Isidora's Page
稲生平太郎著作解説

文学研究・エッセイ編 その壱

『異形のテクスト――英国ロマンティック・ノヴェルの系譜』
 京都大学に提出・受理された博士論文をもとにした論考で、本来は専門的なものなのだろうが、英国のゴシック小説、十九世紀小説をろくに読んだことのない人にも理解が行き届くような論考になっている。
 読書家と言われるような人でも、ここで取り上げられている書物をすべて読んでいる人がどれほどいるかわからない(私も『サン・レオン』は読んでいない)。だが、たとえこれらの書物を読んだことがなくとも、文学に興味さえあればおもしろく読めるであろう。
 私はこの道の専門家ではないので、きちんとした学問的な評価はできないのだとは思うけれども、精確な読みを示していると思う。緻密で理性的な論理が構築されているため、説得力も強く、その論理に乗せられてしまうので読み出すと止めることができない。文学史全般という観点から見ても興味深い論が展開されており、本当に魅力的な論文集である。
 「拡張と逸脱――ロマンティック・ノヴェルとは何か」本書で取り上げる作品群の共通項について概説する。つまりそれは、ノヴェルの領域を拡大しようとした作品群であり、そのために「きわめて曖昧で、両義的、重層的なものになっている」ようなテクストである。
 「崇高なる迷妄――『ケイレブ・ウィリアムズ』から『サン・レオン』へ」『サン・レオン』の内容を紹介し、知識=力への欲望が不可避的に持つ光と闇の両側面を描くことで、ノヴェルの領域を広げたとする。
「知識の両義性――『サン・レオン』から『フランケンシュタイン』へ」メアリ・シェリーが父ゴドウィンから受け継いだのは前掲で論じた『サン・レオン』のテーマにほかならないとする。
 「鏡の中の悪魔――『義とされた罪人の手記と告白』」『告白』の精緻な分析により、このメタノヴェルの複雑な構造をみごとなまでに解き明かしている。主人公の分裂した自我に着目し、主人公、兄、ギルの三人による鏡像関係が成立しているとする。とにかく素晴しい論考。
 「閉ざされた楽園――『嵐が丘』」キャサリンとヒースクリフが戻りたいと願った場所「箱寝台」についての考察。
 「空想の不思議な魔術的歓び――『ヴィレット』」過剰な想像力と理性的世界のあいだで引き裂かれていたシャーロット・ブロンテの特質があらわになっている『ヴィレット』が、その両義性・分裂性のゆえに小説の領域を広げているとする。
 「附論――恐怖の分類学」十八世紀、ゴシック小説以後に、文学的恐怖についての考察が深まっていく過程で、terrorとhorrorとが使い分けられていくようになること、そしてその意味付けのいくつかの位相について論じている。
 
●関連する短文へ●

『文学と女性』
 女性の論者による、あるいは女性作家を論じた、あるいは作品の中の女性像を論じた論文を十九編収録したもの。共編者となっている吉田幸子奈良女子大学名誉教授の退官記念的な趣があるようである。本書は最も現実的な仕事の一部なのであろう。
 収録された「妖精物語としての自伝」は、『ジェイン・エア』における主人公ジェインの妖精物語的な世界観が、どのように描かれているか、あるいは隠蔽されているかを、登場人物としてのジェイン、語り手としてのジェイン双方から検証したもの。幻想的な世界観を持つ女性としてのジェイン、現実に立脚した自立した女性としてのジェイン、二つのジェイン像が分裂することなく作品の中で展開されていることを称揚する。

「気象と内面」
 『ヴィレット』において、雨・嵐という気象状況が頻出することをめぐって繰り広げられる論考。この論考が例えば「『ヴィレット』における嵐のシンボリズム」というようなタイトルを与えられていないのは、内面を象徴的に表現するために嵐の場面が描かれている、というような一時的なレヴェルとは異なっていると解釈されているためだろう。つまり、抑圧された内面そのものが嵐を要請しているという顛倒的な、つまりは通常のリアリズムからは逸脱した表現手法が採られているということを論じている。嵐と想像力と運命(あるいは神の摂理)――『ヴィレット』の物語を動かす力そのものを論じた一文でもある。

