Isidora’s Page
藍の細道

●だれが「本」を殺すのか●      (2001年5月15日)

 佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)を読んだ。本書は連載中から出版・取次・書店という書籍の業界内では話題になっていた本で、私も書物の形になったものを手に入れたが、何と半月余りのあいだに3刷まで行っているのに驚いた。地方小出版流通センターの通信によると、出た即日、神田村からこの本が消えたそうだ。つまり業界内の人はこの閉塞状態に何らかのヒントが得られるのでは、と思ったのにちがいない。だが、結論から言えば、目新しいことは何もないな、というものだったのではないかと思う。本書は問題点を指摘し、少しは希望の持てる活動をしている人たちを紹介しているけれども、現実的には多くの出版社、書店の問題解決のヒントとなるようなものは少ない。現状認識のための本なのだ。この業界にいる人間は問題点がどこにあるかはだいたい分かっている。だが、有効な解決策がないことに苛立っているのだ。そして他者に対する憤懣だけがつのっていく。書店は取次(トーハンや日販などの卸会社)、版元は読者と書店、取次は弱小の版元と小書店に。本書を読むとブックオフとその類似の新古書店への憤懣もすさまじいということがわかる。万引きを始めとする不正行為の温床となっているのだから、その気持もわからぬではないが。

 本書は、書店、流通、版元、地方出版、編集者、図書館、書評、電子出版の全八章で構成されている。業界の有名どころにいろいろとインタビューし、その現状を分析していく。書店、取次、版元、どこも溺れかかっている。有効な対策はない。肯定的に見られているのは地方出版ぐらいだが、私からすればいろいろと問題はある。大手出版社の編集者などはほとんどぼろくそに言われるが、まあそれも故無しとしない。図書館に対しても批判的だが、私はこの点はいささか意見が違う。書評も機能していないと切り捨てられる(これについても私としては不満がある)。電子出版も可能性は考えるものの、まだ未知数だ、といった感じ。虚しい思いに襲われなくもないが、これが今わたしたちのいる場所だ。

 出版社は今、未曾有の危機的情況にある。おそらくこの数年で多くの版元が潰れたり廃業したりするであろう。そんな危ない情況だと思う。だがそれは日本の産業界全体と変わらない。物が溢れ返っているのだ。完全に過剰供給であって、そうした状態に消費者自身も倦んでいる。物が溢れているところに行けば、欲望はそそられるが、同時に物のあまりの多さ、一つのことを望むと連鎖的にいろいろなものへの欲望がわき上がらざるを得ないという状態に、嫌気が差している。読書に関して言えば、読書を趣味とする人は昔も今も多くはない(圧倒的少数派)。仮に人口比に対して一定だとしよう。新刊の刊行点数は1960年に較べると、約6倍になっている。もちろん古いものも残り続けるし、刷りを重ねてロングセラーになるものもあるから、書物の数はとんでもなく増えてしまう。果してそれだけの増加を読書が趣味という人口で支えきれるかと言えばまず無理だ。人口はせいぜい1.5倍どまりである。ましてや、70年代から活字離れということが盛んに言われるようになった。結局読者人口は増えてなどいないのかもしれない。それなのにどうやって6倍もの数を解消させるのか。まずは刊行部数を減らすわけである。作家は基本的に苦しくなってしまう。さらには、たまに本を読まないでもない、タレントの誰それが良いと言った本だから、あるいはテレビで話題になったから、という理由で本を買うような層を相手にして本を作る。本に対する吟味などをこういう層は絶対にしないから、粗製濫造気味になる。
 結局、自分で自分の首を絞めているようなものだ。マツモトキヨシがどこまで拡大すると自重を支えきれなくなって崩壊するかというのを楽しみに見ているが、出版業界だって似たようなもの。どのように、いつ、というのが問題だろう。私たちは、今、そういう時代に生きている。いろいろな意味で飽和状態で、別の価値観や生活体系が求められているのに、そんなのやだなあと思って何もしないでいる。といったところか。とにかくこれだけの人口がこれだけ豊かな生活をしている。もちろん飢えて死ぬ人が国内にもいるにしても、少なくとも、モノはまだあるので豊かでないなどとはとても言えない。こうした豊かさはモノの製造や販売に支えられていて、そのせいで世界中を搾取しまくりながら、しかもなおかつ国内ではモノが売れないという情況を生みだす。出版だけの問題ではないのだ。

