青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


4 九州の勢力


4-1 縄文から弥生の九州各地4-2 福岡市周辺4-3 三つの勢力4-4 海幸・山幸神話4-5 大阪湾沿岸への移住4-6 安芸地方への移住4-7 『倭人と鉄の考古学』—弥生から古墳時代にかけての鉄製産



 九州、特に北部は弥生時代・古墳時代だけでなく、奈良時代に至っても進んだ中国文化の入り口の役目を果たした。ここには当時の日本で一番先に新しい技術やそれを駆使する工人が入ってきた。文化的に進んだ地域が他の地域をリードするのは当然のことに思われる。今でも邪馬台国は大和か九州かという論争があるように、古墳時代の始まりの頃に倭をリードするような王国がこの地にあっても不思議はないかもしれない。
 しかし、北部九州には地名を指して具体的に出来事を述べるような神話がない。九州の『風土記』も『記』『紀』に登場する天皇たちの話が多く、例えば出雲に見られるような、それより前にその地で活躍した神々の伝承が少ない。独自の神話を伝えるのはむしろ南部九州のほうだ。王国の存在と語り伝えは必ずしも揃っていなければならないわけではないが、なぜそうなのか。
 九州は畿内の文化や政権と密接につながりがあると思われる。九州のどの地域からどのように畿内に入っていったのか、また他の地方と九州の人々との関わりはどうだったのか、歴史を遡って少し詳しく人や物の流れを追って見て、疑問について考えていきたい。