「ラドクリフを読む女――ゴシック小説」
 オースティン『ノーサンガー・アベイ』を中心に述べたもの。主人公のキャサリンはホラー大好き少女などではなく、おてんば娘であったこと(クリケット、乗馬、野球が好き)、文学に接し始めて日も浅く、当時のベストセラーだった『ユドルフォの秘密』さえ読んでいなかったこと、いわば「流行に乗り遅れている」存在だったと説明される。オースティンはリチャードソンの立場に立つ作家であり、ゴシック小説のように、異国に怪奇的情緒やロマンスを求めずとも、英国の日常の中でもより緊迫したサスペンスやロマンスが得られるとの信念のもとに『ノーサンガー・アベイ』を書いたとする。エッセーの最終部では、オースティンに学ぶようにと言われたエミリー・ブロンテが、オースティンの小説に反発し、オースティンの行き方に挑戦するかのように、異国に怪異を登場させる『ヴィレット』を書いたとしている。この最終部の展開は強引であり、このサイトの愛読者にはよく理解できる展開であるものの、この方向に引いてくるあまり感じられない。野球の話をまくらに、軽いエッセイで終わるつもりが、後半は長大な論文のためのエスキスの如くになっている。

「時間・機械・夢」
 時間の小説をめぐる論考。ウエルズ「タイム・マシン」、カルペンティエル「種への旅」、ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」、C・S・ルイス「暗黒の塔」を取り上げ、さらにJ・W・ダンの時間=夢論へと至る。要するにダンのことが言いたかったのではないか、と思われてしまう、まとまりにやや欠ける評論。

Till We Have Faces について」
 C・S・ルイス晩年の傑作長篇小説(邦訳=中村妙子訳『愛はあまりにも若く』)についての論考。
 Till We Have Faces は謎めいた作品と評価されているだけあって、さまざまな要素を含んでいるが、主人公オリュアルの分析を中心に論を進めている。ルイスのいわゆる「四つの愛」との関連、合理主義と信仰の問題、神話的ものと歴史的なものの融合といった基本的テーマから伏線の読み取りに至るまで、無理のない読解を展開する。
 Till We Have Faces は好きな作品の一つだけれども、このような分析を読む前に読んで本当に良かったと思う。この分析では分かりやすすぎて、本を読むときに引きずられてしまうだろう。従ってルイスの作品を未読の方はこの論考を読むべきではない。――と言っても、20年近くも前の紀要なんて誰も読まないか……。

「シオンの顕現――アーサー・マッケンと〈オカルト〉」
 マッケンのオカルティズムとの関わりと異界体験について考察する論考。
 マッケンの人生を大きく変えるのは一八九九年のマッケン三十三歳の折りの「神の都[シオン]」体験であったという。オカルティズムに親しく交わりながら、結局のところ幻滅しか感じなかったマッケンが、我が身をもって体験した神秘的なこと、それが後期の小説群を決定づけていることを論じている。

