Isidora’s Page
古雛の家

 ●数学と円周率●           2001年6月3日 

 昨年の秋、数学検定なるものを受検した。例によって例の如くというべきか、ただの好奇心である。受検するのはほとんどが中学・高校生だが、私のような年齢が上の者も皆無というわけではない。試験会場の東京ビッグサイト(ここは高校生中心)には、60歳前後に見える夫婦(? 兄妹か友人かもしれない)も見掛けたし、私と同じくらいの年齢の人もいた。会話の内容からそれと知れる20代のサラリーマンも。趣味は数学、という人も世の中にはいるのだ。いておかしくないと私は思う。算数的パズル(例えば魔方陣や虫食い算など)も嫌いではないが、それならば確率の問題や幾何や数論の証明問題を考えるほうが楽しくはないか。それなりの頭脳があれば数学オリンピックの問題でもよい。論理的に考えるというのは、楽しいことなのだ。
 フィボナッチ数列や素数、フラクタルや位相幾何学などの逸話が紹介される中学生向けの本『数の悪魔』はベストセラーになった。中高生向けの数学の本も一般のサラリーマンに人気があるらしい。数学の問題は、とにかく真剣に考えないといけないので、頭の中から夾雑物が消える。私にとってはそれだけでもすばらしい。下手な本には望むべくもない効果である。歌も山も、その他の私のするあらゆる趣味では、こうも簡単に頭の中を単一色にはできない。できないから上達しないのだとも言えるが、要するに否応なくそうしてくれるところに私にとっての数学の悦びがある。
 数学に魅了され、数学者に憧れつつも、頭が悪すぎるので諦めてしまった私は、数学を軽んずる風潮に驚きを隠せない。来春から適用の新指導要領は、小中学生の数学の悦びを奪うものだと感じる。
 算数は数の数え方と計算の方法を教えるが、それは実は子供たちに抽象的な思考を教える第一歩である。数学は実は哲学なのである。そのことはギリシャの哲学者たちが同時に数学者であり、物理学者でもあったことからも何となく理解されるのではないか。論理的思考の第一歩とも言える三段論法は、算数で初めて具体的に理解され、使用されるだろう。
 数学はまた類推するということを学問として教える。筆算を使うとどんなに桁数が大きくなっても同じように計算できること、あるいは円という形ならば大きな円でも小さな円でも性質は変わらないということ、個別に当たらなくても類推ができるということを子供たちは学ぶのだ。しかもそれを論理的に。それが数学で大事なことだ。だから数学というのは、構造の捉え方を学ぶ学問でもある。新指導要領には電卓を使っての計算というのがある。何という無意味だろうか。計算は答えが出れば良いのではない。正しく計算できる、ということの中には、加算なら加算の仕組みをきちんと理解していることが含まれている。どんな大きな数でも構造は変わらない、その構造を把握する力を、数学は養ってくれるのだ。
 
