Isidora's Page
The Lif is Spiral
いんとろだくしょん 『アクアリウムの夜』 『何かが空を飛んでいる』 不思議な物語 糸はつながっている

いんとろだくしょん

稲生平太郎は私にとって謎に満ちた存在です。
このサイトにおいでの方には説明の必要はないかもしれませんが、平田篤胤の『稲生物怪録』に登場する平太郎少年のことではございません。大阪生まれの作家・幻想文学研究家であります。
何が謎かと申しますと、幻想文学研究家の看板を掲げ、地道に研究にいそしみながら、最初に出した著作が小説――しかもオカルト少年小説。幻想文学研究から実作へと転向(?)した荒俣宏氏にしても幻想文学の研究/紹介書がデヴュー作でした。
とはいえ、幻想文学とオカルトは無関係ではありませんので、幻想文学研究家がオカルト小説を書いてもおかしくないといえばおかしくありません。事実、オカルティズムにも関心があると稲生氏自身述べています。
しかし、次に出した著作がUFO研究本!
素晴らしい内容で目から鱗が落ちる著作なのですが、「幻想文学研究家がなぜUFO本を?」と、とまどわれた幻想文学読者もおられたのではないでしょうか。
私はリアルタイムで読んだわけではないのでとまどいはしなかったものの、不思議に思わなかったわけではありません。
さらに虚偽記憶症候群を扱ったノンフィクションの翻訳まで手がけています。
稲生氏はいったい何がやりたいのでしょうか? 彼には節操(死語!)というものがないのでしょうか?
否、断じて否であります。
氏の著作及び翻訳、季刊「幻想文学」誌(アトリエOCTA)に連載されている「不思議な物語・番外編」をよく見れば、稲生氏の中ではすべてつながっていることがわかってきます。
そのつながりと私なりの稲生平太郎像をこれから論じていきたいと思います。

*本文で出版社名を記していない書籍は、日本では未刊行である。
*引用部分に傍点がある場合は太字で表現し、またルビは[かっこ]の中に示した。

壱 悪夢とノスタルジーの青春小説  『アクアリウムの夜』

一言で云ってしまうと、『アクアリウムの夜』は日常がゆるやかに崩壊していく物語である。
土曜日の午後、ぼくと親友の高橋の二人はカメラ・オブスキュラを見物しに行く。そこで水族館にあるはずのない地下への階段をぼくたちは見る。それからぼくたちの日常は何かに浸食されるかのように変色をはじめる……。
主人公が好んでいた水族館、図書室、喫茶店はストーリーが進むほどに日常から非日常へと変貌を遂げる。親友ですらそうだ(親友は霊界ラジオにとり憑かれ、精神を病んでしまう)。
かつて石堂藍は『アクアリウムの夜』について「青春恐怖小説の傑作である」(全文へ)と述べ、日本のモダンホラーの一つに位置づけた。傑作だという点には大いに同意するにしても、ホラーとするのは首肯できない。ホラーというには小道具――カメラ・オブスキュラ、水族館、新興宗教――が幻想的な魅力を放っており、加えて全体的に清涼感あふれる物語のため、怪奇というよりも幻想という方がしっくりくる。
というわけで、私は「幻想小説」だと考えるわけだが、ジャンル観はおのおの異なるわけだから、ここではこれ以上触れないことにする。
さて、本書の帯に付された鎌田東二の推薦文(「闇の力」と題されている)にはこうある。

霊界ラジオから聴こえてくる異界からのメッセージ。そして異界に呑み込まれてゆく少年少女。オカルトは、フィクションとリアリティの虚実皮膜の狭間に生起する。最後まで一気に読了させる気迫にみちたこのオカルト少年小説を推す。

これ以上の贅言は必要ないかもしれない。
日常が崩壊し、そして登場する少年少女たちは異界に呑み込まれていく……。主人公ですら異界の招きから逃れることはできない。本書は悪夢にほかならない。
しかし、それを指摘しただけでは少々片手落ちであろう。
学生にとって土曜日の午後は懐かしさをたたえる時間帯だ。土曜日の午後は学校の週休二日制の徹底でいずれ消えてなくなるかもしれない。けれども、たとえば中間テストなどの最終日の午後の時間帯は、土曜日の午後と酷似していないだろうか。いつまでも懐かしさをたたえる時間帯は残っていくだろう。
そんな時間(空間と云ってもいい)を発端にして、「悪夢」と「ノスタルジー」を紡ぎ出したのが本書『アクアリウムの夜』なのだと私は思う。
稲生平太郎による『アクアリウムの夜』をめぐるエッセー「思春期をめぐる物語」にはこうある。