4―1 縄文から弥生の九州各地

 紀元前8世紀~紀元前6世紀の土器の分布から雑穀畑作が朝鮮半島から九州に入ってきたようすがわかる【図12】。ルートは二つあって、ひとつは関門海峡から国東半島を回って宮崎、そしてさらに南部へ。もうひとつは長崎周りで宇土半島から人吉へ。この土器の分布は当然福岡を中心とする北部九州に多いが、宮崎を中心に日向・人吉・志布志(しぶし)・垂水(たるみ)・鹿屋(かや)にも多い。
図12 畑作・稲作の伝播(『日本の歴史 王権誕生』から)
畑作・稲作の伝播
 紀元前6世紀~紀元前4世紀には突帯文土器と水稲がほぼ同じルートで伝わるが、水稲は東回りは宮崎止まり、西回りは長崎止まりだ。土器の分布は福岡・佐賀・熊本と長崎の沿岸に多い。
 弥生時代初頭の稲作は福岡より南にはあまり入ってこない。
 頭骨で分類すると北西九州型と北九州型があるという【図13】。前者は松浦半島から佐賀平野・熊本平野・天草諸島の北部・五島列島を含む。後者はその東側で、福岡市・北九州市を含み、東限は行橋市と日田市を結ぶ線の周辺で、南限は熊本の白川だ。但し吉野ヶ里は後者に属するらしい。米の種類も玄界灘型と有明海型に分けられ、支石墓も玄界灘と有明海に分かれて伝来したという。縄文時代には、筑後川は今よりずっと大きく内陸まで入り込んでおり、玄界灘と有明海は北部九州を東西に分断する形で川でつながっていた時期がある。伝播の違いはこうしたことと関係していると考えられる。
図13 頭蓋骨のタイプ 『日本の歴史 王権誕生』から 
頭蓋骨のタイプ
 長崎県の支石墓は北松浦郡に集中する。長崎の支石墓は中国折江省の石棚墓に似たものがあるという。縄文晩期に最初に現れる高地性集落は長崎・佐賀・熊本にまばらに分布し、支石墓社会に関連するという。
 熊本県は西日本で例外的に縄文遺跡が多いところだ。九州では出土例の少ない土偶は熊本に集中していて、火の祭祀に用いられたらしい。宇土市の曽畑(そばた)式土器は縄文前期の土器だが、朝鮮半島から沖縄まで広く見られる。これは朝鮮半島の櫛目文(くしめもん)土器の影響を受けて南方系海洋民族が作り出したものだ(南方海洋族の轟(とどろき)B式土器から発展したと考えられるので)。また、朝鮮半島の釣針技法による石製結合釣針が天草市から出ている。このように熊本市周辺の人々は縄文時代から広く海洋、特に東シナ海で活躍したようだ。ゴホウラなどの貝の交易にもこの地の海洋族が関与したことは疑いないと思われる。
 水稲栽培の痕跡は南九州では少ないが、鹿児島県の南さつま市金峰町の高橋貝塚からは籾痕のある土器や石包丁が出土している。土器は縄文晩期とされる夜臼(ゆうす)式で、日置市の市ノ原遺跡でも出ている。高橋貝塚は縄文晩期から弥生中期の遺跡で、大陸系磨製石器群を出土している。また、ここでは南海で採れたゴホウラ・イモガイなどの貝の粗加工をしていたようだ。南海産の貝の腕輪はクニやムラの首長がその地位を示すものとして右腕にはめるもので、出雲市で発見された弥生中期の人骨には6個の腕輪がはめてあったという。
 万之瀬川(まのせがわ)河口は東シナ海貿易の拠点で、下原遺跡では朝鮮系無紋土器が出ている。日置市吹上町から金峰町にかけては支石墓や甕棺が目立つ。
 鹿児島県の志布志(しぶし)市周辺では、縄文中期から瀬戸内地方との交流があった。中原遺跡や前谷遺跡から瀬戸内系の土器が出ている。鹿屋市の王子遺跡では弥生中期から後期初頭にかけての集落跡が確認された。瀬戸内系と北部九州形の土器が出て、大型掘立柱建物跡もあった。
 志布志市の北、曽於市末吉町の桐木遺跡から縄文中期の瀬戸内系土器が出ている。小倉前遺跡(末吉町)では大量に夜臼式土器が出ていて、これは縄文耕作があった証拠だという。上中段(かみなかだん)遺跡で籾痕のある縄文突帯文土器が出ている。鳴神(なるかみ)遺跡からは縄文の大型掘立建物跡が出て、これは鹿屋市の王子遺跡より数百年古いという。縄文後期の丸尾遺跡では独自性の高い土器を開発したらしく、九州東南部にその分布があり九州西北部ともつながりがあったと考えられている。末吉町は志布志湾に注ぐ菱田川の上流で、宮崎県の都城市がそのすぐ北にある。都城市は大淀川水系の上流にあたり、各地の水源が集まっている。どうやらここには縄文中期以来の一大文化圏があったようだ。
 都城市の肱穴(ひじあな)遺跡からは松菊里型住居・有溝石包丁・水田・突帯文土器が出土していて縄文時代からここに渡来人がいたことがわかる。宮崎市の檍(あおき)遺跡からは弥生前期の刻目突帯文(きざみめとったいもん)土器が出ていて、ここには積石(つみいし)墓がある。積石は讃岐・阿波に多く見られる形式だ。児湯(こゆ)郡の持田中尾遺跡からは弥生前期末から中期初頭の大陸系磨製石器が出ていて、これは畑作用の道具らしい。ここには無紋土器と松菊里型住居も見られる。畑作用の方形石包丁は大分・宮崎・熊本に分布し、瀬戸内の影響を受けているという。
 弥生中期に宮崎市を中心に集落が激増し、日向型間仕切り住居ができる一方、瀬戸内系の土器が出て、中期以降瀬戸内との交流が活発だったことを示す。
 大分県では日田市の吹上遺跡から弥生中期の甕棺7基が出土した。水銀朱・ガラス玉・銅戈・鉄剣などが出て、北部九州とつながりのあった首長の本拠地だと思われる。一方、大野川上流の石井入口遺跡では鉄斧・後漢鏡の破片などが出るものの、閉鎖的で縄文の要素を色濃く残した土器を使っている。
 青銅器の古い時代の鋳型は玄界灘ではなく佐賀平野に多い。弥生時代の鉄器の出土数は圧倒的に九州が多い。その中でも鉄戈(てっか)は非常に技術の優れたもので北部九州からしか出土がない。
 北部九州について住居型から見ると、弥生中期に北部九州ではそれまでの円形主流から円方混在になることから近畿地方から人が移住したと考えられる。筑後では弥生中期に北牟田型が主流になる。この住居型の他の地方の遺跡は沼E遺跡(岡山県津山市)・青木遺跡(鳥取県米子市)・山芦屋遺跡(兵庫県)など金属製作従事者関連と思えるような地域にある。弥生後期になると筑後では室岡型になる。加古川市に近い大中(おおなか)遺跡(兵庫県播磨町)にはこの住居型が多く、ここは筑後人の村だという。

