Isidora’s Page
古雛の家

       ●SF●           2001年7月3日

 この夏、小谷真理の誘いを受け、SF大会の『SF論争史』パネルに参加することになった。司会者を除けばただ一人の女性なので、フェミニズムの立場から発言すればよいのだろうと考えているが、本当のところ、このような要請を気軽に引き受けてもいいほどのSF通であるとはとても思えない。SFがどれだけ好きかということでさえ、口ごもらざるを得ないところがある。SFオタクでないことは、きっぱりと断言できる。
 私が所属している文学界というところは、やはり何かしらの文学をとてもよく読んできたというような人々の集まりである。ありとある文学を読めるわけがないから、どこかに偏らざるを得ない。まずは作家で偏る。気に入った作家を続けて読んでいくという当たり前のパターンである。次は純文学、ミステリ、SFなどといったジャンルで偏る。これもある程度自覚的ならごく当たり前。とにもかくにもどこかに偏りながら読書遍歴を重ねて、この業界のしかるべきところに位置を占めている。
 殊にミステリ・ファンとかSFファンというのは中高生の頃にこのジャンルにのめりこんで、そのままジャンル・ファンになることが多い。ミステリもSFも好きという人もいるし、両者の中のハードボイルド系がいいというふうに細かくジャンルにこだわる人もいる。長野まゆみのように、少年愛を感じさせるものなら純文学から時代小説まで何でも読んだとか、どちらにしても、そういう自覚的な人が多い。
 『幻想文学』の周辺にいる人たちも、やはりSFやミステリの中の怪奇ものや奇妙な味のものをあさったりするような自覚的な人ばかりのように思う。そういった人々に比べると、私は本当に無自覚で、漫然とした読書生活を送ってきたと思わざるを得ない。
 私は子供時代から高校の終り頃まで、雑多なものをあまりにもでたらめに読んでおり、ジャンル意識というものがほとんどなかった。私の中にあったのは詩と古典文学と現代日本語の文学(翻訳文学を含む)、外国語の(つまり情けないことに読んでもよくわからない)文学だけである。『SFマガジン』や『幻想と怪奇』などの雑誌は、その存在すら知らない、というふうな読書生活を送ってきた。大学に入って幻想文学という体系があることを知って、初めて自覚的にそのようなものを読むことを覚えたのである。
 だからSFというジャンルに夢中になった経験はない。ミステリもそうだし、純文学に憧れたなどということもない。私の前には個別の作家しかいなくて、気に入れば続けてそれを読む、というだけのことだった。例えば伊藤整がおもしろいと思えば翻訳の『チャタレイ夫人の恋人』まで読んだのであるし、谷崎潤一郎訳の『源氏物語』がおもしろいと思えば谷崎自身の小説も読んだのである。中学高校を通じて、詩は好きだという自覚があったが、しかし、ヘッセやゲーテの詩が気に入れば、彼らの小説や評論も片端から読みまくるとか、リルケが気に入れば続けて『マルテの手記』を読み、さらにその本の中に出てくる『ぼるとがる文』だとか『アベラールとエロイーズ』を読むというような読書の仕方は、詩というジャンルへの固執とは言い難い。こういう連鎖的な読み方は、いわゆる文学ばかりではなく哲学や歴史などにまで及んでしまうから、読書傾向としてはますます滅茶苦茶になる。
 だがちょっと考えてみれば、これは文学界には入らないような普通の読者家の、真っ当な本の読み方ではないか。あるゆる書物はおもしろいのとそうでないのとに分かれ、私がおもしろくないと思うものはたいへんに少なかった。このまま私は、ただの読者になる可能性も大いにあったのだ。その方が幸せだったにちがいない。だが、その後、私は幻想文学という視点を手に入れてしまった。そうしてから自分の読書遍歴を捉え返したとき、私がどんなに幻想文学的なものを特別に愛好してきたかを知ったのである。例えば賢治や未明などの大正期の童話やドイツロマン派の童話というのは小学校時代からずっと偏愛の対象だったが、私はそれをファンタジーとして括れるということを知ったのである。あるいはイヨネスコとか別役実とか安部公房といった不条理的な戯曲の作家もそのようなものとして捉えられるということを理解し、ヘッセやリルケの詩もまたその文脈で理解できるということ、私の好きなマンガもアニメもSFも、さらに言ってしまえば宗教も哲学も幻想文学の仲間に含められるということを知ったのだ。
 それを知る以前、SFやミステリというジャンルに固執しなかったのはなぜだろう。『幻想文学』60号のインタビューで、牧野修は、「怪奇大作戦」が自分の根っこにあるが、SFもホラーも捨てきれず、どれもこれもおもしろいと思っているうちに専門化できなかった、というような発言をしていたのだが、これにやや近いものがあるだろうか。私の場合はどれもおもしろいというよりは、これをSFとして見ることも怪奇として見ることもなかったというのに近い。私たちは完全なテレビ世代で、東雅夫は異様に怪獣が好きだし、私はアニメ・ファンだ。「怪奇大作戦」もそうだが、私が愛着を覚えた「世にも不思議な物語」とか「ウルトラQ」などのテレビ番組はSFと怪奇とミステリの融合体だったが、私はそれをSFでもミステリでも怪奇でもない、奇妙な世界と感じていたのだろうと思う。その奇妙さは夢の感覚に近く、だからSFやミステリというジャンルに回収されることがなかった。自分の好きなものはむしろ何かのジャンルの中にではなく、ジャンルとは関係なくあると思っていたから、ジャンルに固執することなく、何となくSFやミステリを読み続けたのではないか。とはいえそれは今からいささか無理をして理屈づければ、ということであって、煎じ詰めれば単に文学に対する自覚が極端に低かったというだけのことだ。
