Isidora’s Page
古雛の家

       ●女言葉●           2001年2月26日

 職業柄、日本語、あるいは言語全般について考えない時はないと言っても良い。文学は言葉で作られているので、文章、文体などいうものについて思いを致さないということはありえず、しかもそれを批評したりする立場ともなれば、そうしたことについてある程度の見解を有していなければ無責任というものだろう。
 だが、本当のところ、いまだにその点については迷いしかない。というよりも、年々言葉を味わうということに対して懐疑的になっているような気がする。文化的に作られてきた言語感覚によって、美しい言葉や重みのある言葉などというふうに言葉を受容していくことに対して。文体にしても年々変化していくものであって、絶対的な価値基準はないにもかかわらず、私の個人的な文学体験を通して審美的に見ようとしてしまうということに対して。迷いがある。惑うといった感じか。
 読んでいて否応なくねじ伏せられてしまう、強烈な言葉というのが確かにあるのだけれど、それは極私的体験でしかあり得ないと思うから、そうしたものは基準外に置いて、もっと妥当な普遍的な価値を見出そうとしてしまう、そうした態度についても疑念がぬぐえない。
 もちろん仕事のレヴェルこんなことを考えていては話にならないので、現実的にはさっさと判断をくだしているのだが。つまりこれはきわめて抽象的な次元での、観念的な話である。
 この抽象的なレヴェルでは、方言一つ、女言葉一つとってもいまだにきちんとした見解を示せずにいる。けれども、何とか考えをまとめてみたい。方言については、小説でも実践の試みがあるが、普通の表記では既に無理というところがあるし、クレオールのように日常で使うしかないのではないかという気もする。だから、今は女言葉について話してみたいと思う。
 女言葉は武家社会や上流社会に存在し、一般庶民へは明治期に広まっているように思う。いわゆる共通語を作り上げていく過程で固定化していったものではないだろうか。このあたりの発生史は詳しくない(ちゃんと調べていない)ので、知っている人がいたら教えて欲しい。
 日本では敬語が発達しているけれども、女言葉もその一環なのであって、男女間には上下差別がある、という発想が女言葉を生んでいるのだ。ちなみに方言には敬語がないものが多くあるが、きわだった女性語はそこでは発生しない。言葉は男女共用のもの。日常使われる言語は多かれ少なかれ方言的であるから、日常的には女言葉はさほど使われることがない。というか男女差はあまりない。だが、小説の中では別である。小説では、純粋に女言葉が使われるのだ。そしてそれは女の子らしさ、女らしさの記号となっている。
 女らしくない言葉遣い、などというものは本当はない。場面場面で丁寧な言葉遣いか乱暴な言葉遣いがあるだけなのだ。だが、現に「女らしくない言葉遣い」という言い方がなされる。そこには、既に女性蔑視が含まれているのである。
 社会言語学ではたぶんこのような見方は一面的だとされるのであろう。女言葉は人間の交流を円滑に進めるために発達してきた、機能的な丁寧語であって、それを即差別と捉えるのは間違っているとか何とか。だいたい女言葉を使うことで女は女らしさを自己演出するではないか、女言葉は性的なものの強調でもあり得るのだと。
 だがそうしたことはすべて、現在ではそうなっているからそう感じるだけのことである。例によって近代の産物である可能性が高いのだ。それがさまざまな文化環境の中で刻印されてきて今日に至ったのだということ、所詮わずかな歴史しか持たない作り上げられたものだということ、文学にしてもそれを助長してきたということ、私の関心はそこにある。
 丁寧語、敬語は相手との距離感や上下感が強いときに発せられる。そうした言葉遣いに敏感にならねばならないということに、むしろ日本で階級社会がどのように築かれてきたかということを見るべきなのではないだろうか。また女性もその階級の中に組み入れられてていると、私は強く感じるのである。
 一般に、力が強い方(地位が上の方)が、居丈高で強制的な言葉を使える。男言葉とされるものには、強い念押し、強い命令などがあるが、一方純粋な女言葉では、命令形が使えない。