(前略)決まっていたことといえば、少年小説の枠組を利用するということだけ。少年小説というジャンルが本当にあるのかどうかは知らない。僕が思い描いていたのは、小さい頃に読んだ子供向けのSF小説、怪奇小説、冒険小説の類、それに、『中一コース』とかの付録についていた小説なんかだった。ともかく、記憶に残留するその枠組を用いて、まったく別種の物語を語ること、それが僕の願いだった。(アトリエOCTA「BGM」3号・110~111p)

記憶に残る枠組には必然的にノスタルジーが含まれている。
本書の高校生たちの会話は現代的とは云えない。むしろ意識的に昔の言葉づかいがなされている。刊行当時(1990年)ですら「今どきこんな話言葉の高校生はいない」と云われたそうだが、ノスタルジーを喚起するための確信犯的なしかけであることは間違いない。たとえ、現在の話言葉で書いたところで一年もすれば完全に古臭くなってしまうのだから。
昔の風俗を徹底的に書き込むことによって、後世の読者が読んでも違和感をなくすという都筑道夫的な方法論がある。稲生平太郎も同じ方法論を選んだように見えるが、実はそうではない。
稲生自身本書を「思春期をめぐる物語」(前掲111p)と述べ、本書を書くことを「思春期の呪縛から脱するための一種の治癒行為」(同)と形容している。つまり、稲生平太郎にとって本書は、結果的に自らの思春期を徹底的に描くことにほかならなかったのだ。
語りにも並々ならぬ工夫が幾つもほどこされている。たとえば新興宗教の教祖がチベットへ向かう「チベット紀行」が挿入されているあたり、業界用語でいうところの黒っぽい本(「最低三、四十年以上は前の本、基本的には明治、大正、昭和前期の本」『何かが空を飛んでいる』27p)を多数購入、読破してきた成果が窺える。なかなかあそこまで古めかしい文章をリアルに書けるものではない。
基本的に主人公の一人称で物語は進んでいくが、それだけにとどまらない語りの魅力を存分に楽しんでいただきたい――というのが私の願いである。
ともあれ、本書は小説として一級品である。くどいかもしれないが、大傑作である。伏線の張り方も見事なもので、再読したときは思わずため息が出たほどだ。掛け値なしに贅沢な作品なのだ。

弐 誘拐事例(UFO体験)と虚偽記憶症候群はシャム双生児である

『何かが空を飛んでいる』『悪魔を思い出す娘たち』

現在の日本におけるUFOの存在はサブカルチャーの中でもかなり底辺に位置しているのではないか。トンデモ本の中でひっそりと(?)生息しているように思う。
今(2000年)から八年前に刊行されたUFOをめぐる評論『何かが空を飛んでいる』は、現在もなおその輝きを失っていない。それだけ本邦のUFO業界(?)がしょうもないということを露呈しているだけのことかもしれないが。
確かに八年前と現在では現状がかなり変わっている。1995年、常識はずれのノンフィクションを取り上げたと学会の『トンデモ本の世界』(洋泉社/現在は宝島社文庫)は、「トンデモ本」という新鮮な概念によってベストセラーになった。かくしてUFO本は笑いものになった。
ところが『何かが空を飛んでいる』はこの『トンデモ本の世界』で、「トンデモ本」と一線を画す「肯定派でも否定派でもない、ひと味違うUFO本」として、推薦文献に挙げられているのだ。そのような本が現在絶版とはまったく悲しい。「天に光、地に妖精」(新人物往来社『オカルトがなぜ悪い!』)あたりを増補して、ハルキ文庫あたりで復刊してくれないものか(困ったときのハルキ文庫頼み)。
枕が長くなってしまったが、本書で取り上げられている項目を帯から拝借して説明すると次のようになる。
●妖精と宇宙人(小人)
●宇宙人による誘拐と人体検査
●円盤墜落/回収シンドローム
●UFOカルト
●UFO情報の操作・陰謀説
●暗躍するMIB(黒服の男たち)
本書では円盤を肯定も否定もしないという、一種アクロバティックな論が展開されている。
UFO現象について、合理的に説明できるものが多数だが、それでもなお説明のつかないことがあるのだと述べるにとどまる。本書を読んでもカタルシスは得られない。むしろ思考の宙吊り状態にされてしまう。
円盤とは一体何なのか――そういう疑問の渦へと読者を引きずり込んでしまう。
稲生平太郎は一つだけ答えの方向を示している。――何かが空を飛んでいるのを我々人類はずっと以前より見てきたのであり、そしてUFO体験はあるのだということを。
稲生平太郎は円盤の存在を間違っても信じてはいない。だが、UFO体験を確信しているのだ。
ではUFO体験とは何か?
乱暴に云ってしまえば、何らかの非日常的な体験をし、それをUFOにまつわる幻想へと置き換えてしまうということだ。「幻想」と「現実」の間でUFO体験者は悪夢、あるいは啓示を見る――と稲生平太郎は云う。
そのような立場に立って、稲生平太郎はどの円盤事項についても鋭利な分析を加えているが、今回読み直してひときわ私の興味を惹いたエピソードがあった。以下、多少長くなるが引用する。

