Isidora’s Page
古雛の家

       ●涙と恐怖●           2001年2月26日

 私は書評をなりわいにしているので、本を読むときの読み方がたぶん一般の人とはちがうと思う。もちろん作家には作家の読み方が、編集者には編集者の読み方が、研究者には研究者の読み方があるだろう。私の場合は、その作品の「価値」(仮定的な)を冷静に見極めようと、かなり技術的な側面に留意して読むことになる。文体、構成、作品構造、テーマ、モチーフといったことを探りながら読んでいくのである。そしてそのいちいちに対して、この作品がどのような価値を持つかに評価を下す。要するに先行作と比較するわけである。比較する数が多ければ多いほど、論理的には評価の精度が上がる。
 もちろん理論通りに行かぬのは世の常である。また、ものごとには例外があるので、あまりにも規格からはずれていると、ただの駄作なのか、新しい価値を持つものかの判断をつけることができなくなる。そこは自分の審美眼に頼る。ありていに言うと趣味に合うか合わないか。そしてこういう作品については意見が分かれるところとなる。こういう読み方は、ジャンルものの批評家が特に意識的にやっているところではないだろうか。私は幻想文学というジャンルではないジャンルの批評家なのだろう。
 こういう読みをしていると、当然のことながらたいていの場合、それを書いている作家の姿というものが思い浮かんでくる。作者の手つきが見えたりするし、ここで工夫をしたな、とか、このあたりを狙っているのか、とか、普通の読書ではまったく余計としかいいようのないものが頭の中に浮かぶ。
 ところがそうでありながら、私は物語の中に深く入り込むことができるし、また物語を読んでいくらでも泣くことができる。どんなつまらない作品でも、多少の泣ける場面が用意してあれば、そのあまりの陳腐さに笑ってしまわないかぎりは、泣くモードに入ることができるのである。
 作家の泣かせようという魂胆が見えてもそんなことが出来るのは信じられない、とある人に不思議がられたのだが、それは作家の書いた言葉を読んでいるだけではないからなのだ。そこに書かれているある物語のパターンが、私を泣く回路に引きずり込むのだと言ってもいい。
 人は誰しも年を経る毎に悲しみの記憶を増やしていき、悲しみの純粋な要素としてどこかにプールしている。いわばその「涙の壺」を「泣ける話」は刺激する。泣かせる要素が、私を泣かせてしまうような思いに一気に結びつける、とでも言えば良いだろうか。その気になりさえすれば、私は自分を泣かせてしまうような要素を思い出すことで泣くことができる。だから間違っても作家に感動しました、などとファン・レターを書くことはない。私は私の内面に泣いているだけなのであって、作品は単にそれを思い出させる装置に過ぎないのだ。
 怖い話にも同じことが言える。純粋に怖かった物語や体験など本当に数えるほどしかない。だが、物語を怖がることはできる。実話だろうが、実話でなかろうが同じことだ。怖かった感覚(夜の闇でも断崖絶壁でもよい)と物語とを結びつければいいだけのことだ。
 そんなことを考えているときに、福澤徹三の怪談集『怪の標本』を読んだ。この表題作は、実話怪談を書き連ねていくという体裁を取っている。ここで読者は、やはり実話か創作かということにこだわるに違いない、と感じたのだが、そのようにこだわる心情に興味がある。よく「本当にあった怖い話」などというが、本当だというのは何がどう本当だと言うのだろうか。また、実話なら怖くて実話でないなら怖くない、という区別があるのだろうか。
 たまたま東雅夫がやっているbk1のホラー・コーナーを見たら、福澤のエッセイが載っていて、「本当の話ですか」と読者からよく聞かれたということが書いてあった。福澤は、「本当のことに取材している。自分の夢のこともあるし、人から聞いた話もある、実名を出すとマズイのもある」と答えているのがなかなかしたたかである。
 ここで本当のこととは何だろうか、と自問しないでいられる読者はよほどのぼんやりものである。福澤は本当であるとはどういうことなのか、と逆に問い返しているに等しいからだ。
 どうして「実話」であることにこだわるのだろう。この世にはわからないことがあるとか、霊がいると思いたい。でも疑う気持ちはある(騙されたくない)。たいがいは自分ではそういう体験を持たない人たちだろう。しかしいると思いたいのであれば素直に信じればいいだけのことだ。不可知論を取るなら、物語書きに実話かどうかなどと尋ねるのはばかげている。彼は真実を述べるはずもないし、また述べられないかもしれないからだ。いないと思いたいのであれば、たとえ実話だと言われても信じなければいい。つまりこの設問にはまったく意味がない。占い師に占ってもらったあとで、本当ですかと訊くようなものだ。
 でも問うのだろう。実話なら作家の手柄ではないし、実話でないなら怖がりたくないというわけか。
 もしそうだとするとその考え方はおかしい。実話をもとに怪談は書かれてきたのだし、文芸として成り立つかどうかは話者、書き手の力によるからだ。そして怖がりたくないなら怪談を読むこと自体が背反的な行為となる。実話と実話でないの区別はない。怖がりたいのなら怖がろうとすればいいではないか。
 怖がりたければ、その気になれば良いのである。本当に怖いと思ったことを内省する。それが子供の頃の幽霊に対する恐怖であったとする。もしそうならば、読んでいるあいだは、死霊はいつも生者の側に寄り添っているものだ、と自己暗示をかける。そして怪談は総じて実話である、と思ってのめりこみながら読む。これで怖くないのなら、それは読者の想像力が貧困なのである。あるいはその怪談が、すさまじく下手なのである。それは文芸としても読むに価しないものだろう。
 実話でもないのに怖がっては損をする、と思うナイーヴな読者もいるかもしれないが、怖がれるのは良いことである。人間が恐怖心を忘れたら、生存はきびしいのだから。批判的に読みながらそうできるのか、と問われると、それは技術であるというほかないが。
 というようなことをうすぼんやりと考えていると、怖がりたくないのか、という結論が出てくるような気がしてきた。別に恐怖を求めて読むわけではないのかもしれない。何を求めて小説を読むのかと言えば慰みであって、大方は暇つぶしである。怪談は恰好の消閑の具なのかもしれない。そしてどちらかといえば暗い心持ちになりたいときに怪談のようなものが選ばれるのだろう。つまりは怪談を読んで、何となく寂しい感じになりたいだけかもしれない、などとも思うのであった。