稲生平太郎=横山茂雄についての雑文(BY石堂藍『幻想文学』掲載分)

アクアリウムの夜

【著者】稲生平太郎
【出版社/年】水声社/九〇
【種別/テーマ】長篇/オカルト・異界
【解説】英米怪奇幻想小説の翻訳・研究・紹介をしている作者の唯一の怪奇長篇。高校生の主人公はカメラ・オブスキュラの実演の中で、行きつけの水族館にあるはずのない地下入り口を見つける。放課後に恋人とやったこっくりさんでは不吉な予言がささやかれる。やがて本当に惨殺事件が起き、恋人の少女は姿を消す……。新興宗教の祖にまつわる謎、霊界ラジオから聞こえる声など、徹底してミステリアスで暗い雰囲気の中で物語は進行し、喪失だけを残して、謎に包まれたまま舞台の幕が下りる……。叙情的でありながらなお惻々と怖い、青春恐怖小説の傑作である。
(『幻想文学』41号・特集=ホラー・ジャパネスク「日本のモダン・ホラーベスト100」)

注 谷澤君に「ホラーというより幻想小説」と言われてしまった。彼の意見もよくわかるのだが、ホラーでもいいんじゃないかと思っている。このガイドは、東雅夫の執筆分担が圧倒的に多かったのだけれども、私もこのガイドで挙げたような作品にはほとんど目を通してはいる。で、ホラーという括りで見ても、『アクアリウムの夜』は私にとってベスト1なのだと思った次第。


迷宮と地下

高校二年生の男女がオカルティックな世界に巻き込まれていく姿を描く稲生平太郎の『アクアリウムの夜』(水声社)にも時に応じて出現する非在の地下が描かれている。少年たちは見世物のカメラ・オブスキュラに映じた水族館の正面部分に、あるはずのない地下の階段が映っているのを見る。この世ならぬものに惹かれ始めてしまった少女は、少年とともに水族館の地下に忍び込み、あり得ない洞窟に紛れ込んでしまう。そこで少女は敵の手に囚われ、現実へと戻ることがない……。明治時代のあやしげな新興宗教の教祖が見え隠れする、凝った設定。現実と異界との皮膜の薄さを実感させるリアリティあふれる筆致。国産ホラーの一級品である。
(『幻想文学』48号・特集=建築幻想文学館「建築幻想文学必携」より)

注 この原稿は今読み返せばあからさまな失敗作である。作品に出現した建築の魅力を語るはずのブックガイドなのに、途中で作品そのものの解説に変わっている。これはまずい。実際にこの作品での、非在の空間の生々しい雰囲気は、この作品の大きな魅力の一つなのだ。もう少しそれを何とか表現できなかったものか。 自分の愛してやまぬ作品をこうしたテーマ別ガイドで取り上げるときに、半ば意識的にではあるのだが、作品の称揚になってしまう。同ガイド内ではデヴィッド・リンゼイの『憑かれた女』の項目でもその傾向が顕著。書いたときは大丈夫と思うのだが、読み返すとセーブがなっていない感じで恥ずかしい。だが、ファンページには相応しいかも。 もとに戻る



横山茂雄著『異形のテクスト』(国書刊行会)

現代では物語の定形から逸脱しようとする小説は珍しいものではなくなり、ポストモダン・ノヴェルやマジック・リアリズム小説などという便利な言葉で一括されていたりするが、実は小説の草創期から逸脱の動きは不断にあった。小説が反ロマンスのリアリズムとして定着しようとするのに対して、ロマンスやその他の要素を取り入れて、ノヴェルの領域を拡大してきた小説群が十八世紀から十九世紀にかけても存在したのである。著者はそれらをロマンティック・ノヴェルと呼び、イギリスにおけるその主要作の価値を論じている。取り上げられているのはゴドウィンの『サン・レオン』、ゴドウィンの娘シェリーの『フランケンシュタイン』、ジェイムズ・ホッグの『義とされた罪人の手記と告白』(邦題『悪の誘惑』)、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』である。個々の作品の構造を細緻に分析することによって、それがどのような文学的な仕掛けを有している複雑な作品であるかを明らかにすることに成功している。どの作品の読みもきわめて的確というほかなく、殊にゴドウィン父娘の作品に共通する知と支配をめぐる観念について、ここまで明晰に指摘した論考を読んだことがなかったので、大いに感動させられた。『フランケンシュタイン』の再解読は盛んだが、この一点を押さえていない論考には意味がない。この観念はアメリカのゴシック作家C・B・ブラウンの作品やマチューリンの『放浪者メルモス』にも共通するテーマであり、実は筆者にとっての文学的テーマの一つでもある。ゴシック・ロマンスばかりではなく、SFやオカルティズムにおいてもこの観念はきわめて大きな位置を占めていると考える。筆者はこの観念の現われているものに否応なく惹かれるところがあるので、この論考に対する評価は絶大なものになるが、それを差し引いても、殊に最近翻訳紹介されたいくつかの『フランケンシュタイン』論群とは比較にならぬほどの深さを持つのではないかと思う。
さて、ブロンテ姉妹の解読も良いのだが、本書の中でやはり最も多くの人に読んでもらいたいのは『悪の誘惑』論である。作品の要約が意味をなさないような完璧な迷宮的メタノヴェルである同作品に対して、理路整然とした分析を施して間然とするところがない。『悪の誘惑』を読まずしてメタノヴェルだのポストモダン・ノヴェルだのと言うのはまことに片腹痛く、そのような論者については語るに足らずと筆者は常々考えているが、本書の著者はそのことも実によく認識しており、その点でも大いに共感するのである。いわゆるゴシック・ロマンスに興味のある人や、現代の異形のテクスト群を愛読する方には是非ともおすすめしたい好著である。
なお、本書には付録としてゴシック・ロマンス時代にterrorとhorrorとがどのように解釈され、論じられていたかを示す「恐怖の分類学」が付されている。小品ながら恐怖文学の歴史を考える上でも有用なエッセイである。著者には今後、本格的な恐怖文学論を期待したいものである。
(『幻想文学』53号掲載書評の下書き)
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ローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』(稲生平太郎・吉永進一訳・柏書房)

