Isidora’s Page
古雛の家

       ●書評家という仕事●          (2002年12月28日)

本の紹介をする仕事である。評論家とはまったく違う。文芸評論家は基本的に本をネタに自己表現をする人のことだ。書評では、自己が出ざるをえないにしても、基本的には自己を消す方向で表現しようとする。 書評家はまた批評家とも違うような気がする。私は『幻想文学』のほかに、『東京新聞』と『SFマガジン』とに書評を書いているけれども、同じ本を取り上げるとしても、この三つの媒体では言っていることが違う。さらには会社のホームページに書いている「藍読日記」でも異なることがあるし、絶対に外部には出さないメモではまた違ったりもする。
書評というのは――本を読む。そしてその本を読みたいと思うような読者を想定して、その人たちに本が届くように紹介記事を書くことだと思っている。書物の評価をするのが書評だと思っていたころもあったけれど、もうそんな時代は過ぎた。評価すべきものなどほとんど世に出ないからである。
本に関して、絶対的な価値基準はない。誰が何を面白いと思うかはわからない。だからあちらで貶してこちらで褒める、というような仕事をすることになる。そこまで極端でなくとも、作品のどこを強調するか、その魅力のどこを掬うのかで、書評はまったく違ったものになる。
『幻想文学』や『SFマガジン』では、幻想文学がマニア的に好きな人やSFファンというふうに読者が決まっているから、作品のどこをすくえばいいかは簡単だ。特に『幻想文学』では比較的自由に書ける。
面倒なのは、『東京新聞』で、エンターテインメントでも、社会的に有用な情報を含むものでもない、やたら硬派な純文学の紹介を頼まれる時である。いったいこんなものを誰が読むのだろうか、と悩む。わからないときは、社会的側面をすくいあげて評価することにしている。文体がすばらしいときはそれを褒める。だが、滅多にそういうことはないので、これまで文体に言及したのは、若島正のナボコフの翻訳ぐらいのものだ。まあ『東京新聞』の仕事は、書評というほどのこともないただの紹介記事なのだから(ありがたいことに無記名だし、時には勝手に削られたりもする)、いつでもそんなに真剣に悩んでいるわけではない。
とにかく、私にとって書評は商売で、情報を読者に流したらそれでおしまい、というような、けっこう浮薄なものなのだ。ところが、ついこのあいだのことだが、稲生平太郎に、書評だって百年とか経ってその価値がわかることがあるんだよ、と言われたのである。これはちょっとしたショックだった。もちろん優れた作品は時間も文化的な壁も越える。神林長平も稲生平太郎もそうしたすぐれた作品を書いていることを私は疑ったこともない。けれども、そうした作品を評価する側もまた時間を越えるものだったとは!
本当は自分の書いたもののことなんてどうでもいいのだ。私はたいてい書き上げるとそれだけで本当にもうどうでもよくなってしまう。この話をすると信じてくれない人がなぜか多いのだが。手紙を書いても出さないこともあるし、ホームページだって谷澤君がうるさく言わなければ、公開したかどうか怪しいものだと思う。書いたはしから忘却してしまうし、自分の書いたものに対する執着も薄い。ましてそれが時を越えるような優れ物だなどとは、冗談でも考えたことはない。あまりにもあほらしい。でも、そうだね、その話をしたときに、ちょっとだけ甘い思いに浸ってしまったことを告白しておこう。石堂藍が神林長平や稲生平太郎を正当に評価した人間として、彼らの名前といっしょに並べられているという、金色に輝く夢。百年先には人類はいないかも知れないけれど、つかのま、そんな夢を見るのは、悪くない。