青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


3 中部地方の勢力

3-1 濃尾平野3-2 丹後・若狭3-3 越前・加賀・能登3-4 近江・山城

3―1 濃尾平野

 岐阜市には100年頃にできたとされる瑞龍寺山山頂墳がある。これは石室しか残っていないが、全国でも数個しかない伽耶伝来の直口壺(ちょっこうつぼ)が出たと伝えられ、後漢の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)も出ている。濃尾平野では弥生後期の中葉(100年頃)に漢文化の流入が著しいという。愛知県清須市から名古屋市西区にまたがる弥生の大集落、朝日遺跡から巴形銅器(ともえがたどうき)や朝鮮半島製袋状鉄斧(ふくろじょうてっぷ)などが出土し、この時期に新しい金属製品がまとまって流入したことを示している。朝日遺跡では中国地方から関東地方までの広い範囲の土器が出土する。ここで弥生後期の前葉から中葉にかけては山中式といわれる赤く塗った土器が現れるが、それらは形もワイングラス型など宮廷式を含み洗練された文化が感じられる。この時期、熊本地方でも赤い土器が出るという(図9参照)。朝鮮半島か、大陸からの文化が九州西部を経てもたらされたのではないか。濃尾平野には九州の風習である円墳が非常に多い。朝日遺跡からは弥生前期の銅鐸鋳型が出土しており、早くからの朝鮮半島系の工人の渡来が考えられる。和歌山県御坊市に弥生前期の鋳造炉があることから、九州から太平洋周りで伊勢に来た渡来人がいたと私は考える。岐阜市周辺への半島からの経路としては若狭湾方面からだと思われ、たぶん経路はひとつではなく錯綜している。しかし、弥生後期中葉には特に丹後を中心とする北近畿には擬凹線文(ぎおうせんもん)に代表される独自の土器文化があったのに、その影響は東海にまでは及ばないから、赤い土器の伝播はそのルートではなかっただろう。
 東日本に多い前方後方墳は、方形周溝墓とそこへの通路が形式としてまとまったものだとされるが、その祖形は1世紀を過ぎた頃にできた愛知県一宮市の廻間(はさま)SZ01だという。前方後円墳がまだ形にもなっていない頃に濃尾平野では前方後方墳の系譜ができつつあった。土器の形式は120年頃(弥生後期中葉)から廻間式に変わり300年頃まで続くが、廻間SZ01はその最初期にあたる。廻間式の甕(かめ)は薄型で半島からの技術者の存在が考えられる。200年頃(弥生後期末)には一宮市に40.5メートルの前方後方墳、西上免(にしじょうめん)古墳ができるが、出土した土器群はS字状口縁台付甕(じじょうこうえんだいつきかめ)、パレススタイル広口壺(ひろくちつぼ)、二重口縁壺(にじゅうこうえんつぼ)など尾張の古墳時代初頭を特徴づけるものだった。190年から220年頃にかけて東海土器は各地に急速に拡散し、古墳出土の土器は千葉・長野・福井・播磨をカバーし、奈良県の纏向(まきむく)遺跡にも入っている。鏡・鉄器などを持つ60メートル級の前方後方墳の出現は廻間Ⅱ式前半(200~225頃)を下らないという。
 銅鐸は最終段階の大型の三遠式銅鐸が、伊勢・岐阜・長野・山梨・静岡に見られるが、これらの製作も50年頃に濃尾平野で始まった。大型銅鐸は250年頃に終わりを迎える。金属加工は伊吹山から吹き降ろす強風を利用した野だたらで盛んに行われたようだ。
 濃尾平野の初期の文化は、大垣・岐阜・一宮周辺に発達した。この地は揖斐川・長良川・木曽川や周辺の大小河川が集まるところであり、琵琶湖や日本海とも河川を通じた交通ができる。当時は川がかなり内陸まで入り込んでいたのだろう。大垣市の荒尾南遺跡から出た弥生後期の壺には82本の櫂を持つ大型船が描かれている。これは大垣まで船で行けたということであろうし、弥生後期にそれほどの船を操る人々が既にいたということだ。

