Isidora’s Page
水の道標

悪 魔 憑 き

[ホラーを通じてアメリカを解読するというコンセプトのガイド集『ホラーを読む』(宝島社・別冊宝島)に掲載した一文。 東雅夫の依頼で受けたが、資料をあさるうちに身に余るテーマであったことに気付いた。アメリカ合衆国の本当の現実を知らないのだから与太話にならざるを得ず、まったくうんざりしたものである。ここに掲げたのは初稿で、没になったもの。まえぶりが長すぎる。読み返すと粗が目立つが、稲生平太郎関連ではあるので掲げておく。]

●悪魔憑きの歴史●

 霊的な存在に憑依されるという現象は、世界中どこでも通常に見られる。その最も一般的な形はシャーマニズムの技法を用いた神降ろしだろう。たとえば日本では、イタコやノロなどの専門家によるものがよく知られている。それはその民俗社会では認知された宗教的現象の一つであって、マイナス・イメージを伴わない。だが、〈憑物【つきもの】〉といったら、事情が違う。日本でいえば狐憑き、犬神憑きといったもので、憑かれた人間に大きなダメージを与えるし、外部から呪いがかけられた結果と見なされることも多い。キリスト教を主たる宗教とする国でこの〈憑物〉にあたるのが、いわゆる〈悪魔憑き〉である。要するに欧米で〈憑くもの〉といったら悪魔あるいは悪霊と相場が決まっているのである。(あちらには狼憑きというものもあるが、聖アウグスティヌス以来のキリスト教的理解によれば狼は悪魔そのものだから、悪魔憑きと同等のものとみて差し支えあるまい。)
 悪魔憑きの歴史は古い。キリスト教誕生の時点で、それはすでにあった(そもそもユダヤ教の伝統の中にもう存在していた)。もちろんそれは、人類の歴史とともにある〈なにものかに憑かれたような狂気と錯乱の状態〉に、地獄にいるべき悪霊が憑いているのだと説明づけたということでしかないが。ともあれ、キリストの神としての力の証明の一つに、〈悪魔祓い〉を簡単に行うということがあった。『マルコの福音書』の中の「ガダラの豚」のエピソードを見てみよう。悪魔憑きになった男の中から、イエスが悪霊を追い出す有名な場面がある。

(墓場を住まいとする汚れた霊に取りつかれた人は)これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン、大勢だから」と言った。
(『マルコによる福音書』5-1)