 本書では、本は消費財になってしまったのかという歎きが多々聞かれる。もちろんそうでしょ、何をいまさら、という感じである。本に格別な思い入れがあるらしい著者は、本への情熱をかなり重視している。だから画一化された棚で書店に魅力がないということを力説する。ついつい本を買いたくなるような棚構成の魅力は編集者的な魅力だと語り、そのような書店を称揚する。だがそんな棚に魅力を覚えるような余裕のある本好きというのがどれほどいるのか見当もつかない。もちろん書店員がよくやる小特集のようなものは読者も見ているだろうと思うが、日常的な棚では絶対に無理だと思う。よほど規模の小さい趣味的な書店で、その筋の客が来るというのでもなければ。幻想文学に限って言えば、その手の本を置く書店というのは70年代にはもう本当に限られていたから、そういう店の存在がきわめて大きかったことは言うまでもない。だがそのような書店が無くなったのは、決して流通や版元の問題ではなく、生活のサイクルの変化と本に対する嗜好の変化、さらに言えば世界観の変化が与っているので、出版業界だけではとどめようもないのである。

 私は本の情況がどうなろうとどうでもいいと思う。本当に良い本(などというものがあるとして。普遍的に良いものなどこの世にありはしない)が出たときに、それを受容する感性がなくなっているのならそれはそれで仕方ない。わずかにでも残すために出版が続けられることは大事だという意見は理解するが、同調はしない。
 かつての本屋の雰囲気を懐かしむ思いは私にもある。高校時代に通った詩の本の店での幸せな一時は、たぶん今でも私の中に感覚的に残り続けている。だが、今の若い子のためにそれが必要だとも思わない。誰もがその時代、その場所で生きて行くほかないのだし、何の欠如が不幸かなどとは誰にもわかるまい。
 このような本をめぐる書物を読んでいて感じるのは、ただもう懸命に頑張ってきた矜恃のある書店が苦しまなければならないということへの哀しみだけである。幼い二人の子供がいてろくに東京の書店にも出掛けられない私のために特殊な新刊を入れてくれ、子供たちが大好きだったけれど普通の注文では品切れで返ってきてしまった機関車の冒険シリーズを、版元に直接かけあって在庫本を取り寄せてくれた書店。あるいは『幻想文学』を創刊するときに、神田の三省堂と同じ数を提示して、「私が入れると言っているのだ、入れられないというのなら一切扱わない」と言って、私に『幻想文学』の刷り部数を決めさせた書店の御主人。これらは私の人生の中でとても特別なことではあるけれども、似たような体験が誰彼に必要なわけではない。ただ私が落涙を抑えきれぬというだけのこと。時の趨勢にはなんぴともあらがえない。
 だいたい出版業界が潰れたら(というか縮小したら)文化的にダメになるとか、そうは思わないのである。本の数が減っても文字の文化が廃れることは相当に大きな変革が起きないかぎりないだろうし、学ぶ機会は逆に増えている。今の若者が本を読まないのは既に文化レヴェルが異様に低くなっている(学力がないうえにそのことへの自覚もない)ということであって、出版業界の堕落とはあまり関係がない。
 また、いろいろな崩壊が起きると、質の良い本が世に出ないというのもまちがっている。世に出ても読まれないのなら存在しないのとほとんど変わらないのだから読者がいるという前提が必要になる。いなければ本はいらないし、いるのであれば、そのいるだけの数が世に出ればいい。どうにもならなければインターネットだってオンデマンド出版だって良い。金にならなくても良いのだと思えばいいだけのことである。だから良書は作られ続けるだろう。本を愛する人がいる限り。

 私は出版者である。『幻想文学』という雑誌を作って売っている。いったいにこの一冊1500円の雑誌――いつも高いと言われ、実際本の平均定価が1200円余りと聞けば高いのかも知れないが、作っている本人は適正な、というよりとても良心的な価格だと信じている――を買って下さるお客様というのは、全国で数千人しかいないわけだが、ほとんど同志のように感じる。私のところには約1200件あまりの顧客情報があるが、かなりの程度名前を覚えているし、もちろん何度も読者カードを下さる方というのはほとんど友人のように感じてしまう。本書にも、千の単位の読者はパトロンだという意見が紹介されているが、そんなの小出版社にとってはかなり当然の感覚なのではないだろうか。こうした本を欲するお客様がいるからこそ、この仕事を続けているのだ。本を売るために客を欲しているのではない。もしも、とにかく続けて欲しい、と読者から言われ続けてこなかったならば、私はとっくの昔にこの仕事をやめていただろう。(東は知らない。)今売れることが大事であるのは続けるためにこそ大事なのであり、この時代の中で互いを支え合うために大事なのである。
 こうして、このようにして、私のような人間がまたどこかにいて、本を作り続けるであろう。必要とされるならば。


 なお本書の中には地方・小出版流通センターの紹介がある。『幻想文学』は20年間ここにお世話になってきた。地方小の川上さんなくしては『幻想文学』は続けてこられなかったろう。満腔の敬意を込めて記しておきたいと思う。
★【藍の細道】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★