 

誘拐事例においても魔女狩りにおいても、傷痕が「証拠」とされるのは単なる偶然の一致とは思えない。そして、どちらも刻印を押すのは異界の存在とされている。なるほど、傷をもつのが誘拐事例にあっては被害者、魔女狩りにあっては加害者と、立場が完全に逆になっているのは確かだけれど、悪魔あるいは宇宙人が人間を操っていると想定されている点では共通していよう。

誘拐と魔女狩りとの関連は、でも、これだけにはとどまらない。

「現代の魔女狩り」なんていう言葉が日本では安易に用いられたりする。しかし、実は現代もへったくれもなくて、文字どおりの意味での魔女狩りは西欧キリスト教社会ではけっして滅んでいない。最近またアメリカで勢力を伸ばしつつあるファンダメンタリストの人々なんか悪魔の実在を信じているわけで、そうすると魔女あるいは悪魔崇拝者の実在なんて当然、彼らは悪魔崇拝者の邪悪な活動に警鐘を発し続けている。

ここでまたいきなり(?)幼児虐待の話になる。

近年欧米では幼児虐待が大きな社会問題となっているのは周知のとおりだけれど、これには日本のメディアではほとんど紹介されない隠れた側面が備わっているんだ。つまりですね、悪魔崇拝者がその儀礼において幼児を殺したり性的に虐待しているんだという主張、いわゆる「悪魔的幼児虐待(Satanic child abuse)」が、ファンダメンタリストのみならずソーシャル・ワーカーたちからも真剣に提出されているわけ。それだけではなく、たとえば英米では裁判にまで発展しているのだ。あいつらは悪魔を崇拝しているばかりか幼児をレイプしたりしている、その証拠もあるんだと騒ぎ立てられるので、これが魔女狩りでなくて何であろうか? 僕たちの感覚では信じがたいにせよ、本当なんである。イギリスの場合なんか、伝統を誇る社会福祉団体や一部のマルクス主義者まで巻き込んでいるんだから。幼児虐待という悲惨な現実を前にして、ここでも、「責任」を転嫁できる実体を求めてやまない人々の欲望が露呈している。そんなひどいことするなんて鬼か悪魔だとかいうけれど、このとき、鬼、悪魔は文字どおりの意味で機能してしまうんだ。

さて、こういった悪魔崇拝者による幼児虐待という概念は古くからあるにせよ、英米での近年の騒ぎに火をつけたのは一冊の本であった。一九八〇年に出版されてベストセラーとなった『ミシェルは憶えている』がそれである。話が長くなるからはしょるけれど、要するに、ミシェル・スミスという多重人格に悩む女性が、精神分析医による退行催眠の助けを借りて、幼いころ悪魔崇拝者の儀礼に繰り返し無理やり連れていかれて虐待を受けたのを思い出したという内容である。この本の出版後、同様な記憶を回復したという人々が他にも名乗りでたことは言うまでもなく、かくて騒ぎは広がっていく。

もうくだくだ説明する必要はないと思う。退行催眠による「記憶」の回復、幼時からの度重なる拉致/虐待、さらに性的要素と、悪魔的幼児虐待はたとえばキャシー・デイヴィス事件などと完全にパラレルをなしている。そして、八〇年代に噴出したという点で、悪魔的幼児虐待騒動と誘拐事例は時間的にも並行しているのだ。両者の深層が通底していることは疑えないだろう。(『何かが空を飛んでいる』85~88p)


語り口調で書かれているため見逃されがちかもしれないが、『何かが空を飛んでいる』の背後にはUFO本以外の膨大な文献と見識が見え隠れしている。
ここで言及したいのが、上の引用と直結するノンフィクションで、稲生平太郎が吉永進一と共訳したローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』(柏書房)である。本書は二人の実の娘に性的虐待の罪で訴えられた警察官ポール・イングラムの事件を扱っている。家族全員とその友人たちが悪魔的幼児虐待を思い出すという特異な事件でもあり、そしてイングラム一家とその友人たちは熱心なファンダメンタリストであった……。
稲生平太郎は『何かが空を飛んでいる』の中で「虚偽記憶症候群」という言葉を用いていないが、イングラム事件同様『ミシェルは憶えている』とそれをきっかけに巻き起こった記憶回復ムーヴメントの多くが虚偽記憶症候群であることは云うまでもない(事件の起こったアメリカでは虚偽記憶症候群とする派と、悪魔的幼児虐待とする派が今なお対立している)。
虚偽記憶症候群をご存知ない方のために、吉永進一の論文から引用する。