 『ガメラ2』のレギオンがここから採られているのはご存知だろう。「レギオン」とはもともとはローマの軍団を示していた言葉で、大きな数の比喩なのである。それはさておき、悪霊たちは、「まだ時が至らないうちに深淵へと追い出されるのはいやだから、豚の中に入りたい」と自ら申し出る。イエスの許しが与えられると、豚の中に入り、湖に向って走っていって溺れ死ぬ。つまり、イエスの力とは、大勢の悪霊を命令一つで自在にするほどのものであり、イエスが現れると、悪霊たちは反抗するどころか、その力で懲らしめられるのを恐れて、早々に白旗を揚げて逃げ出してしまうのだ。そうでもなければ、キリストは悪霊たちの親玉である悪魔そのものと対峙し、これを打ち破り、神の国を招来することはできないだろう。
 現代の悪魔祓い師たちも、この神の力に支えられているがゆえに、悪霊に囚われた人間を解放することができる。例えばカトリックの悪魔祓いは複雑な儀式的手順を踏むものらしいが、最終的には、神の名により悪霊に出ていけと命ずるだけのことである。神が悪魔に勝つことは決まっているのだが、悪魔祓いの場に神そのものが降臨してくるわけではないし、奇跡的な神の力が人間を通して発現されるわけでもない。あくまでも神の威光によって悪魔を脅すだけのことであって、人間の悪魔祓い師は神という実在の後ろ盾がなければ、無力なのだ。強い武道家を父に持つひ弱な少年がいじめの現場を見つけたとして、いじめっ子たちに「やめないと父ちゃんを呼んでくるぞ」と脅すようなものだ。父親が忙しくて現場に駆けつけられないと知っていればいじめをやめないこともあろう。だが、やがては何らかの懲らしめがあるかもしれない、と思って怖くなれば、いじめっ子も逃げ出すにちがいない。もっともここでいじめをやめたからといって、また別のところでいじめを始めないとは限らない。彼らは一時撤退するだけで、いじめっ子でなくなったわけではないのだから。
 逆に考えると、悪魔が神の名によって祓われるという事実は、神の実在の証明となる。悪魔が存在するなら、神もまた存在するのだ。
 今世紀は、飢餓、環境破壊、民族紛争、死病などの人類史上途切れたことのない問題に加え、ホロコースト、原爆、ベトナム戦争、ポル・ポトといったかつてない大量虐殺が行われた絶望の世紀であった。このような現状を前にして、神も悪魔もいない、いるのは度し難い人間ばかりである、という無神論に陥るのはしごく当然のことだろう。
 唯一絶対神の神学では、この世の悪は神の測り知れぬ目的のために存在する、と解釈される。悪がなければ善もあり得ず、悪をも包含できないなら神は完全ではなくなってしまうからである。
 だが、現実的には、悪魔の力ばかりが伸長しているように見えるこの堕落しきった世界と人間たちに対して、そうそう楽観的な見方ばかりもしていられない。悪は必要であるとしても、ここまで悲惨なものである必要はないだろうと誰しも思う。理性があれば神そのものに対して懐疑的にならざるを得ない。
 ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』(一九七一)は、悪魔憑きとなった十二歳の少女を描いたあまりにも有名なホラーだが、実は、神と悪魔の実在というテーマに正面から挑んだ作品である。そのような意識が日本人にどれだけあるだろうか。
 物語は、凄惨というほかない悪魔憑きの状態に対して、現代の最先端の医学者たちがサジを投げた時、二人の神父が少女に悪魔祓いの儀式を敢行する、というぐあいに進行する。『エクソシスト』はショッキングな形で〈悪魔憑き〉の恐怖を描くことによって、悪魔は実在するのか、神の力は真実のものなのかという、現代のキリスト教が危機的に抱えている問題を追及した神学的ホラーなのだ。
 小説『エクソシスト』で描かれる少女の悪魔憑きの表現はきわめてリアルなものであるらしい。つまり、現実の悪魔憑き(映画や小説の中だけではなく、悪魔憑きは現象としては存在する。本当に悪魔が憑いているかどうかはともかくとして。それは現代の日本でもまだ狐憑きが存在しているのと変わらない。悪魔憑きはだいたいが心理学的に、つまりは精神病理学的に処理されることが多いが、だからといって悪魔憑きが存在しないというわけではない)をよく写しているもののようだ。小説で描かれる、異言を話す、異物を吐き出す、冒涜の言葉を撒き散らす、暴力的になる、獣のようになる、性的妄想に取りつかれる、ひどいにおいがする、恐ろしい顔つきになる、などといった主要な症状は、悪魔憑きの古典的特徴とされているのだ。映画での表現は、現代的なホラー映画の先駆に相応しいSFXを駆使したもので、小説とはかなり異なる過激な演出によってセンセーションを巻き起こした。
 主人公のデイミアン・カラスは、神の徴【しるし】が見えないことに苛立ち、信仰に確信が持てなくなっている青年神父だ。彼の立場は、神の実在を、またキリストの愛を信じたいが、しかし現実の悪を前にしてためらっているキリスト教国の現代人の立場を代表している。一方、悪魔祓いを執り行うメリン神父は、幾度も悪魔と戦ったことがあり、今や信仰に揺らぎがない。キリスト教徒の読者は誰しもカラスに共感しながら、メリンのような確信を得たいと思ったのではないだろうか。カラスがメリンと触れ合うことで癒されていくところは、映画では表現されていないが、小説の中ではきわめて感動的に描かれていて、クライマックス直前の読みどころの一つとなっている。
 小説『エクソシスト』がベストセラーになっ当時、アメリカではベトナム戦争がようやく終結に向けて動き始めていた。映画の公開時には平和協定が締結され、アメリカは史上初めて戦争の敗北という体験を味わっていたわけだが、小説の発表時にも、ソンミ村の虐殺事件の暴露という国民に決定的な衝撃を与えた汚辱を経験している(ソンミの虐殺をネタにしたホラーでは例えばストラウブ『ココ』などが有名)。強大な正義を求める国アメリカは、現代にもなお深い傷跡を残すあの忌まわしい戦争の前にたじろぎ、神(正義であることの保証)を求めていた――などと考えるのはうがち過ぎだろうか。
 ともあれ『エクソシスト』は、悪魔の実在をリアルに示し、そして同時に神のかすかな顕現を人々にと感じさせたことだろう。あるいは和解と復興のほのかな兆し。デイミヤンが発する「なぜ顕現しようとしないのか」という神への問い掛けは、今もなお生きているとはいえ、人々はこの作品によってかそけき希望の光を認めたのではあるまいか。
 まもなく、アメリカでは「スター・ウォーズ」が熱狂をもって迎え入れられ、キリスト教ファンダメンタリスム(聖書を絶対のものとする保守的なキリスト教の傾向)が力を持ち、テレビ伝道師が日常的な現象となる(テレビでの説教で高視聴率と高額献金を稼ぐ)時代が来るが、そうした宗教的なものの復興への先触れとして、『エクソシスト』を捉えることも可能なのである。

