとある一角。
いや、銀座と言っても東京ではありません。
函館の銀座のことです。(笑)
今では路上駐車ばかりで、人っ子ひとり見当たらない函館銀座。
しかし……
大正から昭和の初めにかけて、ここはモボ・モガが闊歩する東京以北最大のカフェー街であったのだ。

酒は~涙ぁ~か~溜息~かぁ~♪
藤山一郎の歌で一世を風靡した「酒は涙か溜息か」(作曲:古賀政男)。
この曲の作詞を手がけたのが高橋掬太郎である。
彼は国後島出身だが、当時函館日日(ひび)新聞に勤めながら詩や小説、脚本などを書いていた。
この曲は作詞家としてのデビュー曲である。
函館日日(ひび)新聞の建物は銀座通り、ちょうどこの衛生湯と同じ並びで、道路を二つ挟んで10軒目くらいに建っていたもよう。(昭和8年の読みにくい地図を、老眼鏡をかけて参照しています)
彼は連日のように銀座のカフェーで飲み歩いていたと言いい、言わば「酒は涙か溜息か」は、函館の銀座通りが生んだ名曲と言ってよいのだ。
ちなみに、石川啄木が勤務した函館日日(にちにち)新聞と、掬太郎が勤めた函館日日(ひび)新聞は別系列の新聞社である。
日日(にちにち)の方が日日(ひび)より早い創刊で、後者の方が日日(ひび)努力したのでこの名が付いた。
と言うのは嘘だが、この辺りはどうもややっこしい。(笑)
日日(ひび)新聞の社長を務めたことのある二代目太刀川善吉は、あのカテキン色の太刀川家洋館を建てた人物である。
注:日日(にちにち)と日日(ひび)の区別は、『月刊はこだでぃ』(9.10月号’91)によりました。

旧衛生湯(現美容室あみん)
竣工は大正10年頃(1921)。
設計・施工は不詳。
煉瓦造2F建て。

高橋掬太郎が足繁くかよった……かどうかは分かりませんが、これが銀座通りの旧衛生湯。(笑)
いかがでしょう?
さすが銀座のお風呂屋さん、大変にモダンなデザインです。
何度も言うように、函館は大変なカジノ街であった。
……いや、火事の街であった。(笑)
大正10年(1921)の大火で、函館区当局はこの辺りを防火地区に準拠した「火防線」として整備し、RC造などの耐火建築物を建てるように推奨する。
このお風呂屋さんは煉瓦造ではあるが、その流れを汲むものである。
この銀座通り、今でも当時のRC造建物が多く建ち並んでおり、日本のRC造技術の草創期を示す貴重な屋外博物館的な様相を示している。
えっへん!
と言いたいところだが、一般の観光客の目にはただの古っちい建物街でしかなく、しかも誰も歩いていないので観光コースからは大きく外れています。(笑)

銀座の繁栄のシンボルでありながら、お風呂屋さんの後はファサードが随分改造されていて、昭和61年(1986)に今の姿に復元された。
復元当時は「おしゃれ館」という美容室だったけど、今は「あみん」というお店になっている。
いつ「あみん」に変わったのか知らないけれど、きっと いつまでも待っわ~♪ と歌ったことが功を奏したに違いない。(笑)

さて、この建物のデザインであるが、1F入口はトスカナ式円柱で大袈裟なことに玄関の小さな庇を支えている。(笑)
この柱が二つ並んだ双柱はルネサンス以降のデザインで、この衛生湯も「ルネサンス」→「湯ネッサンス」としゃれたものと想像される。
と思いきや、玄関を「男湯」と「女湯」の二つに分ける必要からこうした双柱が生まれなんだなぁ~。(笑)
2Fの櫛形ペディメントも、腰窓からずいぶん離れていて唐突に浮いているなぁ~。
と思っていたら、旧い写真ではこのペディメントの下にはファンライトのついた両開戸が付いていた。
これでペディメントの謎は解けたものの、バルコニーも手摺もないので、2Fのドアを開けると下に落っこちてしまう。
う~ん、この仕掛けがどうしてもわからない。(笑)
柱がパラペットよりも立ち上り、更にバラストレードを取り払ってる。
これも、屋根から落っこちるのではないか?
と心配したものの、この屋根には上れませんので御心配は無用です。(笑)
また、随所に配置されたメダイヨンが効果的で、これぞ本格的新古典主義様式!
と形容して恥じない(?)、銀座を代表するかっこいいデザインである。
正面以外はあまりお見せしたくないのですが、まあ、せっかくなので横と後ろの写真をUPします。
↑横の写真
↑後ろの写真
ここで教訓!
★建物は、決して後ろから見ないこと。
女性は、たまに後ろから見た方がいい人がおりますが。……
余計なことですね。(笑)

【所在地】北海道函館市宝来町23-4 グーグルマップ


旧衛生湯 
旧衛生湯

旧衛生湯
斜めアングル

旧衛生湯
トスカナ式円柱で玄関の小さな庇を支えている

旧衛生湯
側面

旧衛生湯
背面