回復記憶セラピーは次のようなものである。治療者はどこかにトラウマがあると判断し、それが幼児期の性的虐待にあると告げる。患者は否定する。しかし、患者側の否定こそトラウマ抑圧を示しているとセラピストは解釈する。リラクゼーション技法、薬物、催眠などの技法によって、患者が虐待経験を《思い出す》。これで治療の第一歩は成功したと判断される。患者の側も、虐待記憶を受け入れると、親との関係を絶つ、あるいは手紙で憎しみをぶつける、さらには民事訴訟に訴え慰謝料を獲得する、などなどと続いていく。患者と治療者の側はこれを回復記憶(recovered memory)といい、一方、身に覚えの無い親たちはこの記憶を虚偽記憶症候群(False Memory Syndrome Foundation)と呼んだ。そしてFMS財団なる被害者の会も結成された。(吉永進一氏のホームページ『電気的真丹後速報』の「虚偽記憶症候群書誌」より。)

忘却されたとする過去の「記憶」が甦るというものであるが、その「記憶」とは性的虐待であり、宇宙人にさらわれたりするものであったりする(宇宙人にさらわれたという退行催眠の事例は『悪魔を思い出す娘たち』に詳しい)。
UFO体験の誘拐事例と悪魔的幼児虐待(虚偽記憶症候群)の両者は、シャム双生児なのである(誘拐事例――円盤事項に全てに云えることだが――の場合、退行催眠などによるものだけ、と断言できない複雑さを秘めてはいるが)。
稲生平太郎の見識にはただただ驚くばかりである。悪魔的幼児虐待とその背景を真摯に日本に紹介したのは稲生平太郎がおそらく初めてだろう。少なくとも一般書の形としては初めてではないか。生半可な紹介と関心でないことは七年を経て、吉永進一と共に『悪魔を思い出す娘たち』を翻訳出版していることから窺える(節操はありすぎるほどあったのである!)。
ちなみに『何かが空を飛んでいる』の造本だが、初期の荒俣宏の著作に似ていると思わないだろうか(特に工作舎の本ね)。
判型は異なるのだが、図版を扱ったカラーページは色もキャプションも似ているし、稲生平太郎が荒俣宏の著作を意識してデザインを依頼したものではないかと憶測したくなる。
そうしたところから遊び心とリスペクト精神があるのだなと感じるのである。遊び心といえば章タイトルもそうだ。「私は前科者である」「踊る一寸法師」「小人たちが怖いので」「セックスと針とフライングソーサー」「私を涅槃に連れてって」「空飛ぶレイシズム」……etc.
映画や小説の題名の引用やパロディが面白い。元ネタが何なのか私にはわからないものもあるが、稲生平太郎も楽しみながら章タイトルをつけたのだろう。親しみやすく、ストイックな語り口調の文体と実に良くあっていると思う。

参 ふしぎなふしぎな文芸批評 「不思議な物語」

「不思議な物語」といっても、ブルワー=リットンの著作のことではない。英米の未訳怪奇幻想文学を紹介するという、情熱と根気、そして批評眼がなければできない連載エッセイのことである。
守備範囲は恐ろしく広い。ゴシック・ロマンスから幻想小説、怪奇小説、ファンタジー、ホラー、オカルティストの書いた小説、はたまたポストモダン文学まで! 英国でも忘却されているような作家と作品を発掘することもある。
紹介された著作の中でのちに翻訳されたものも少なくない。稲生平太郎の鑑識眼の高さが窺えよう。伊達に「幻想文学研究家」を名のっているわけではないのである。
通常の連載では取り上げる洋書のあらすじ紹介と分析が主だが、約四十回(!)にも及ぶ連載であるため、ここでは全てを取り上げられない。恥ずかしながら私は「幻想文学」誌連載の「不思議な物語」の良い読者とは云えない。番外編だけは隅から隅まで読んでいるが、通常の連載は斜め読みをしてしまうこともしばしば。「幻想文学」誌のバックナンバーをすべて持ってもいないし、なおかつ、翻訳された著作も全部読んでいるわけでもないので、稲生平太郎の「読み」を云々することが私にはできない(ただ石堂藍氏に比しても負けないぐらい率直な批評をする、ということは指摘できる)。
そういう事情により、番外編の一部だけを取り上げるという何とも安直な方針を取ることにした(稲生平太郎氏ならびに「不思議な物語」の愛読者の皆さん、ごめんなさい)。
番外編で取り上げられている作品は次のとおりである。
「不思議な物語・番外編壱」(「幻想文学」43号)では鶴屋南北『東海道四谷怪談』のプロトタイプ『四谷雑談』(早稲田大学出版部)
「不思議な物語・番外編貮」(「幻想文学」45号)ではシャーロット・ブロンテ『ヴィレット』(みすず書房)
「不思議な物語・番外編参」(「幻想文学」48号)では「ジュネーヴ大学教授の席にあった高名な心理学者、医学者」(202p)であったテオドール・フルールノワ『インドから火星へ』(一九〇〇年)
「不思議な物語・番外編四」(「幻想文学」50号)ではジョン・ディー『精霊日誌』
【壱】と【貮】は幻想文学の領域に入る作品であり、番外編といっても一つの作品にスポットを当てているという風である。【参】と【四】はオカルティズムに関連する作品を取り上げており、文章を読むかぎり稲生平太郎のオカルティズム知識が生半可なものではないことが窺える。
私がひときわ興味を惹かれたのは【参】の『インドから火星へ』である。(以下引用部分は『幻想文学』48号202~205pによる)副題に「異言[グロッサリア]を伴う催眠現象症例の研究」と付されている、「力動精神医学の歴史における記念碑的著作」である。
フルールノワは一八九四年にエレーヌ・スミス(仮名)という霊媒と出会い、五年の歳月をかけて『インドから火星へ』を上梓する。
エレーヌ・スミスという霊媒女性の特異な能力は「彼女――もしくは彼女に憑依する霊たち――の紡ぎ出す『物語』に他ならな」かった。「すなわち、彼女は十五世紀にあってはインドの土豪シヴルーカの王妃、十八世紀にあってはマリー・アントワネットであった。そして、彼女の指導霊[コントロール]レオポールトとは、実は仏国王妃の愛人、かのカリオストロであった。