4―2 福岡市周辺

 福岡県は全国に流布した遠賀川式土器や、最初の稲作遺跡といわれる板付(いたづけ)遺跡(福岡市)、青銅製品やその鋳型の出土、魏志倭人伝に記載された九州各地の名前、『後漢書』に書かれた〈漢委奴国王印〉など古代史のテーマには事欠かない場所だ。その歴史はやはり稲作が始まったとされる弥生時代から始まる感がある。
 弥生中期前葉の宇木汲田(うきくんでん)遺跡(唐津市)の甕棺墓地には青銅器を副葬した家族が現れ、これが唐津平野の首長だという。その後、中期中葉の吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡(福岡市)では青銅器の副葬が本格的に始まる。吉武高木は早良(さわら)平野の王族の遺跡らしい。この頃既に鏡・玉・剣の3点セットが副葬された棺があった。まだクニの首長たちの力の差はあまりなかったという。それが中期の後葉になると三雲南小路遺跡(前原市)に32×22メートルの墳丘墓ができ、前漢鏡35枚が副葬される。また須玖岡本遺跡(春日市)に前漢鏡30枚を副葬した墓ができる。須玖で金属・ガラス製品の生産が行われていた跡がある。両遺跡で甕棺が出ている。前者は糸島半島に拠点があり、魏志倭人伝に言うイト国で、後者は後漢の光武帝に金印を授けられた奴国だとされる。そしてこの二国が福岡市から唐津市にかけて興った国々の王としてこの地域を統括したようだ。
 三雲南小路や須玖岡本ができた頃から、西日本では銅鐸に代わって各地が独自の青銅祭器を持つようになる。この生産を担ったのが奴国で、この時頃期が奴国の最盛期だという。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡では弥生の前期に早くも環濠を持つ集落が現れる。中期には巨大な環濠集落に発展し、14基の甕棺墓や46×27メートルの墳丘墓、高殿建物などができる。高殿を建てて行う祭祀は弥生中期中葉の後半(100BC頃)に北部九州で行われたようだ。そうした建物は大阪市の加美遺跡・和泉市の池上曽根遺跡・尼崎市の田能遺跡・武庫庄遺跡・川西市の加茂遺跡などにも見られる。吉野ヶ里の大型方墳は西周から春秋時代(1000~403BC)の中国江南の墓制の影響があるという。吉野ヶ里は頭骨的には北九州型のようだが隼人の跡も見え、文化的には有明海を介して南のものを取り入れているように見える。
 イト国では、三雲南小路の後に井原鑓溝(いはらやりみぞ)遺跡、平原(ひらはら)方形周溝墓と、王の墓と目される遺構が続いて残る。イト国の繁栄は、今市遺跡に代表される石斧を北部九州一円に流布させたことが基盤だった。青銅器や鉄器も石斧ルートで流通したようだ。だが、先に述べたように、弥生中期からは畿内人が北部九州に入ってきて状況は変わる。平原遺跡はちょうど邪馬台国(3世紀中頃)の時期にあたるが、三雲・井原が甕棺だったのに対し、平原は、日本最大の46センチメートルの径の銅鏡ほか37枚の鏡を副葬していながらも墓の形は畿内風の方形周溝墓だ。九州の王には違いないが、畿内との強い結びつきを想定せざるを得ない。畿内人はイト国を通して朝鮮半島に関わった。奴国は57年に後漢から金印をもらうが、その後奴国の中心だったと思われる春日市周辺に巨大な王墓ができることはない。イト国は3世紀の前半は国際交流の窓口として機能するが、弥生末には北部九州では農器具に鉄器が普及し石斧は使われなくなって財源がなくなった。3世紀後半には粕屋・宗像に畿内の土器集団が来てイト国は衰退したらしい。