●神の降臨する国アメリカ●

 キリスト教社会での〈憑物現象〉には、ひとつ非常に興味深い点がある。信者や修道女、僧侶などに恍惚状態、熱狂状態が訪れ、神やキリストや精霊が憑依しているとみなされる場合があるのだが、その状態は、往々にして悪魔憑きと非常に見分けがつきにくいという点だ。私の元に神が来たと信者が訴える場合も、それは悪魔の誑かしではなかろうかと考えるのが、キリスト教の神学的世界なのだ。
 確かに、悪魔に憑かれることも、神が降りてくることも、似ているところは大いにある。つまりそれは、外部からやって来た制御できないような巨大な力によって何らかの影響を与えられた人間が、自分の全存在を危険にさらすことだ、と要約できるのだ。悪魔が憑いた状態も神が降りた状態も、肉体的な苦痛を伴い、また精神の上にも危機が訪れることでは変わりがない。
 オースン・スコット・カード《アルヴィン・メーカー》はパラレル・ワールドの開拓時代の西部を舞台にした長大なファンタジーなのだが、この作品では、悪魔がある意味で栄光とともに訪れる。迷信深い村で布教活動をしている、不寛容で頑迷な気質のキリスト教の牧師に悪魔が取り憑くのである。悪魔は、お前こそ神に選ばれた身である、と言って偽りの栄光へと導き、〈正義の人〉、またの名を〈独善的な狂信者〉を作り上げる。
 自分こそが正しいとする傲慢、虚栄、権力欲、そういったものに悪魔はたやすく取り憑くが、そうと自覚するのは難しい。たとえ多少の自覚があっても意識下に押し込めてしまう。この牧師も、自分が悪魔に取り憑かれているとは夢にも思わない。主人公の少年とその一家こそが悪魔であると信じて、敵視する。悪魔に憑かれるということには、こういう側面も、常にある。
 ところでこの物語の主人公は実はモルモン教の教祖に擬されている(カードはモルモン教徒)。教祖が宗教的な敵対者を悪魔と見なすという図式は、あまりにも単純素朴というか伝統的というか、その素直さに思わず笑ってしまうほどだ。歴史を繙いてみると、アンチ・キリスト=悪魔という称号は、常に宗教的敵対者、あるいは政治的敵対者に与えられてきたのだから。
 さて、このモルモン教というもの、正しくは末日聖徒イエス・キリスト教会と言い、アメリカにキリストが再臨して神の国を打ち立てる、という幻想を信仰の核に据えたキリスト教の一派だ(正統的なキリスト教徒はキリスト教と認めない場合もある)。アメリカではかなり大きな勢力を持つ宗派といえる。モルモン教徒の宗教的幻想は、アメリカ国家が抱く〈正義の国アメリカ〉という幻想に強く結びつくものではないか、と私は思う。
 ここで、アメリカへのキリストの再臨(の可能性)と悪魔憑きとがセットになった、実に興味深い作品、フランク・デ・フェリータの『ゴルゴタの呪いの教会』(一九八四)を見てみよう。
 マサチューセッツ、瘴気あふれる土地ゴルゴタ・フォールズにカトリックの教会が建てられた。だが、大不況のさなか、教区民たちに見捨てられた司祭は悪魔に魅入られ、ネクロフィリアとなってしまう。それ以来、ゴルゴタの教会は見捨てられ、時折訪れる心霊研究者や神父たちを死に至らしめ続けていた。清廉な若き神父は、悪魔を祓い、教会を清めるためにゴルゴタの教会を訪れた。時を同じくして教会の調査に入っていたハーヴァード大学の超心理学の研究者たちは、神父を焦点にして超常現象が荒れ狂うのを目の当たりにし、それをフィルムに納める。ところが、学界に報告しようとすると、それはポルノまがいのテープに変容してしまっているのだった……。果たして悪魔は実在するのか? それともすべては性的に抑圧されている神父の凄まじい超能力のせいなのか? 神が再臨することなど本当にあるのだろうか?