そして、火星。

彼女の霊魂は地球の軛を離れて火星にも転生したのであり、火星の住民、自然、風景などの描写がやがて交霊会の席上にもたらされるようになった。それはあるときは言葉によってであり、あるときは絵画によってである。(202p)


稲生平太郎はここに物語というものの発生のメカニズムを見ることができると述べているが、私には神話のプロトタイプ、そしておそらく宗教のプロトタイプすら見出せると感じている。どちらも同じようなものだと云われればそのとおりであるが(極論すれば、宗教は一つの物語にすぎない)。
しかし、稲生平太郎の関心はそれのみにとどまらない。

けれども、霊媒エレーヌで真に注目すべきなのは、私たちはここで物語ばかりか、言語、文字の始源にも遭遇する点である。つまり、交霊会の薄闇の中で、やがて異界の言葉、そして文字までが啓示されはじめたのだ。(204p)

文字すら生み出す霊媒!
勿論それはほとんどが合理的に説明できるものではあるが、言語という複雑なものが一人の女性によって生み出されるさまは当時(一八九六年初頭)において相当に大きな波紋だったに違いない。インチキ霊媒という見方もできないことはないが、彼女は職業的霊媒の道を選ばず、金銭的要求もしなかった。この事実をどう説明するというのか。

ところで、すべてを無意識の働きで説明するフルールノワであるが、その彼にもひとつだけ解けない謎があった。ヒンドウー物語群に登場する人名を歴史学者たちは架空のものであろうとしたのだが、しかし、フルールノワは苦心の末、エレーヌの描写にほぼ一致する記述を『インド概史』なる古い書物の中に遂に発見する。結局、フルールノワの潜在記憶説が凱歌をあげたかに思われるが、そうではなかった――これは一八二八年刊行の稀覯書で、エレーヌやその信奉者たちの接触した可能性が皆無であることを彼も認めざるをえなくなる。潜在記憶ではどうしても説明がつかないのだ……。(205p)

また思考の宙吊り状態にされてしまう。ここでも「幻想」と「現実」が奇妙にねじれているのだ……。

四――糸はつながっている、そして。


ここまで稲生平太郎の活動をざっと見てきたが、稲生平太郎を読み解くキーワードは「想像力」と「異界」ではないか、と私は感じている。
異界といってもそう難しく感じることはない。稲生平太郎自身『何かが空を飛んでいる』の中でこう述べている。

神秘的体験なんて言葉を聞くと、抹香くさいとかさ、オレの知ったことか、ワタシには関係ないわと、全身に拒否反応を起こす人も多いかもしれないね。でも、そう大層なもんでもないんだよ、これは。夢を見る、物語を読む、映画を見る――そういったことと大きな断絶があるだろうか。事実と虚構、現実と非現実の境界に絶対的なものがあると思っちゃいけない。少なくとも僕はそうは思わない。(180p)