4―3 三つの勢力

 以上述べたことから次のような推論ができる。
 九州には、縄文時代から人・穀物・技術などの流入があったが、それは朝鮮半島のものが最も影響が大きいことは否めないものの、有明海さらに東シナ海を行き来する海洋族の活躍で中国の江南地方からの影響も少なからずあった。
 北部九州には大まかに言って、福岡を中心とする集団と筑後平野を中心とする集団がいた。彼らは祭器を共有する連合体でもあったが、住居や土器などでは独自性を主張する面もあった。筑後平野の方が古い文化の痕跡が多い。九州南部には北部とはまた違った種族がいた。彼らはたぶん火山灰の多い土地柄のせいでなかなか稲作が普及せず、北部とは別な文化を持ったという面がありそうだ。
 初めの支石墓文化の移住者が佐賀・熊本・長崎の山間部にいたのはどんな意味があるのだろう。高地性集落の意味については、焼畑農業の村であったとか、石器作りの村で素材になる石の産地に住んだとか、季節的に住みやすい環境に移動したなど様々な理由が考えられている。弥生時代では、環濠などの防衛機能を持ち間欠的に集落を使用していることなどを考慮すれば軍事目的(見張りや防衛など)であった可能性は高い。
 熊本県の縄文晩期の遺跡、ワクド石遺跡や上の原遺跡では籾跡のある土器が見つかっていた。これについて水稲栽培に先駆けた畑作稲の栽培を想定する研究者もいたが、近年の調査でそれらはイネではないことがわかったらしい。畑作の集団には違いないのだろうが,それにしてもなぜ標高が200メートル以上の場所に住む必要があるのか。ワクド石遺跡は菊池郡大津町にある。菊池郡は古くから菊池川の砂鉄を使った製鉄が盛んなところだ。九州だけでなく、広島県庄原市の名越岩陰(なごえいわかげ)遺跡や島根県飯南町の板屋Ⅲ遺跡でも突帯文土器の底から籾痕が発見されている。庄原市・三次市も後に鉄生産が盛んになる。飯南町も三次のすぐ北にある。中国地方では稲作伝播に2ルートある。ひとつは海岸地方や河口に遠賀川式土器を持った集団が移住したもの。もうひとつは中国山地に点々と集落ができるもの。それらの移住は西から東へ漸進的に行われたのではなく、飛び地的に村落ができるという形だった。淡路島の標高200メートルにある五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡も弥生後半の鉄器遺跡だ。
 私は、彼らは金属関連の探索者だったと見ている。中国での青銅器の始まりは紀元前2000年という昔で、鉄器も470BC頃には現れる。その原料を求めて大陸から海を渡ってきた人々が彼らなのではないか。半島からの移住者も、稲作技術とともに集団で移住してきた人々よりもっと早くから少人数で日本に来ていたのではないか。
 鉱床探しの中で水路を使った運輸の方法や経路を開発していったのも彼らだと考えられる。一大文化圏があったと思われる都城や末吉は水系で日向灘・志布志湾・鹿児島湾とつながる。霧島山系の水路を経由すれば川内平野や八代海へも出られる。広島県の三次や庄原も同じような交通の要衝だ。
 古い型の銅鐸の鋳型は佐賀平野から出ることなどを考えると、初めのまとまった金属製作移住者は長崎の西から有明海を介して九州の中・南部に入ったのだと思える。それから彼らは宇土半島の北に注ぐ緑川を遡って宮崎県の高千穂峡に達し、そこから五ヶ瀬川(ごかせがわ)を下って日向灘に出たと思う。また緑川は耳川にもつながっている。この川は五ヶ瀬川より南で日向灘に達する。耳川の上流の宮崎県の山間部に椎葉村がある。ここにはイノシシの下顎の骨を連ねる祭祀が現代にまで伝えられているが、この祭祀が大阪府池上曽根遺跡にもあり、大和の唐子・鍵遺跡にもあった。つまり彼らは宇土半島から九州の内陸を経て日向灘に出て、そこから黒潮の流れに乗って東に遠征したのだと思う。そうすれば本州ではまず紀伊半島につくだろう。弥生前期の青銅器遺跡が和歌山、愛知にまで達しているのはそういうことだと私は考える。それは遠賀川に稲作が伝えられるより早かったかもしれない。この伝播については 「6―3田村遺跡」の項でまた述べる。九州南部の人々は広い海域を活動の場にしていた。その傍証は神話の中にも見える。