「天の影――チャールズ・ウィリアムズをめぐって」
 論考。チャールズ・ウィリアムズの神秘主義者としての位相を魔術結社〈薔薇十字会〉などとの関わりから考察し、その文学的位置づけを試みる。ウィリアムズの作品紹介、その特徴などを述べる。ウィリアムズの小説は、その過剰なまでのヴィジョンに特徴がある。そして「世界の別の相[すがた]が開示されるという点で、彼の小説を読むことをひとつの秘儀伝授[イニシエーション]に喩えることすらできよう」と語る。またウィリアムズの力[パワー]というテーマにも着目するが、ウィリアムズには幻視者の名がいちばんふさわしいと言う。「彼は天界と魔界の双方を見た幻視者であった」。
 ウィリアムズは『万霊節の夜』という晩年の小説が翻訳されているだけで、その真価が我が国ではまったく知られていない作家であると言えよう。横山さんのこのエッセイはトールキン、C・S・ルイスとウィリアムズらによるサークル〈インクリングズ〉の特集に掲載された。
 前二者に比してあまりにも無名なウィリアムズだが、私は三者のうちでウィリアムズに最も共感を覚える。当該号のブックガイドで、三人の邦訳作品すべてを取り上げて解説する短文を草しているが、『万霊節の夜』については「死者と生者とのこの世における交流と、彼岸と此岸との見事な重なり合いを描いた神秘主義小説の傑作」としている。傑作、などと書いているのはこの作品のみ。一読をお薦めしたい。

「ゴシックの『復活』」
 ゴシック小説の復権と軌を一にして世に出るようになったゴシック研究書の概説。カタログ的な論考。『異形のテクスト』とも若干関連がある。

「ミステリの淵源を探る」
 論考。一般的にミステリの祖とされるゴシック小説について論じる。ゴシック小説を概観しつつ、ミステリとの関係について触れている。ノヴェルという長篇小説の形態、ショート・ストーリーという短篇の形までをも考慮に入れて、『異形のテクスト』にも通じる小説の拡大というところにまで引きつけているところはさすが。
 ゴシック小説の超自然性を合理的に転換させることでミステリ(ポーの「モルグ街」)が衝撃的に誕生したというあからさまな謬見をただしておくという意味で、ゴシック小説とミステリ小説の関連について書いてもいいよ、ということで書いてもらったもの。専門分野のことだし、とにかくミステリにも詳しい横山さんなので、これは軽く書かれたものと思う。
 ★横山さんから「軽く書いたどころではなく、七転八倒の苦しみだったのだからね!」と抗議を受けた。そうなんですって。私の予想ははずれてしまいました

「〈夢〉と〈人生〉――キャロルとマクドナルド」
 エッセイ。
 ジョージ・マクドナルドの最初期の『ファンタステス』と最晩年の『リリス』とのあいだにある差異について語る。その差異とは、前者が通常の異界遍歴のパターンを踏襲するのに対して、後者が異界と現実とが入り組んで分かちがたい状態になっているということてある。そして長年交流のあったルイス・キャロルの『シルヴィとブルーノ』がそこには何らかの影を落としているのではないか、と考える。「別世界と現実世界、夢と人生が共存しあった状態――そう、人生は夢であらねばならぬ。」と閉じられるこの小品は、いかにも横山茂雄らしいスタイリッシュなもので、たいへんに愛おしい。

「オカルティズムと文学」
 エッセイ。
 「現実世界が隠れた世界と交錯し変容する瞬間を描くことにこそ、オカルト文学の栄光が存するのではあるまいか」と述べ、その栄光を帯びた例としてチャールズ・ウィリアムズを挙げている。
 少ない言葉で、ウィリアムズの魅力を的確に表現しており、全文引用の誘惑にさらされる。
 ついでに言えば、私にとって稲生平太郎の小説とは、ウィリアムズの小説同様、「オカルト文学の栄光を帯びた」ものの一つにほかならない。
 (補注的に言っておくと、私はふだんはそれをオカルト文学とは呼んでいない。)

「綺想さきわう国イタリア」
 エッセイ。
 綺想小説特集で、綺想小説を一冊選ぶとしたら、というようなテーマだったのだと思うが、綺想小説とは何かから始まって、思いつくままに作品名を延々と並べていき、「もはや収拾のつけようがない」とくる。結局、最後にこの一冊として挙げたのは、「今後本格的に紹介されることを期待して」トンマーゾ・ランドルフィの「ゴーゴリの妻」。
  ★横山さんの期待通り、『カフカの父親』(国書刊行会)という短篇集が出たことである。