 一例を挙げる。
 1 やめろ。やめろよ。
 2 やめなさい。
 3 やめて。やめてよ。やめてね。
 4 やめて下さい。やめておくれ。
 いわゆる女言葉だけで対応しようとすると、強い禁止である1の「やめろ」は使えない。2の命令形は男女共用であるが、公式な感じのする言葉で、強い禁止は一般的には女性はこの形でしか使えない。女言葉で使える「やめて」は4のようにあとに懇願の言葉が続けられることでもわかるように、お願いする、というニュアンスを含む。つまり、最も女らしい言葉を使おうとすると、ゆるやかな抑止とでもいうものになってしまう。例えば強姦される場面を想像して欲しいが、「やめて」しか言えないようだと、その言葉による抑止力はきわめて低いと言わねばならない。すべての禁止用語に同じことが言えるだろう。
 この時点で既に女性蔑視~女の命令なんか聞けるか~が現われているのはほぼまちがいないことではないだろうか。
 それはあまりに粗雑な解釈だというのなら、このように言い換えよう。女らしいということは命令できないということであり、こういう行動の抑止を伴う言語構造自体が差別でなくて何だというのか、と。
 とはいうものの、現実には女言葉を使っていない小説など、現代ではほとんど読めないし、もしもあったとしてもそれを不自然に感じさせないのはたいへんに難しいことだと思う。
 神林長平は小説としては破格の言葉を使いながら美しい作品を成立させている異能の作家だけれども、その彼にしても女言葉を使う。女性たちは、軍人とか海賊といった職業上は男性的な言葉を使うように描かれているが、そうした制服を脱ぎ捨てて生の人間になったとき、女は女言葉になる。神林長平は男女差よりは個性差を重んじる作家だけれども、その彼にしてこうである。女言葉の呪縛は強い。
 そもそも小説の場合、会話の言葉遣いで男女をそれと悟らせる、また互いの力関係を示す、ということがなされるからのだから、無理もない。そのヴァリエーションの一つである女言葉を取ってしまうと、作家の表現力がただでさえ落ちている現在では、表現が混乱してしまうだけだろう。ステロタイプは強い。
 ヨーロッパ各国の言語やAA諸国の言語ではどうなのだろう。詳しくは知らないが、英語にも女らしい丁寧な言葉遣いというのがあるだろう。完全な女言葉はないとしても、いわゆる女性らしさは、例えば形容詞の使い方にも現われたりするし、また、日本語もそうだと言われているけれども、付加疑問文が多いのも女言葉的特徴であるらしい。
 こうしたものの翻訳をするときどうするのか、と思う。ある翻訳家の方に伺ったときは、自分が読み取ったキャラクターに相応しい言葉を使わせる、ということであった。きっと、女らしい性格付けがなされている女性には女言葉を用い、男らしい性格付けのなされている女性には中性的な言葉を使わせるのだろう。とすると、ここで問題となるのは、訳者の言語感覚であり(翻訳の場合は常にそうだけれども)、女言葉に対する意識ということになる。そしてたぶん、そうした言語感覚、言語意識を、現実からではなく、先行する文学作品から学んでいる。翻訳家も、そして作家たちも、ものを書く人間は誰でもそうなのだけれど。
 小説の女言葉は、最も純粋な女言葉で、現実を反映しているわけではない(小説の中の会話というのがもともとそうなのだから当然である)が、それが書かれることで、女言葉を反復してしまう。
 女言葉の呪縛はは消え去らない。
 ちょっと考えてみれば、19世紀英国を舞台にした物語と、22世紀のタイタンを舞台にした物語とで、女性の使う言葉が(もちろん男言葉も)同じであってはおかしいのだが、そういうことが現実にはなされていて、読者も違和感を感じない。それはもちろん批評する側の人間にしたってそうだ。
 そうしたことは、女性語に限らず、あらゆる局面で見受けられることで、人々の無意識の強さと想像力の貧困さとを露呈させるのである。
 女言葉は嫌いだ。そう思いながらもそれを便利に使って女性性を表現してしまう自分も厭だ。いったいこうした状況をどのようにしたら回避できるのか、私にはまったくわからない。
 せめて、女言葉にはそのような背景があるということ、それを覚えておくことができるぐらいだろうか。