4―4 海幸・山幸神話

「弟が兄から借りた釣り針を失うが、魚の助けによりこれを取り戻して兄に返した後に自分を苦しめた兄に報復する」話はインドネシアのケイ諸島・セルベス島などに源流があるという。『記』ではこの兄弟、火照命(ほでりのみこと)と火遠理命(ほおりのみこと)またの名は天日高日子穂穂出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)は、天孫である父の天日高日子番邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)が笠沙(かささ)の岬で会った神阿多都比売(かむあたつひめ)を妻として生まれたとする。『紀』でも、神の名などに多少違いはあるものの話の筋は同じだ。笠沙は薩摩半島の西の岬に笠沙の地名があるのでここだと思われる。また〈アタ〉は薩摩国阿多郡とされ、薩摩半島の吹上浜沿いの地方だ。この地は前述したように南海の装飾用貝類で交易した人々の拠点地域だった。
 沖縄県や奄美群島にはニライカナイの思想がある。海の彼方に理想郷があるという伝承だが、私はこれは島の人々の祖先が海を渡ってその地にやってきた後、長い年月の末に故郷を懐かしむ気持ちが故郷を理想郷としてとらえる考えにまとまったものだと思う。
『記』で、弟の火遠理はなくした釣り針を探すべく塩椎神(しおつちのかみ)の教えに従って竹の籠を作って海に乗り出し、潮の流れに沿って行くと綿津見神(わたつみのかみ)の宮に着く。宮が海の底だなどとは書いていない。宮はただ海の彼方にあるのだ。竹を編んだ籠は実際ベトナムに似た竹製の小船があるそうだ。
 ところが『紀』では弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が乗る船は竹製ではないし、潮路の旅もなく直ちに海中に沈む。話のこの部分は玄界灘とその北の海洋族が後から手を入れたのものだろう。玄界灘には縄文時代前期に成立した玄界灘漁労文化圏が存在し、縄文時代を通して存続する。後の倭政権は朝鮮半島とは切り離せない関係になるので、半島と日本列島を取り持った玄界灘系海洋族の話としてこれを採り入れたのだろう。〈後に〉というのは、主人公の彦火火出見の名が時代が下ることを示すからだ。〈ヒコ〉を名前の前につける習慣は5世紀後半から6世紀前半のものだという。各氏族が自らの出自の正当性を主張するために氏族の来歴を記し始めるのが5世紀後半だからその時代に挿入されたと考えるのが妥当だろう。朝鮮半島からの渡来人にとっては故郷は潮路に乗ってはるばる行くほど遠くない。海神の宮が竜宮で海の底にあるという伝承はこの地域にあったかもしれない。また子を産むときに産屋を建てるのは玄界灘周辺の習慣らしい。私は、『紀』の海幸・山幸譚は南北海洋族の伝承を融合させたものだと思う。

