Isidora’s Page
古雛の家

       ●多様性と共生●           2001年2月26日

 谷澤森くんがおもしろいから読め、というので、水樹和佳子の『イティハーサ』という漫画を半年にわたって読んできた。
 少女漫画としては絵の水準が高いので安心して読めるというのが何よりである。それにとても切ないところがあるので、年をとって涙もろくなっている私は泣きながら読んでカタルシスを得られるという効用もある。だが泣くのと評価する(素晴しいと思う)のはまったく別なことである。『イティハーサ』のように、作者が一生懸命に思弁を繰り広げるような作品への感想は、どうしても「よく頑張ったね」というようなものになりがちだ。幼い議論に時に白けながらも、それでも最後まで読んで感心したのは、とにかく着地がみごとだったこと。こういう神だの悪だのと風呂敷を広げてしまう話は、納得させるように終るのが難しいものだ。ここでは、多様性という視点を打ち出すことでこれまでの思弁に決着をつけて読者を得心させている。なかなか手際が良い。
 多様性への着目というのは以前からあって、特に生命環境においてはそれがたいへんに重要なことだとされている。環境破壊によって一年に何千種もの生物が絶滅しているということが問題視されるのは、多様な生物が雑多に存在することで世界のバランスが保たれるという生態系的な考え方による。
 人間社会においても、多様性(個性)の大事さが喧伝されているけれども、現実にはグローバル化によって引き起こされる多様性の喪失の方が現実的なように思える。
 そうした多様性の問題を考える一環として、また英語公用語論、さらには日本語とは何かといった問題を考えるよすがとして『言語帝国主義とは何か』という書物を読んでいたら、感動的な記述に出会った。クレオール言語について語る一章なのであるが、その意味と価値について、このように述べられている。「クレオリテとは共生願望の絶えざる活性化であり、〈一なるもの〉〈同一なるもの〉から我々を不断に解放し、近代西欧流の〈普遍性〉に対して、他に還元不能な個の〈多様性〉を支持するものであるというメッセージである。」
 ああ、なるほど。近年の英語系SFの同一化願望というのは、英語のグローバル化戦略とパラレルだったのか(笑)。
 安易に敷延するのは罪悪だというのを承知の上で遊んでみたくなる。
 言語の植民地主義というのは、唯一神を全世界に君臨させるべし、という要請と不可分なのである。多言語主義と言語の植民地主義の戦いとは、つまり唯一神教と多神教の戦いである。もともと多神教であった日本は、疑似的な唯一神天皇を立て、ヨーロッパに倣ったと言えよう。
 一なるものとの合一というのは、あらゆる神秘主義の根源にある思想であり、そう考えるとき、人間存在というものにとって神秘主義はきわめて危険な思想となる。要するに現実的には神秘主義は死に直結する。当然これは『エヴァンゲリオン』の世界でもある。共生を実現させるためには絶えざる努力が必要だということを忘れて、合一に安易に走る人々を描いたのがあのアニメなのだ。
 普遍への欲望は絶対への欲望である。地上でそれを求めようとしたとき、それは世界の平板化をもたらし、権力の集中を生む。普遍的であるということは一元的であるということであり、世界はそのように存在することしか許されなくなる。
 一方、共生は、一元的な理解を拒む。例えば同じ言語を使うということは、文化的な同一化をもたらすが、多言語主義は完全には理解しあえないことを認めたうえで互いの存在を許す。愛と表現してもいい。こうした考え方は世界には複数の見方があることを許容し、現実に、世界は多層構造になっているということを我々に教える。
 あらゆることは可変的であって、言語も混淆して変化してゆくだろう。そこには忘却も伴われていくけれど、変化しないものはないのだから良しとしよう。
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 現実には、私はなんと固定的な文化の上で生きていることだろうか。伝統という名前の権威や、慣習のうえにあぐらをかいて、日々の仕事をこなしている。
 そして忘れ去られるものを、日々手の中から逃れてゆくものをとどめようとしている。今日も空しい営み。