「幽霊とクリスマス、そしてヴィクトリア朝」
 エッセイ。スーザン・ヒル『黒衣の女』を原作とする芝居のパンフレットの解説。
 イギリスで、幽霊と言えばクリスマスというイメージが形成された経緯を語り、『黒衣の女』がこの定型を巧妙に用いていることを解説する。
 原作とは違って「芝居のほうには大きなひねりが施されている」そうだが、どんなひねりだったのか。

「物語としての歴史/歴史としての物語」
 ジェフリー・アッシュ『アーサー王伝説』の解題。
 アッシュがモンマスのジェイムズの偽史『列王史』を基準にしてアーサー王伝説の展開を概観するのに呼応して、『列王史』が正史として君臨しえたあたりの機微について論じている。エッセイのタイトルに集約されているように、歴史は物語・神話とは実は不可分なものであり、二者のあいだには常に往還があると語る。ごくまっとうな論考。

シャーリー・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』「解説」
 ジャクスン作品の解読に務めた後、この作品よりも『山荘綺談』を評価するなどと言う。普通、解説ではわざわざそんなふうには言わないものなのでは? 横山さんらしいと言うべきか。

『トマス・ド・クインシー著作集3』解説「脱線と恍惚」
 ド・クインシーは唯美主義やデカダンスの文脈で語られることが多いが、彼の真骨頂はとめどない脱線と、その中で不意に訪れる恍惚の瞬間であるとする。
 ド・クインシーの諧謔のありようとド・クインシーにとっての書くことの本質を短い字数の中で説得力に富む形で語っている。書きあぐねたと注記の中にもあるように、なかなか書き上げられなかった様子だが、本編の出来は非常に良い。脱線と恍惚というのはいかにも横山さんらしい見方なので、評論として美しくまとまったのだろう。諧謔やアイロニイは横山さん自身の特質の一つでもあって、それがこの一文にはにじみ出ている。私は、こういうところが好きなのだ。

「ジョン・ディーと精霊(1)」
『幻想文学』50号の「不思議な物語」番外編「ジョン・ディーの『精霊日誌』」をさらに詳しく論じた論考が「ディー博士と精霊」として同人誌に掲載されている。その論考の一章と第二章の半ばまで(とんでもなく中途半端なところで終わっている!)に若干の手を入れたものが本篇ということになる。この内容のあらましについては不思議な物語の解説を参照されたい。

いささか呆れている。掲載誌は奈良女子大文学部の英語英米文学科の機関誌であって、二年に一度ぐらいしか出ていないようなものに連載企画を持ってくるということもそうだが、『精霊日誌』の解読が果して英文学の研究と言えるのかどうか、怪しいものである。他に何か書くことはなかったのだろうか。
ところでジョン・ディーについては、以前から本にしたい、ということを口にしていて、だいぶ書けた、というようなことを横山さんは言う。で、「わかってきた?」というような聞き方をすると、「やっぱりよくわからないところがある」という答が返ってくる。いずれ結論めいたものはいっさい口にしないつもりなのだろうが、書き上がればきっとよいものになるになるはず。素材自体も一般受けするようなものではないだろうか。
翻訳を除けば、いちばん完成に近いところにあるのがこの論考なのだと思うけれども、出来上がるのはいつのことなんだろう。

「ジョン・ディーと精霊(2)」
上記を書いてから一年が過ぎ、ディー論の第二回めを、目にすることが出来た。エドワード・ケリーとは何者だったのかを中心に、錬金術、秘宝探索、暗合術などとディーとの関わりを述べる。まずは輪郭を描いておかねば、という印象の論考で、読者が多くを推測する余地を残している。というよりも、これはまったく「途中の説明」なのだ。まとめて読みたいと切に願う(いや、ここは駄々っ子のように泣いておきたい)。

「ジョン・ディーと精霊(3)」
『精霊日誌』を中心に、預言者としての自覚を深めていくディーについて語っている。日誌の引用あり。
もっと長く書いて!