異界とはすなわち――別世界のことである。
別世界の入り口の一つに幻想文学と呼ばれる小説群があることは言をまたない。
幻想文学の源流をさかのぼっていくと、ホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(国書刊行会)に行きつく。ゴシック・ロマンスの鼻祖としても有名な作品である。
この作品の革命的だったとされる説の一つに、それまで二種類あった文芸スタイルを融合したというものがある。すなわち、リアリズム一辺倒の「ノベル」と、荒唐無稽な「ロマンス」。ロマンスは想像力と置換可能である。
融合された小説はゴシック・ロマンスやロマンティック・ノベルと称されるが、幻想文学と呼んでさしつかえないことは確かである。幻想をリアルに描き出そうとする形式――幻想文学観もさまざまあると思うが、ここではこう述べるにとどめよう。
鼻祖はすっきりと判明するものの、後続の作品には一筋縄でいかない作品も多く、稲生平太郎はシャーロット・ブロンテの『ヴィレット』もその一つととらえていることは「不思議な物語・番外編貮」でもわかる。
一見ゴシック・ロマンスの変種として取り上げたように見えるが、想像力とリアリズムの狭間で揺れ動く作品の精緻な分析を読むかぎり、稲生平太郎の関心はシャーロットの溢れでんばかりの「想像力」にあったように思われる。想像力について「『決して失いませんように』と二十歳前後のシャーロットは記している。」(「幻想文学」45号・194p)しかし、当時の文壇にあって想像力で小説を書くことはマイナスでしかなく、奔放な想像力を持つシャーロットはそれゆえに苦悩する。
虚偽記憶症候群(イングラム事件の想像力はファンダメンタリズムに毒されており、よりいっそうおぞましい)、UFO体験(退行催眠で甦った「記憶」もここに入れていいだろう)、そしてオカルティズム(エレーヌ・スミスの転生譚と火星の言語)――これら全てに通底するものは「過剰な想像力」である。
過剰な想像力は「現実」を超えて「もう一つの現実」をかたちづくる。
オカルティズムはまさにその「もう一つの現実」を作ろうとする強大な意志以外のものではなく、最も過激な想像力の形なのだとも云える。「隠された叡智」という意味を持つオカルトではあるが、私見では「世界を裏読みする」思想がオカルトなのである。自然の摂理を疑い、もう一つの世界を探求し、その体系を紡ぎだす。これは過剰な想像力なくしては不可能である。霊媒体質の人間による霊界からのメッセージ受信にしても、これが過剰な想像力の一ケースであることは疑えないだろう。
過剰な想像力が行きつく先の一つに「異界」がある。過剰な想像力を持ち、「異界」をさまよった人物にはかの神秘家スウェーデンボルグがいる……。
つまり――『アクアリウムの夜』も『何かが空を飛んでいる』も、そして『悪魔を思い出す娘たち』も「異界」に直面した人々を記した書物なのだ。
この想像力の横溢する存在(異界)を幻想文学研究家である稲生平太郎が見逃すはずがない。幻想文学とこれら過剰な想像力は深く通じあうものがあるのだから。出力形態が違うだけと云ってもいいかもしれない。――糸はつながっていたのである。
ポジティヴにとらえられることの多い想像力だが、決してそんなことはない。妖精が基本的に人間に対し邪悪な思いを抱いているように、想像力はネガティヴなものでもあるのだ。極論すれば、想像力とはすべからず妄想なのである。
稲生平太郎は過剰な想像力がトリガーとなって発生する世界=別世界を求めているように思える。より正確に云えば、「異界」と「異界」にとり憑かれた人々を。
ところで、UFO体験や「不思議な物語・番外編参」の前世の記憶でもそうなのだが、本当に「過剰な想像力」だけで説明がつくのか――という疑問を読者は抱かれるかもしれない。稲生平太郎自身は想像力だけで説明をつけてしまおうという立場に立っていないことは明らかである。大部分を説明できるにせよ、完全に説明可能かといえば、ことはそう簡単ではないのだから。だからこそ、『何かが空を飛んでいる』のラストで「世界はおそらく僕たちの思っているようなものじゃない」(194p)と述べているのだと思う。
ではここで、稲生平太郎自身について考察してみることにしよう。
稲生平太郎にはゆらぎの気配がある。
稲生平太郎は理性的でありながら合理主義を無効にする。おそろしく合理的に思考しつつも、それを疑ってかかる。
だから稲生平太郎は決して答えを出さない。おずおずと自分の頭蓋骨の中の見識を一瞬さらけだすだけ……。
そのわけは、人間のとらえる世界は結局のところ「異界」にほかならないことを多分誰よりも冷静に実感しているからではないだろうか。人間という不確定な存在が遭遇する「異界」を見つめる視線があるとでも云えばいいのだろうか。稲生平太郎の中で「異界」を望んでいる部分が多少はあるのかもしれない。
そんな人間に答えなどあるのか――とも稲生平太郎は思っているのではないか。
しかし、人はそう迷宮の中だけで生きていけるものではない。答えを出してみたくなるものではないだろうか。稲生平太郎ほどの知識の持ち主ならば、なおさら。
稲生平太郎の文芸批評をそのジレンマの産物といっては失礼にあたるかもしれない。副産物として見るにはあまりにも優れた論考だからだ。さりながら、文芸批評という自分だけの「読み」が許される(勿論、人を納得させるものでなければならないが)仕事に手を染めているのは、ゆらぎとのバランスをとるためのように私の目にはうつる。
この世界を考察するときには築かざるを得ない砂の楼閣からいっとき離れ、文芸の世界で安定して建っていられる堅牢な城を築く。私には稲生平太郎の幻想文学研究そのものがそうした一時避難的な場所のようにも思えるのである。
雑誌「ユリイカ」1999年8月増刊/総特集・怪談(青土社)の「あなたにとって『恐怖』とは?」(190p)と題されたアンケートの「あなたが今まで経験されたうちで、一番怖かった体験を教えてください」という質問に対し、稲生平太郎はこう答えている。