幼児虐待の罪で実刑判決を受けたポール・イングラム事件のノンフィクションである。幼児虐待は日本でも最近は一般的話題になってしまったようだが、アメリカではあまりにもその件数が多いため、既に社会的な恐怖の源となっている。しかも性的な虐待もあるため、問題はきわめて大きい。しかし、この本が扱うのは、幼児虐待の恐ろしさではない。アメリカの宗教的な土壌の恐ろしさなのだ。
ポールは警官で人望もあり、いかにもアメリカの田舎を感じさせる中年男だが、娘二人に性的暴力を与え、あまつさえ悪魔崇拝的儀式までおこなったという。彼はカルトの一員であり、仲間には妻(娘たちの実母)のサンディや友人の警官たちも入っている。だが、ポールを初めとして彼らにはそんな記憶はいっさいなかった。だがポールは、「娘がやったと言っているのならやったかもしれない」と罪を認め始め、やがて詳細な記憶を「思い出す」のである。
私がこの事件に触れたのは、レノア・テアの『記憶を消す子供たち』の訳者あと書きだった。その後ジョン・コートル『記憶は嘘をつく』でもう少し詳細に知った。私は幼児虐待の記憶が抑圧から解放されて甦ること、そしてそれが実は疑似記憶でもありうること、両者に対立があることを知ったのである。イングラム事件については、しかし本書を読むまで、ジョン・コリアの「落ちてきた天使」ではないが、悪魔よりも恐ろしいのは心理学者、という話なのだと思っていた。催眠誘導によって疑似記憶を作り出してしまうセラピストの欲望の物語なのだと。しかし、本書によって、これもまたキリスト教ファンダメンタリズムと関わりがあることを知らされた。少女たちは、小さな教団の、いわば説教師によって疑似記憶を甦らせている。熱狂する少女たちの群れが説教師を取り囲むシーンを読み、私はこの事件がセイレムの魔所裁判の再現にほかならないと感じたのだ。それが本書の30ページ付近で、このあと、少女たち(といっても当時すでにほとんど成人である)の告白、警察の取り調べ、ポールの自白の模様などがこれでもかというばかりにおぞましく展開されていく。この事件に対して真っ当なものの見方のできる人が登場し、「セイレムの魔女狩りの再現」とつぶやく200ページまで、それが延々と続いていく。
結局、ポールは有罪判決を受けて服役中、カルトのメンバーと言われた男たちも、起訴はされなかったものの辛苦をなめている。本書は本当になまなかなホラーなど及びもつかない、恐ろしい物語の語られている本なのである。
セイレムの魔女狩り事件では、やはりヒステリーとなった少女たちが、堅気のきちんした女性を告発しているが、さすがに両親を訴えるということはない。現代では魔女の遠方からの攻撃などが一般には信じられない以上、身近な人が標的になるという構図を示している。また、セイレムでも身に覚えのない魔術について自発的に語る人々がいたことが知られている。少女たちが性的な抑圧者(プロテスタンティズムが強固なアメリカの風土によるものだろう)であるところも含め、この両者があまりにもそっくりなので吐き気がしてくるほどだ。
厄介なのは、魔女とは異なり、本当に幼児虐待がこの世にあることである。実の娘を襲う父親などというものが現実にいるため(過去の記憶を思い出すわけではなく、現在進行形のものから子供が逃れるため、これは明らかである)、余計に判断がつきにくいということなのだ。そういうものとただのヒステリーと、人はどのように区別できるというのだろうか。この一連の疑似記憶の物語は、脳という曖昧な機能しか持たぬ私たちにどこまで現実の弁別が可能なのか、という思索にまで私を誘う。
なお、テアの本で殺人者として扱われていた男性は無罪となって釈放され、テアや検察を告訴しているという。
参考文献、インターネットのアドレスをはじめとして訳者の注も行き届いている。
(『幻想文学』55号掲載書評の下書き)
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