 主人公のマルコム神父は、信仰心に燃える、純粋だけれども強情なところもある若い神父だ。現実にエクソシストに任命される者は、教養や知性の高さを要求されず、もっぱら自然体で、徳性が高く信仰心が厚いことのみを要求されるという。そうでなければ悪魔につけ入る隙を与えるからだ。マルコム神父は悪魔を祓うには適当でない存在だったと言えるかもしれない。だから彼はキリストを我が身に感じはするのだが、結局は悪魔に取り憑かれてしまう。
 つまり、このホラーでは、悪魔とキリストはマルコムの中で闘争を繰り広げたのだと見ることができる。それは新約聖書が描くキリストの物語に忠実な、やや二元論寄りの考え方から来ているにちがいない。完全な二元論では、善と悪とは常に戦っており、我々は常にどちらかに加担しつつ生きている、悪がはびこっていれば、善神は劣勢なのだ、と考えるが、そうした考え方をキリスト教のような一神教に援用すると、キリストと悪魔とは敵対し、戦いあうという図式になる。だが、神は常に悪魔より大きいので、善悪の闘争もまた最終的には神に包摂される。そしてこの巨悪が渦巻く世界にあって、このような二元論寄りにキリスト教を捉える人々は考える――キリストは悪魔を打ち倒すだろう、それもまもなく……。これは原始キリスト教の思想に近く、アメリカ全土を影のように覆うファンダメンタリズムは、この思想に拠っていると私は思う。デ・フェリータの作品の色調は、実はこのあたりに最も近いのである。
 『ゴルゴタ』では、最終的には司祭が教皇の助力を得て悪魔に打ち勝つ。そしてマサチューセッツの一教会の上に明らかな神の徴が現われ、キリストの勝利を謳い上げる。このクライマックス・シーンは、前にも言った通り、〈正義の国家アメリカ〉という幻想ともオーバー・ラップする。悪魔と戦い、勝利することで、神の栄光はアメリカの田舎町にやって来るのだ!
 ところで、『ゴルゴタの呪いの教会』では、性的妄想が大いに強調されている。映画化したら、エロティシズムが横溢するすごい映画になりそうだ。超能力は信じるが神や悪魔は信じない、典型的な現代人である研究者マリオは、マルコム神父が超能力を発揮するのは、すべて抑圧された性欲によるのだと結論づける。
 現実的な解釈はさておき、悪魔に取り憑かれる人間は、禁欲的に過ぎるところがどうやらあるようだ。性的に放縦ならば悪魔には取り憑かれないって保証もないけど。ともかくも無理をして禁欲している若い修道僧などは、悪魔に付け入れられやすい。ゴシック・ロマンスの代表作の一つで、ホラーの古典でもあるM・G・ルイスの『マンク』では、禁欲という点では完璧だった修道僧が、むしろその完璧さの故に悪魔に魅入られる。そして性の快楽から逃れられなくなってとめどなく堕落していくのだ。
 ホラー映画『ポゼッション』でも、美しい人妻が悪魔に取り憑かれてしまうが、この奥さんもきっと夫との夜の生活には満足していなかったんだろう。映画の前半を見ているかぎりでは、「もう彼でなくっちゃ満足できないの」といった調子で、単なる浮気話か、という感じの漂うこの映画、実は悪魔憑きの性的な側面を出来うるかぎりグロテスクに強調した異色作なのである。