個人的な体験ですので、語るのは遠慮させていただきたく存じますが、たとえば、生霊の存在はしばしば実感してきたところです。とまれ、異界と現界との間に確たる境界などなく、双方が重なり合う領域が日常のなかに広がっているような気がします。異界を垣間見ることは、特権でも何でもなく、避けられるならば、それに越したことはありません。(192p)

そう答えながら、稲生平太郎はこれまで異界について考察を続けてきた。私はそこにアンビヴァレンツなものを感じてしまう。否定しながらも「過剰な想像力」による世界をなぜ稲生平太郎は考察し続けているのか。
先に私は稲生平太郎は「異界」を望んでいるかもしれないと書いたが、これはあながち間違いではないと思われる。幼年期に神隠しにあった柳田國男のように、生涯、それを傷としてひきずっていたような前例もあるからである。生霊を実感しているという感性も稲生平太郎の「異界」への関心に一役買っているものとおぼしい。
しかし、「異界」を望む本当の理由は、稲生平太郎の本質が「少年」だからではないだろうか。
ノンシャランで無邪気であり、かつ未知のものに目を輝かせる「少年」(擬似科学に接すると興奮すると通常の「不思議な物語」で言及してもいる)。昨今の少年とは異なる、象徴としての「少年」。
 妖怪のオンパレードと云っていい平田篤胤の奇書『稲生物怪録』に登場する稲生平太郎少年から筆名を取ったのも、稲生平太郎の願望、あるいは資質によるところが大きいと私は見る。
そう私に思わせたのは、「ソムニウム」誌第三号(エディシオン・アルシーヴ)に掲載された法水金太郎名のエッセイ「平田翁の[夏休み]――『稲生物怪録』をめぐって」という論考であった。
平田篤胤の著した『稲生物怪録』は次のような内容である。
現在の岡山県、十六歳の稲生平太郎少年が肝試しに山に出かけ、山上でそれと気づかぬうちに異界の存在に出会う。戻ってしばらくはなにごともなかったが、七月一日になると家に物の怪が出没するようになる。
当の平太郎少年は妖怪が出てきても何の動揺もせず、ただだらだらと日々を過ごしている。家来も逃げ、見物の客も日増しに減っていくというのに、むしろ一年でも半年でもこれを見届けたいと意気盛んであるのだ。

(中略)数がしだいに減っていくとはいえ、近所の友人たちが果物などを持って集まってくる――夜ふかししたあげくの昼寝。そう、これはまぎれもなく「夏休み」なのだ。平太郎少年の夏休み。したがって、『稲生物怪録』を、夏休みの冒険を描いた一編の少年小説として読むことは可能である。(19p)

やがてひと月かっきりで怪異は止み、首魁が登場して平太郎に怪異の成り立ちを告げると去っていく。それは夏休みの終焉でもあった。
稲生平太郎は続けてこう述べている。

『稲生物怪録』は少年小説として読むことができると書いた。だが、少年小説において夏休みが成長のための儀式[イニシェーション]として機能するのに較べてみれば、決定的な差異がうかびあがってくるだろう。儀礼には参入が不可欠だ。参入者[イニシエイト]たちは、儀礼をくぐりぬけて、高次のレヴェルへの成長を遂げるであろう。この場合、夏休みは一個の装置である。だが、平太郎はといえば、どうやらそんな気配はない。その後、武太夫と改名して兄の跡目を相続し平穏に暮したが、かつて体験したひと夏の怪異については大した感慨もいだかなかったようだ。〈夏休み〉は、かれのもとに忽然とやってきて、また忽然と去っていったのである。

イニシェーションとして機能する夏休みと、この〈夏休み〉は、したがって厳密に区別されねばならない。最初に断定しておくなら、根源的郷愁性(足穂はこれをいみじくも「懐しの七月」と呼んだわけだが)を帯びるのは後者である。こういった郷愁性は、成長の如きものとは無縁でなければならない。この〈夏休み〉は、わたしたちのもとに突然やってくる。また、程度の差はあれ、すべての人に訪れるはずだ(「大千世界すべて人によりて有事なり」)――ただし、いちどかぎり。これは、〈存在〉に与えられる〈夏休み〉、〈存在〉の〈夏休み〉なのだ。