 円周率は約3.14と習ってきたものが、今度からは3になる。
 この表現では誤解を招いてしまう。これまでも今後も円周率はおおよそ3.14と学ぶ。そして計算するときは、これまでは「3を使ってもよい」だったのが、今後は「3を使わねばならない」となってしまったのである。なぜそうなるのか。
 関沢正躬は『算数があぶない』(岩波ブックレット)を見よう。(これは小学生の算数の新指導要領問題をきわめてわかりやすく説明している。ブックレットで値段も安いので、多くの人に見て欲しい。)
 円周率=3というのは、概数の方が計算しやすいからという理由でそうなったわけではない。三桁のかけ算はやらない、小数点第二位以下の計算はしないという方針からこうなったのである。きわめて非合理である。なぜやらないのかの理由は明白ではない。計算というのは、上にも述べたように、結果を出すことはなく、どのように計算するかという方法を学ぶことでもあるのだ。三桁のかけ算はやらないという方針自体が、数学の論理性を伝えにくくすることは明らかである。詳しくは是非とも関沢の解説を読んで欲しい。
 また、円周率3に対して反対する理由として、関沢はもう一つ、きわめて説得力のある意見を述べている。関沢は言う。「小学校高学年になると、正しく計算することや正しく計測することに喜びを覚えるようになる」。
 計算の結果が正しいと嬉しいのである。計算が現実と合っていることが大事なのだ。そうして自己満足する。自己満足というのはとても大事だ。それは大仰に言えば世界に許されているという感覚だからだ。
 小さな子供にとって必要なのは、ゲーデルの不完全性定理や非ユークリッド幾何学ではなく、この世は自分の現実感覚に見合うきちんとした法則で成り立っている、正しいことは正しいという感覚である。子供は正義を好む。単純でわかりやすい世界観だからである。だからこそ計算が合っている、ということは子供にとって重要なことで、悦びになる。
 また関沢は「概数という考えは、中学生以上になるとむしろ自然と理解される」とも述べている。これは確かに子供の算数を見ていると、納得されるることだ。正しいという感覚とも通じているもので、人間は長ずるにつれてちゃらんぽらんであることを覚える、あるいはいい加減であることに慣れるというべきか。続けて関沢は「3.14は小学生の正確さにあっている。円周率を3とするのは子供の感性と衝突する」と言う。
 現行の算数では、五年生で円周率を習う。始めにどのようにするか。円周ならば、いろいろな直径の円の円周をひもなどを使ってまず計る。そして円の直径に対しておおよそ一定の数をかけると円周になるということから、円周率というものがあることを理解させる。面積ならば、まず実測してしまう。方眼を重ねておおよその大きさを求めるのだ。また円を分解する。そして半径に円周をかけて2で割ったものが面積となることを理解させる。つまり、実測から円の問題は始まるのである。そんなふうに子供が計測しても円周率は少なくとも3.1となる。なのに計算は3でせよ、と言われても、子供というのはおおむね現実主義的(眼前の現実にこだわる)なものだから、むしろ納得しにくいのだ。
 ちなみに世界最古の数学書と言われる紀元前1700年のエジプトでは円周率は約3.1604、アルキメデスの計算では3.1408から3.1428のあいだ、紀元前500年の中国では3.141592、インドでは3.1416と計算している。円周率3.14の背景にはこのような歴史がある。こんなにも古い数で、それは数学者たちを魅惑する数でもあった。何千年にもわたって人々が工夫して近似値を考えてきた数が整数になってしまうのは、たいへんな暴挙のように見える。もっとも列王記(上7-23)のソロモンの製作した備品の記述のように、直径が10、周囲は30と概数で出すものもなくはない。文学的表現としてはこれで充分だということには、私も反対しない。
 このようにして見てくると、以下のような雑談がどれほど愚かであるかわかってもらえるのではないだろうか。

吉本 (前略)質が落ちてもいいようなものは元々、就職して会社で専門にやるようになってから研究すれば済むものが多いんじゃないか。最近の例で言えば「円周率は3でいい」というのがあった。それに反対する人ばかりがテレビに出て発言していたが、僕は3でいいと思う。

糸井 僕もそう。

吉本 そんなの使うことは一生のうちに何度もない。全然ないかもしれない。3でたくさんじゃないかと思う。

糸井 あれは画期的なことだと思ったんですけど、みんな怒っているんですよ(笑)。知のいちばん重要な部分は、正確さというか正直さというか、自分がどのくらいウソを言っているかを判断することじゃないか。(中略)円周率についても、それが〈暫定的に3〉だと知っているかどうかがすべてで、「3が正しい」と教えちゃったら間違い。「3じゃないんだよ。でもおおよそ3だから、今は3でやんなさい」というのが、正確さということで考えたら一番いい。「3.14」にしろというのは、それが「3.1415……」の「15……」を削っているという意味で、そっちの方が間違っている。

                     (2001年5月14日の毎日新聞朝刊)