●悪魔憑きの現代的発露●

 アメリカで〈悪魔憑き〉といったとき、まっさきに思い出される現実の事件に「セイラムの魔女事件」がある。
 ニューイングランドの田舎の村セイラム。ピューリタニズムが圧倒的な力を持ちながら、教会とのいざこざが絶えないこの土地で、牧師の娘と姪とを核とした少女たちの集団が、悪魔に取り憑かれる。そして少女たちは、悪魔憑きになったのは魔女の呪いのせいだと言って、呪いをかけた魔女たちを次々と告発してゆくのである。最初は土地の厄介者であるような老婆であったりした魔女は、やがて名士の母や妻にまで広がっていく。この魔女裁判では、少女らの告発によって何の罪もない人々が逮捕され、そのうちの十四人が絞首刑にされた……というのが事件のおおまかな経緯だ。
 床を転げ回る、わめく、すすり泣く、放心状態となるなど、悪魔憑きの様相を示した少女らは、悪魔祓いの聖職者たちや、判事などの名士をも巻き込み、田舎の村に狂熱状態を作りだしていく。彼女たちがあまりにも度を越したため、あるいは人々にとっては狂熱の状態が長く続いて村が荒廃しすぎたため、この乱痴気騒ぎは収束を迎えるが、その後長い間、セイラムは完全に復旧することはなかったのである。
 セイラムの魔女事件の背景にはさまざまな要素があり、これをめぐって何冊もの本が書かれているほどだが、さまざまな点においてこのセイラム事件と似通っている現代アメリカ特有の現象として、〈虚偽記憶症候群〉を挙げることができる。
 レノア・テア『記憶を消す子供たち』という本がある。ここには、少女時代、父親が自分の友達に性的暴行を加えた挙句、石で頭を打ち砕いて殺してしまった、という記憶を蘇らせた少女の症例が載っている。人は思い出したくないようなおぞましい記憶は抑圧してしまうものだ、という心理学の理論に基づき、退行催眠などを用いて、過去の出来事を蘇らせる療法を施す。するとそこには、おぞましい性的虐待の記憶が眠っていたりするのだ。すべてを思い出した少女は、父親を告発する。そして……。
 このように性的虐待の記憶を蘇らせる女性たちの数は信じられないほど多く、そのために、回復記憶によっても罪を問えるように法律が改訂された地域すらある。だが、記憶とはもともと曖昧なものであり、回復された記憶が信実なのかどうかは、藪の中だ。名誉を求める精神科医たちの勇み足がすべての元凶だとする声も一方にはある。
 いずれにせよ、記憶が蘇ってしまったことで、多くのものが崩壊する。家族、地域生活、そして人生そのもの。
 テアの本に書かれた「幼児虐待者であり殺人者でもある父親」は裁判で一旦は有罪となったものの、後に無罪となり、逆にテアと検察を訴えているという。娘はありもしない記憶を思い出し、父親を告発したわけだ。そこにどんな親子の確執があり、その女性の個人的な鬱屈があったのかはわからない。だが、女性たちの告発を積極的に支援するような風土がアメリカにあるということは紛れもない事実だ。
 その最も凄まじい例が、〈ポール・イングラム事件〉である。詳細はローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』という本に報告されているが、これもまた記憶を捏造してしまう少女たちの物語だ。ここには精神科医の介在はないが、もっとおぞましいものがある。ファンダメンタリズム系の小さな教団の存在である。少女たちを中心とした集会で、教団の聴罪師のような立場の女性が、少女たちを集めて透視をしたところ、性的虐待の場面が浮かんだのだ。そして一人の少女がそれは自分のことだと身振りで示して注目を集めると、少女たちは我勝ちに幼児虐待のおぞましい記憶を語りだしたのである。そしてポール・イングラムの娘たちも、父が性的虐待を加え続けたばかりでなく、そこに悪魔崇拝の要素も加えていたと告白する。娘たちの告発はとめどもなくなり、母親や父の友人たちをも巻き込んでいく。そして悪魔崇拝カルトがワシントン州の平凡な村にあったことを証言してしまうのだ。しかもあろうことか、警察も検察も、悪魔崇拝のために性的虐待の儀式が行われたという途方もない物語を信じる。まったく身に覚えのなかったポールでさえ、やがて徐々にそうした行為のあったことを思い出してしまう……。
 ポールが娘たちの告発にたじろぐ姿は、セイラムの魔女事件の当時、告発されて驚き、怖れを抱いた人々の姿によく似通っている。当時も告発された後に、自分が妖術を使ったかもしれないと自発的に告白した人々が何人かいたことを思い出せば、ポールが自ら疑似記憶を捏造してしまったことの背景に、セイラム時代と同じような、社会全体を支配する妄想が存在することを疑うことはできない。