 どちらにしても薄ぼんやりと読んでいたために、SF通ではなくなってしまったし、ミステリなどはちんぷんかんぷんに近い。神林長平に出会うことがなければ、SFそのものにシンパシイを抱くことはなかったのではないかと思う。
 ミステリとSFと、と分けて考えるのもおかしな話ではあるのだが、便宜的に考えてみると、今、隆盛をきわめている日本のいわゆるミステリというものには、ほとんど食指を動かされることがない。まったく読まないわけでもないが、積極的に新作を待っているのは山口雅也の『キッド・ピストルズ』ぐらいではないかと思う(もしかしてこのシリーズはもう打ち止めなんだろうか?)。新人の作品に取りあえず目を通しておこうなどとは絶対に考えない。おもしろいと勧められたもので、手元に本があってさえ、読む気があまりしない。どうせつまらないと思っているからであろう。日本の本格やハードボイルドを読むなら、むしろ時として奇妙な描写がないこともないロバート・ゴダードあたりを読んでいた方がまだましという感じだ。
 SFの場合は、どんな新人のものでも、ジュヴナイルでも、一応読んでみることにしているし、翻訳ものはかなり読んでいるから、ミステリとはずいぶんと差がある。つまりこれは、SFの方が私の求めるような奇妙さを持っている可能性が高いと考えているということだろうか。そうではないような気がする。今ではSFにそういうものを求めるのはほとんど無駄と感じている。いやSFどころかほとんどあらゆる小説についてそう感じているから、SFにだってもっと別のものを求めているに違いない。
 つらつらと考えてみるに、私はSF的な風景を好む。アニメと映画に関しては、SFものを数多く観ているのもそのためだろうか。あるいはそういうものを多く観たせいでそうなったのか。小説の中にどんな未来の様子や宇宙空間や他惑星が描かれているのかが気にかかる。小説を読むときは視覚的なイメージが強く眼前に立ち現れる方だから、それが描けていない、あるいは描こうともしていない作品には失望を味わうことが多い。中には風景そのものは現実とほとんど変わらない設定のSFもある。そういう作品で気になるのはテクノロジーというかガジェットの類。気の利いた道具の一つでも出てくればそれで良しとする。こういう価値判断の仕方なら、小説としてはクズでもSFでありさえすれば読める、という感じになる。ただし評価はやはりクズのままではあるのだが。
 ミステリではたぶん、小説としてはカスでもトリックさえまともならば良し、という見方があるのだと思う。あるいは殺され方が奇抜だとか、謎が変わっているとか。私はトリックだの謎だのには何ら興味を引かれない。種明かしをされでもバカバカしく感じるのが関の山。要するに私の人間観、世界観とそうしたトリックの存在は大きく食い違うのだ。だから、クズのミステリは読めないのではないだろうか。
 ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』は、SFの楽しみとは何か、ということを考えさせてくれる一冊だった。これは一種の超人SFで、機械-人間的な方向での進化を描いている。その中で合衆国のハードボイルド程度にはミステリになっている話が展開していく。ありていに言ってつまらない作品だ。唯一気に入ったのは、主人公がヴァーチャル空間で神々の山のイメージにさらされるシーン。これはSFでなければ描けない風景である。『地を継ぐ者』でいちばん面白くないのは、設定にあるほどに身体的、環境的に変化すれば、人間にもっと意識面での変化があるに違いないのだが、そこまで作家の想像力が行き届いていないという点。ちゃんと設定を考えたのか、こら、と言いたくなる。もっとも人間の想像力には限界がありすぎる。SF的テクノロジーも時代性ということをまぬがれないが、精神面はあまりにも現代を映しすぎる傾向にある。
 だが、SFには、このような設定の物語が描かれたとき、読者にそれをめぐって思索させる力がある。SFはたとえ最悪のものでも思索を誘発するということだ。そのような意味で、例えば神林長平作品のように作品自体が思索しなくても、SFはスペキュレイティヴ・フィクションだと言えるのだろう。私がSFを好むのはたぶんそういう傾向のせいだ。新しい仮定、こんな仮定の時、世界はどう展開するか、人間はどうするか、それが示されているのがSFなのだ。たとえ物語そのものや作者の思索には納得できなくても、我自ら思索を展開するその余地のあることが、私にとっておもしろいことなのだろう。
 私はどんな作品であれ、文学をめぐる評論を書くということにほとんど興味を持てないので、SFも論ずる対象にしたいとは思わない。SFは、時代や人間を考察するのに恰好の素材で、SFから現代の集合無意識的なものを探ることもできるだろうが、そういう文化的評論にも興味はない。他の人の書いたものをおもしろく読みはするけれども、私がSFをそうした評論のように捉えたりすることは決してない。私は今ここではない、可能性としての世界を夢見る愉しみを、SFに求めているだけなのだ。