3―2 丹後・若狭

少し時代が下るが、丹後では3世紀前半に作られた36×39メートルの赤坂今井墳墓が弥生時代有数の規模を誇る。形は方形台状墓(ほうけいだいじょうぼ)で、北近畿・北陸・東海の一部に見られる。佐賀県の吉野ヶ里遺跡の台状墓もこれに似ているらしい。そして、出雲に発した四隅突出墳が中国地方から石川・富山と広がる中で、この地域にだけ存在しない。ここには出雲に対抗しうる力や気風があったということだ。北近畿は弥生後期中葉に擬凹線文土器の様式圏を成立させる。ちょうど濃尾平野に廻間式ができる頃だ。西谷式に代表される擬凹線文土器は古墳時代初頭まで強い地域色を維持する。日本海側に広く展開するこの土器文化の中心が丹後だ。弥生後期後葉から末にかけての西谷式は若狭・丹波・但馬・因幡・北播磨・北近江をカバーする【図⑪】。南丹波では近江系の影響が強いが、加古川・由良川ルートは北近畿と密接な物流ラインがあった。
図11 丹後の土器文化圏 (『古式土師器の年代学』から)
大和川流域の吉備型甕の分布
丹後半島の竹野川中流域、京丹後市に紀元前2~3世紀の途中ヶ岡(とちゅうがおか)遺跡がある。ここからは大量の玉や鉄斧が出土した。紀元前1世紀頃の奈具岡遺跡からは鉄工房や玉造りの跡が見られる。この二遺跡の中間点にタニハの地があり、ここから丹波が発祥したらしい。丹後地方のガラス玉造りは弥生時代を通して大量に生産され、北部九州を除いては他に比べるものがないという。ガラスの原料はすべて輸入品で、この地方はそうした朝鮮半島または大陸とのルートを持っていた。
また、若狭湾沿岸では弥生時代に北部九州の銅製品を忠実に模した石剣(せっけん)・石戈(せっか)が出土している。

3―3 越前・加賀・能登

 若狭湾の西側は、日本海側にあって出雲の勢力に対し独自の立場を主張したが、東側とその北の越前・加賀・能登では出雲との関わりが深かったようだ。弥生を代表する遺跡は羽咋市の吉崎(よしざき)・次場(すば)遺跡だ。羽咋と大国主の関わりは1章4―1項で述べた。銅鐸は若狭町・鯖江市(日野川沿い)・坂井市から出土している。弥生後期の加賀の月影式土器は出雲に似る。北陸では2世紀以降出雲や東海との交流が活発になるようだ。2世紀は四隅が定着してくる時期で、出雲が積極的にその勢力を北陸に伸ばしたのだろう。
 越前・加賀では弥生終末期に独自性の強い土器を生み出すが、古墳時代前期前葉に東海系を主とする外来土器によって在地色が崩壊する。白山市の一塚(いちづか)遺跡には四隅突出墳があるが、祭祀用の土器は東海の影響の強いものだという。

3―4 近江・山城

 近江には広域を支配する首長は出なかったようだ。この地は日本海と太平洋の流通の通過地点で、人々が絶えず行き来していたからだろう。その中にあって弥生時代には野洲川下流地域が目立つ。24個の銅鐸を出した大岩山遺跡や、古い形式の銅鐸や祭祀用建物跡を出した栗東(りっとう)市の下鈎(しもまがり)遺跡があり、銅鐸や銅戈の鋳型も出土しているので、ここが青銅器の一大生産地だったことは間違いない。守山市の伊勢遺跡には高殿風豪壮建築跡がある。同じく守山市の服部遺跡には300基もの方形周溝墓があって、弥生後期後半には前方後円・後方墳の先駆けとなるような周溝墓もできる。
 この地域では200年頃社会の枠組みが変化したらしい。それは銅鐸の埋納と無関係ではないだろう。3世紀前半に前方後方周溝墓がいっせいに現れ、中頃には前方後方墳が出現する。弥生時代に守山市に前方後方墳の益須寺(やすてら)1号が作られ、3世紀末か4世紀初頭には野洲市に42メートルの前方後方墳、冨波(とば)古墳ができる。
 琵琶湖の西では、安曇川(あどがわ)に近い高島市に縄文晩期にすでに土器棺墓96基、土壙墓100基を擁する北迎西海道(きとげにしかいどう)遺跡がある。同市には弥生時代には独立棟持柱(どくりつむねもちばしら)建物があった針江川北遺跡もある。早くから渡来人が住み着いた地のようだ。
 山城にも有名な青銅器製作センター、向日市の鶏冠出遺跡がある。弥生時代には向日市と長岡京市を中心とする乙訓(おとくに)が栄えた。長岡京市の雲宮遺跡や神足(こうたり)遺跡にそれが見える。乙訓の繁栄は4世紀まで続く。