 もちろん、娘たちは涎を垂らしたり、目をむいて倒れたりといった悪魔憑きの症状を見せるわけではない。だが、すすり泣いたり、茫然自失状態となったり、沈欝になったりするところは、セイラムの悪魔憑きの少女たちとあまり変わらない。ここでは「悪魔憑きによる霊視」が、「過去の記憶の蘇り」にすり替わっているだけなのだ。
 総じてポール・イングラム事件は「セイラムの魔女事件」と構造が酷似する。三百年経っても、アメリカという国は、宗教的土壌という点において大きく変わっていないのだ。モルモン教の中心地ユタ州では、悪魔崇拝にからむ幼児虐待があることを九割の人々が信じているという。かつてのヨーロッパでは、幼児をさらって犠牲にするのはユダヤ教徒だった。そして、セイラムの魔女事件の時、それはすぐそこにいる隣人、ただの一般市民にまで広がった。現代のアメリカでも、その状況はほとんど変わっていない。一般市民の枠がさらに拡大し、警官や判事などといったかつては裁く側にいた者も、まったく無事ではいられなくなった、というだけのことだ。
 もっとも偽の悪魔憑き――偽と言っても、故意に悪魔憑きを演じているというより、むしろ無意識の産物なのであろう――による冤罪事件などというものは、キリスト教の歴史にはいくつも例が見られる。最も有名なものでは、セイラム事件に半世紀先立つルーダンの悪魔憑き事件。足の不自由な尼僧院長が、悪魔憑きとなり、悪魔崇拝の首謀者としてグランディエという神父を告発したというものだ。オルダス・ハクスレーがこれをもとに『ルーダンの悪魔』という歴史小説を書いており、一九七一年(奇しくも『エクソシスト』発表の年だ!)にケン・ラッセルが映画化している(日本では『肉体の悪魔』というタイトルで公開された)。さらにポーランドの作家ヤロスロ・イワシュキェヴィチが、その後日談にあたる『尼僧ヨアンナ』という小説で、霊的按手(悪魔憑きになった人から悪霊を自分の身に一旦移らせて、それから悪魔祓いをすること。『エクソシスト』でカラス神父が切羽詰まって取った方法がこれだ)によって自身が悪魔憑きとなってしまった神父の苦闘を描いている。同タイトルで映画化もされていて、悪魔憑きの表現はリアルだとの評価があるが、しかしこれらの作品はホラーからはやや離れるのでこれ以上触れるのはよそう。
 ともあれ、このように悪魔崇拝幻想とでも呼ぶべきものがアメリカには蔓延しているように思える。テレビ伝道師が大きな影響力を持つ現代のアメリカ、カルトが蔓延するアメリカ、キリスト教ファンダメンタリズムがかなり浸透しているアメリカでは、悪魔は、すぐそこに、身近にいる存在なのだ。
 さて最後に、K・W・ジーターの『ダーク・シーカー』を紹介しよう。これはあたかもイングラム事件を象徴的なホラーに昇華させたかのような作品である。
 かつて心理学の教授が大量殺人を含む悪魔的な儀式を執り行った。精神を共有させるドラッグを用いてそれに加担した学生たちの一人であるタイラーは、悪夢に悩まされ、完全な社会復帰を果たせないまま、ひっそりと市民生活を送っていた。ところが彼の元の妻は、死んだはずの息子と暮らしていて、息子をかつての仲間にさらわれてしまったと彼に訴えてくる。その息子を依り代として悪魔が復活してくるというのだ。タイラーは再び悪魔が宰領するダーク・サイドへと引きずり込まれていく……。
 『ダーク・シーカー』は、悪魔に憑かれた人々の罠に陥った一人の男が現実を見失う物語だと要約できる。これは、娘たちの幻想に巻き込まれてしまったポール・イングラムの姿を髣髴とさせる。子を失って狂気に陥り、子供との生活という幻想を現実へと還元し続けてきた(つまり子供との二人暮らしを演じ続けてきた)母親が、同じ共同幻想を抱いた者たちの手で幻想をまき散らし、主人公はそれに巻き込まれるのである。
 悪魔はここでは幻想であると同時に実在だ。なぜなら、個人の幻想の中にではなく、共同幻想の中に悪魔が存在しているからである。人々が共通した幻想を抱くとき、それは幻想ではなく、現実となる。現実とは幻想の集積体にほかならない。悪魔の幻想を人々が抱き続けるところでは、悪魔は実体化する。悪魔に憑かれるという事態は、象徴的な次元ではこの物語のように、共同幻想に巻き込まれるという形で表出してくるのではあるまいか。
 悪魔憑きの歴史は古く、悪魔の歴史に至ってはさらにさらに古い。このような観念がホラーの中から消えることはないだろう。悪魔(擬人化された悪)は人間の中にこそ存在しているということでもいいし、超自然的に実在するということでもいいが、現実に、人間に取り憑く。それは、取り憑くとしかいいようのない表現で、人間の奥深くに入り込んで根を下ろす。悪魔はだから実在する。悪魔憑きの物語が、象徴的な形でか直接的な形でかはわからないが、書かれ続けることは確かだろう。

(2000年11月執筆、2010年4月8日改稿)

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