 『日本近代文学の名作』という吉本の本をめぐる吉本隆明と糸井重里の雑談である。新聞の対談のようにフィクション性の高いものを相手にしてもバカらしいだけだとも思うが、影響力は一般には大きかろう。私も一般にわかりやすいようにこれを難じよう。
 この対談では、「この一冊を読めば日本の近代文学はもう読まなくてもいい」などという下品な冗談(本気だとしたらただのバカ)にもむかっ腹が立つが、「そんなの使うことは一生のうちに何度もない。全然ないかもしれない。3でたくさんじゃないかと思う」という知性のかけらも感じられない言葉にも唖然とする。ただもう結果しか見ないのである。しかも自分にとっての結果しか見ていない。基準は常に役立つかどうか、有用かどうかであり、子供の立場に立って考えることもなければ、数学全体を見渡しての発言でもない。あまりにも狭い。人は誰しも自分の知見の範囲内でしかものを言えないというのは確かだ。かつて存在したことのない本について語ることはできても、そこにあるけれど読んだことのない本の内容について語ることはできない。だから、知らないことを偉そうに言うのはやめろと言うのだ。
 曾野綾子は「二次方程式もろくにできないが、65歳になる今日まで不自由しなかった」と言ったという。その発言を引き、三浦朱門はそんなものはいらない、という態度を取った。そのせいかどうか、とにかく中学の過程から二次方程式の解の公式が消えた。使わない知識、知らなくても良い知識、それを決めるのは誰か。数学ならば学校教育と数学について真剣に考えてきた人に委ねられるべきだろう。国語でも社会でも理科でも同じことが言える。例えば国語の教科書で学ぶべき内容を物理学者が決めるのだと考えてみれば、その頓珍漢ぶりがわかろうというものだ。何を取り、何を捨てるのか、二次方程式の持っている広い世界(二次方程式の解から複素数が出てくる。物理学の世界ではきわめて一般的)を何の認識もしていない人間によって、判断さるべき事柄でもないし、またそれを公に主張する感性というのも理解できない。例えば私がいくら数学が好きだからと言って、子供の数学のカリキュラムに口出ししたいと思ったとすれば、どう考えても変である。
 (私は中学生がものすごく可哀想だと思う。二次方程式の解の公式は因数分解がうまくできなかったときの切り札なのである。数学の出来ない子は因数分解が苦手な場合が多いが、この公式を習えば辛い試験も少しは楽になるのだ。)
 だいたい不自由はしない、使うことなんかない、とはそのまま発言者に返る言葉ではあるまいか。文学だの哲学だの、実利的なことを考えれば真先に抹消さるべきなりわいについている人間が、現代社会をむしろ実利的に支えている科学技術の根底にある数学を非難するという滑稽さ。数学抜きではコンピューター社会はあり得ない、活字による組版がほぼ消滅した現在、今や本だって作ることはできないのだ。そうしたことにこれらの人々は何も気づいていないのだろうか。空虚なまでに感じられる愚かしさだ。
 糸井の発言に至っては非論理的で意味をなさない。なぜなら3.14も概数でしかないことをちゃんと教えるので、3.14が正しい数だと教えているわけではないのだから。糸井の発言にも、とりあえず答えを出すことだけが重要だという思考が見える。計算はしなければならないのなら楽な方がいい、というわけだ。結果だけを重視するのは、商業主義的な大人にはふさわしいことかも知れぬが、教育の場でも、学問の場でも、そういう考え方をしないものだ。概数は子供にはなじまないということも、もちろんここでは顧慮されていない。
 3という整数にしてしまうことへの違和感は、πが最初に子供が触れる無理数であり、超越数であるということも関わると思う。それはもしかするとこの世の不思議というものを垣間見せてくれるかもしれない数だ。3.14の計算の面倒さが、常に円と円周率というものに対する不思議さを呼び覚ます。分数では決してあらわすことのできない奇妙な数。それを表現するのにも、整数の3では不足なのだ。

 関連するページをひとつだけ挙げておく。『「知」の欺瞞』などにも一枚噛んでいる数学者・黒木玄のホームページ。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/newcurriculum.html