4―5 大阪湾沿岸への移住

 弥生中期の後半から後期の前葉にかけて摂津・河内・和泉地域に大阪湾形銅戈の祭器を持つ集団が現れる。私は、これは九州からの移住者だと考える。 1章2―3項で述べたように、この頃高地性集落は瀬戸内海沿岸に多く見られる。これは北部九州の人々が新天地を求めて瀬戸内を東に向かった結果生み出された抗争の証拠だろうと推測する。
 福岡周辺は稲作の先進地域だ。そして半島からの工人をはじめ流入者も多い。人口増加の速度が他地域に比べて大きいのに平野面積はそれほど大きくない。例えば吉野ヶ里は今は内陸にあるが、この遺跡が生きていた頃は海岸線は今よりずっと上で、村は水辺にあった。それだけ平野は狭かったことになる。弥生の中期には既に北部九州の平野では人口は飽和状態になっていたらしい。そして一部の人々は新しい土地を求めざるを得なくなって、着いた先のひとつが大阪湾沿岸だ。
 このとき移住した人々は筑後平野の人々なのではないかと私は思う。大阪湾銅戈の範囲が、吉野ヶ里と同様の高殿祭祀を行った池上曽根遺跡など大阪湾岸の集落地域と重なるからだ。また奴国はこの頃最盛期のただなかで、勢力を広げはしても移住は考えなかっただろうと思うからだ。
 銅戈は、初めに九州に出来の良い舶載品が入る。墓の副葬品だった。武器型青銅器は実質的使用より魔除け的性格が強く、その後祭祀に使われるようになる。九州人は矛や剣に対して戈を最高位に位置づけ、容易に外に出さなかったという。しかし、大阪湾にこれが現れた。それまでは北部九州が分布の中心で四国の中西部までしか出土がないのに、この時期になって急に大阪湾に現れ、このときはもう戈があるのは北部九州だけになる。北部九州から大阪湾に移住したのはかなり大きな集団だったと思われる。しかし既に述べたように、この時期の各地独自の祭器の伝統は百年くらい続くので、彼らは大挙して押し寄せるというよりは徐々に人数を増したと考えるのが妥当だろう。戈は重要な器物ではなかったとする説もあるが、そんなはずはないだろう。なぜなら、大阪湾形銅戈が現れたとき北部九州では中広型銅戈(なかひろがたどうか)の文化圏ができているからだ。重要でないものを先進地域の北部九州が独自のものとして祭祀に使うとは思えない。しかも銅戈も鉄戈も最初は舶載品で非常に出来が良かった。これを大事と思わないことがあろうか。
 弥生中期から後、各地が独自の青銅祭器を持つようになったとき、瀬戸内は平型銅剣の文化圏としてまとまっている。これは瀬戸内の首長たちが連合していたことを示す。讃岐の金山産サヌカイト貿易を通じて瀬戸内の首長たちは早くからつながりがあって、九州からの侵入者を入れなかったのだろう。大阪湾沿岸はこのときまだ海がかなり内陸まで入り込んでいて、住むのに必ずしも理想的ではなかったと思われるが、九州の人々はそこに移住することになった。

4―6 安芸地方への移住

 弥生の後期になると九州、主に奴国の人々が山口・広島県方面に移住したと私は考えている。その理由は、ひとつはこの時期に山口県の周南市と下松市周辺、広島県太田川・三次市につながる江(ごう)の川(かわ)周辺に高地性集落が密集することだ。二番目の理由は、この地域で鉄関連の仕事が、弥生前期末以降北部九州にほとんど遅れをとらずに展開していて、後期中葉にはこの地の鉄生産物が東方へばかりか九州にも送り出されるようにさえなることだ。中国山地は砂鉄が豊富なので、これを求めて工人集団である奴国の人々は移住したというのが私の考えだ。広島市の太田川周辺には九州に特徴的な円墳が多く、そのほとんどは小型だ。大首長に率いられたというよりは工人たちが小グループで移ったように思える。また広島市にはアサの名がつく地名が多いが、アサとは古朝鮮語で鉄を意味する。アシ・アソも同様だ。
 おそらく全員が移動したわけではないだろう。その後も北部九州は最新の技術が入ってくる窓口であり続けた。例えば、古墳時代初頭に福岡県の博多遺跡で出土したかまぼこ型羽口は新たな送風技術が伝えられた可能性を示している。炉の遺構が内部の温度が相当高かったらしいこともそれを裏付けている。古墳時代初頭には技術革新があったようで、古墳の副葬品として鉄器が威信財として使われるようになる。
 では、弥生から古墳時代にかけての鉄製産がどう推移したのか、村上恭通氏の『倭人と鉄の考古学』(1998)からの抜書きでまとめてみる。

