Isidora's Page
不思議な物語を読む
『不思議な物語』番外編
 現在のところ、『四谷雑談』『ヴィレット』、『インドから火星へ』、ジョン・ディーの『精霊日誌』の四つの番外編がある。
 なぜ番外編があるのだろう? 何か説明を受けたろうか。記憶にない。特に最初の『四谷雑談』については、まったく。通常より長い、きちんとした評論である、日本の古典である、という理由で番外となるのはいいとしても、どういう契機でこれを書いたのか、というようなことはわからない。
 ともあれ、この四編については骨子を説明しておく。

『四谷雑談』
『四谷怪談』の原形を解読したもの。注目点は二つあって、一つは祟る岩が死んでいるのか生きているのか最後まで分明とならず、「原四谷怪談を亡霊譚と呼ぶことはできない」ということ。もう一つは怪異はすべて化物屋敷的なものであって、岩は家に取り憑いている怨霊であるということ。つまり「原四谷怪談とはつまるところ家という制度をめぐる物語」なのである。

 これはまったくみごとな解析である。少なくとも私はたいへんに感動した。この道の研究者ではないのでわからないのだが、この論文は本当にすごいのではないだろうか。複数の方から「すばらしい」「さすが」という賛嘆の言葉をいただいて、我が事のように嬉しかった(「不思議な物語」に限らず、『幻想文学』掲載の記事を褒められれば嬉しい)。フェミニスティックな批評としても読むことができ、このような文学者が存在しているという事実だけで幸せな気分になれる。

『ヴィレット』
「(リアリズム的要素と非リアリズム的要素という)ふたつの要素は、読者に絶えず違和感を与えつつ、最後まで統合されずに存在する。逆にいえば、両者の併存によって生じる亀裂、軋みこそ『ヴィレット』の本質」であると見なし、それゆえにこそ異形のテクストであると論じる。そしてこの軋み=葛藤こそは、シャーロットにとって、書くこと、存在することにおける葛藤でもあったことを語る。
本篇を『幻想文学』に掲載した95年には大学の紀要に『ヴィレット』論(英文)を発表しており、解読が一段落したあとの、まとめ的な意味が強い。

 私はこのエッセイを読んだ直後、翻訳で『ヴィレット』を読んだため、当然のことのようにこの論考の視点を共有してしまった。それを批判的に読もうという意識は、最初から全くなく、それはほとんど批評家としての立場の放棄であると言える。もちろん言及されていない細部で気に留めた箇所はいくつもあるけれども、それはかなり取るに足りないものと感じた。
 ところが先日、ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』(小谷真理訳)を読んだところ、フェミニズム小説の先駆的名作としていくたびも『ヴィレット』の名前が挙がるではないか。しかもほとんど記憶に残っていないせりふまで指摘されたのには、参ってしまった。あまりの情けなさに我ながら茫然とする。もちろんフェミニズム小説として読める(『嵐が丘』も『ジェイン・エア』もそうだろう)ことは理解するのだが、自分からはそのように読もうとはしなかったということに対して、その柔軟性のなさを情けなく感じる。今読み返したとしても、結局稲生平太郎の読みに頷くだろうと思うし、それでいいと思っているけれど、それでもやっぱりそのように思う。

『インドから火星へ』
 心霊現象を閾域下の意識あるいは無意識の機能という観点から解明しようとした心理学者テオドール・フルールノワは、カトリーヌ・ミュレル(エレーヌ・スミス)という霊媒に出会い、彼女が受信する火星からの詳細な報告をまとめることになる。それが1900年刊行の『インドから火星へ』である。
 トランス状態では、火星の物語ばかりでなく、火星語までをも作りだしてしまうエレーヌのその力を、フルールノワは、「閾域下の想像力」と、あらゆる情報を蓄えてしまう「潜在記憶能力」によるものだという無意識理論によって説明しようとする。だが「潜在記憶ではどうしても説明がつかない」部分が出て来てしまうのだと言う。
このエッセイは野尻抱影がフルールノワの科学的態度の心霊研究書『心霊現象と心理学』を翻訳していたことの紹介で結ばれている。

 ★『インドから火星へ』については谷澤森君が評論で詳しく述べているので、そちらを参照して下さい。

ジョン・ディーの『精霊日誌』
 17世紀中葉、ディーの死後半世紀を経て公刊され、魔術師としてのディー像を形作る決定的な要因となった『精霊日誌』についての論考である。
『精霊日誌』は霊媒エドワード・ケリーと天使(精霊たち)との交信を記録したものである。現在も註釈版が出ていないという難物で、その概要の紹介に紙数が割かれている。「ディーは自分が善なる超自然的存在と接触していることを決して疑わなかった」のであるが、それではケリーが詐欺師だったのかというと、一般にはそうとされる見解を稲生平太郎は否定する。「師と同じく精霊の実在を確信しながらも、それが悪霊ではないかという懐疑心に深く捉われていたのは、むしろケリーのほうであったのだ。(中略)天使たちをこの世界に召喚したのが、ふたりの無意識の共同作用であったとしても、それは次第に両者にとって制御不能なものとなり、彼らはその渦の中に呑み込まれていったかの如くである。」
 オカルティックな興味をも超える『精霊日誌』の魅力を稲生平太郎は語る。「あたかも仄暗い幻燈劇のようにしてディー、ケリー、そして精霊たちが繰り広げる悲喜劇は、読む者を魅了するだろう。それは崇高、滑稽、悲惨、不気味さのないまざった類稀れなドラマである。」と。
 『精霊日誌』については、さらに詳しい論考を執筆中である。それが世に出れば、私たちもそのドラマの一端に立ちあうことができるのである。