〈夏休み〉をどう過ごそうとそれは自由だ。ただし、これを体験した〈少年たち〉の幾人かは、以後これがなくては生きられなくなる。けれど、与えられる機会は一度だけなのだから、かれらの末路は、ふたつにひとつだ――(1)身をもちくずす、(2)生涯を〈夏休み〉の捜索に費やす。そして、篤胤もまたこうした少年たちのひとりだったのだ……。(21p)


篤胤のように稲生平太郎は永遠の夏休み少年なのかもしれない。それゆえに『稲生物怪録』で描かれたような懐かしい夏休みに憧れる。そして、その夏休みの場所は「異界」にほかならない。稲生平太郎が「異界」にこだわっているのは、そんな理由なのかもしれない(篤胤は幽冥界や神仙界――それらは別世界のことである――を真摯に研究していた)。
稲生平太郎は平田篤胤と寅吉(天狗にさらわれて仙界をめぐったという少年。篤胤は少年からの聞き書きを『仙境異聞』にまとめている)を融合させたような存在だと思うことがある。生霊を実感し、「異界」を求め、「異界」にとり憑かれた人々を追う。
稲生平太郎の凄まじいというか恐ろしいところは、自分にもそういった気質があるにもかかわらず、冷静にそれを論考にしてしまったところにある。凡人にはできないことである。
稲生平太郎の本質は「オカルティスト」でもあるのだろう。オカルティズムに関心があるのも「異界」を見極めるため、という気がする。
今後、稲生平太郎はどのような活動をしていくだろうか。
幻想文学を核にして何かとてつもないことを考えているのではないか、と私は思っている。稲生平太郎はいずれさらなる問題作を書くにちがいない。そこに私は非常な魅力を感じている。
また、地道に未訳の怪奇幻想文学を我々に紹介しつづけてくれるだろう。想像力に満ちたテクストがあるかぎり、いつまでも。 
なにぶん寡作な作家・幻想文学研究家なので、実が熟し、その仕事が私たちの前に全貌をあらわすのには時間を要するだろう。それでも稲生平太郎の仕事を待つのは楽しい。願わくば待つ時の短からんことを!

付記

稲生平太郎に関心を持ちはじめたのは数年前のことである。『アクアリウムの夜』を読んで以来、私は稲生平太郎に魅了されつづけてきた。稲生平太郎の仕事はどれもこれも蠱惑的で凄い。
今回拙文を書いてみて、己の勉強不足と非力さを厭というほど味わった。稲生平太郎の知性は日本の中でもかなりのレベルにある。にもかかわらず、私ごときが論じては失礼にあたる……とすら思った。
内容に関しては非常に忸怩たるものがある。個人的には言語を絶するほどのひどさだと認識している(拙文がいくぶんなりとも読めるものになっているとすれば、それは手を入れてくださった石堂藍氏のおかげである)。
稲生平太郎の仕事についても全てに目をとおしたわけではない。活動期間が二十数年にも及ぶため、全ての仕事を見ることはできなかった。それで稲生平太郎論を書こうとしたのだから図々しいといえばこれほど図々しいこともない。
「幻想文学研究家」及び「オカルティスト」としての稲生平太郎に今回は深く触れ得なかったが、この二つの分野で稲生平太郎は大変立派な仕事をしている(稲生平太郎は英文学者・横山茂雄氏の筆名である)。機会があれば双方とも新たに触れてみたいものの、山ほど勉強しなくてはいけないので、ちょっと無理かもしれない……。
愚痴を並べてもしかたがないのでこのへんでやめるが、拙文に稲生平太郎への関心/興味を惹き起こす言霊が宿っていることをひそかに願っている。呵々。

最後になりましたが、私の拙い文章を読んでアドバイスしてくれた友人各氏、ならびに石堂藍氏、そして拙文を読んでくださった方々に心からの感謝を捧げます。
ありがとうございました。

谷澤森プロファイル
★趣味
音楽鑑賞。聴きすぎてラジカセを一台ぶっ壊す。

★好きなアーティスト
L⇔R、スパイラル・ライフ、嶺川貴子、アドバンテージ・ルーシー、ラブ・サイケデリコ、Coccoなど。

★尊敬している作家
稲生平太郎、須藤真澄など。

★尊敬している文学者
横山茂雄。

★評論について
昨年の夏、渋谷を歩いていたら石堂藍という人に「稲生平太郎論を書けるのはあなただけだ!」と声をかけられる。石堂さんのことは『幻想文学』で知っていたので、即、承諾する。力不足で稲生平太郎の全側面と横山茂雄の仕事について拙論では触れられなかったので、我こそは横山茂雄フリークという方の登場をお待ちしております。