4―7 『倭人と鉄の考古学』——弥生から古墳時代にかけての鉄製産

○弥生時代中期中葉に、北部九州では鍛造による鉄器製作が始まる。
 鋳造鉄器にも早く馴化した。
 北部九州では中期末までに工具はほとんどの種類が鉄製になり、後期には農具もすべて出揃う。
○中期末に北部九州に鍛冶炉が現れる。これは鉄戈生産に関係し、分布の中心は春日市。
 鍛冶炉の技術は古い段階ほど高い。炉の温度が高く鍛冶具も調っていたがその後劣化する。漢が鉄生産技術を独占して広めなかったので半島からの工人や技術の流入がなかった。青銅器は工人が有力者に所属し供給目的も明確だったので技術レベルが保たれたが、鉄器は鉄戈の限定版を除くと首長に供給する工人として定着しなかった。
○後期中葉以降、舶載鉄器が積極的に輸入され、鉄器の使用方法・素材の知識を高める。
○瀬戸内西部(山口・広島・愛媛)では鋳造鉄器片の再利用・鍛造鉄器の使用開始などが九州にほとんど後れを取らず、後期中葉にはこの地で生まれた新型鉋(かんな)が九州・東方へ広がる。各地域が新形式を生み出すなど地域性がある。日本海沿岸には北陸に及ぶ鉄器の共通点がある。
○弥生時代の鍛冶は中期末が最古で、住居と同じ竪穴内で行われた。
 弥生時代の鍛冶関連遺跡の分布は、福岡県福岡市と熊本県山鹿市周辺に集中している。
 次に島根県吉賀町周辺だ。【図14】
図14 弥生時代における鍛冶工房の分布(『倭人と鉄の考古学』から)
弥生時代における鍛冶工房の分布
○弥生後期後半から末にかけて鉄の利器に豊かな多様性を見せる遺跡群は以下の通り。
  広島県 高陽台A遺跡、大谷遺跡
      毘沙門東遺跡
  山口県 下七見(しもななみ)遺跡
  鳥取県 南谷遺跡、宮内遺跡
  高知県 稗地(ひえじ)遺跡、林田遺跡
○広島県三原市の小丸遺跡に製鉄炉の跡があるが、周囲から出土した土器と鉄滓(てっさい)とともに出土した木炭は弥生時代のものだが、炉床の木炭は古墳時代末のものでこの炉がいつの時代のものか論議がある。
○威信財としての鉄は弥生終末期の鉄鏃が象徴的で、数量・形ともにそのためにわざわざ作られている。中でも定角式は製作技術が高く、北部九州・瀬戸内西部に分布する。
○椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳では大量の鉄器が出土した。鏃が実用でない大型品が出る。この頃に畿内に大規模な工人集団が形成されたと言える。
○古墳時代初頭の博多遺跡では精錬・素材の生産・最終工程の鍛錬鍛冶を行っていた。またこの時期に限られるかまぼこ型羽口を使用している。それは纏向(まきむく)遺跡、神奈川県南千代原遺跡、千葉県沖塚遺跡と伝播していく。

 村上氏によれば、弥生時代鉄器は北部九州ではかなり盛んに再加工され、製品化され、様々な種類の利器が使われていた。しかし、それは地域的なものでしかなかった。おそらく漢の政策のせいで製鉄の技術が充分に伝えられなかったし、倭の方もことに農具ではまだ石器を使っており、祭具では青銅器のほうが重要だった。それで弥生中期に鉄器製作は始まるものの、炉の技術は時代とともに進むのではなく劣化したということである。