Isidora’s Page
古雛の家

 ●奈良の茶がゆ●           2001年9月10日 

 嵐山光三郎の『日本詣で』(集英社)という本を読んだ。各都道府県と東京の二十三区についてのエッセイである。おもしろいものではないのだが、やはり自分に関わりのある土地についての話は気になる。
 私の故郷である埼玉と山梨の二県については、深沢七郎の話が書かれているだけだ。深沢は山梨の石和出身で、埼玉の桶川を終のすみかとした。この二県にはほかには何も地域性のあるものがないのか? と言えばそんなことはもちろん、ない。篠田真由美さんのように建築好き、旅好きの人なら、こんな話には絶対ならないはずで、もう少し一般の興味を引けるような話題が出せるだろう。
 岩手では宮澤賢治の話(嵐山はファンで、記念館で講演もしたという)と賢治ファンはすばらしいという話になり、山形には数人の友人がいるらしく、山形県民は純朴だ、などという話になる。私にも山形に友人がいるけれども、たとえ彼がいくら良い人でも、だからといって山形県民は純朴だ、などとはとても言えない。
 だが何と言っても驚いたのは、奈良県のところである。奈良は雰囲気は京都より良い、だが食い物が索漠としていて行く気になれない、とある。殊に茶がゆについてはなぜかぼろくそに言っていて、「茶がゆを美味しいと思っている奈良県人なんているのだろうか」などというめちゃくちゃなことが書かれている。思わず、どれだけ奈良の人とお知り合いか、どれだけの茶がゆを食べたのか、と聞き返したくなってしまった。どうしてこんなふうに自分の狭い知見だけで断言してしまえるんだろうか。
 奈良といえば、このサイトの主人公の一人である横山さんが住んでいるところだ。もっとも彼は大阪出身で、ご両親も京都らしいので奈良の人とは言えないだろう(たぶん。詳しいことは知らない)。でもやっぱり今彼が住んでいるのだから、嵐山のこの発言にはつい過剰に反応する。(神林さんが住んでいる松本について話が出れば、やはり過剰に反応してしまうだろう。)
 だいたい茶がゆはおいしいものだと私は思う。私の連れ合いの好物の一つだ。連れ合いの母なる人は奈良の出身で、宮崎の中でも鹿児島に近い地域に嫁いだ。だから彼女の料理は奈良と鹿児島方面の料理とのちゃんぽんで、茶がゆは朝ご飯の欠かせないメニューの一つなのだ。茶がゆというのはもともと古い御飯を処理する知恵の一つだが、贅沢にするならば米から炊く。現代のように豊かな社会では、茶がゆも米から炊くのが普通だろうか。炊き方としては水の代りに緑茶を使うだけのことで、義母は小袋に茶葉を入れたものを鍋の中に放り込んで、普通に水で炊いていた。簡便な方法なのかどうか知らないが、これはかなりお茶を煮出して使う感じになるので、たぶん庶民的ではあるのだろう。なかなかに美味しいものである。連れ合いなどは、茶がゆに山椒の実の佃煮(これは東京方面では一般的ではなく、置いている店が限られる。大阪などでは普通にあるようだ)、あるいは豚味噌(これはきっと九州の食べ物だろう。脂の多い豚のミンチを炒めて砂糖で甘くし、麦味噌を合わせた常備菜)があれば文句を言わない。カツオの腹皮(カツオの腹びれのある部分を干物にしたもの)などがあるとなお喜ぶ。ついでに言うと、カツオの腹皮というのは宮崎・鹿児島では(四国あたりでも?)どんなスーパーでも売っている日常的な食べ物である。少し塩辛くて独特の味と匂いがするが、しかし関東ではこれは日常的なものではない。ある日デパートの干物売り場で見掛け、懐かしくて手に取ったが、バカみたいに高かったので、驚いて買うのをやめてしまった。それは高級品だったのだろうけれど、もともとそんな高級な食べ物ではなくて、ごく庶民的な食べ物なのだ。
 話はいささか逸れたが、ともかくも、茶がゆがまずい、というのは嵐山光三郎の狭い知見の中での判断に過ぎない。同書の中で、小林秀雄もまずいと書いている、と多少の傍証(?)を持ちだしているけれども、だからといって、奈良の人が茶がゆを本当においしいと思っているのかどうか疑問だとまで言うのは言い過ぎもいいところだ。視野狭窄も甚だしいのではないだろうか。それともこのように狭い知見だけで断言してしまうというような独断的なものの方が一般受けするのだろうか。……きっとそうだろうな。
 茶がゆひとつのことで何をむきになっているのだろう。ともかくも、自分が嫌いだ、ということを表現するとき、他人を引き合いに出すのはこのように危険だということをつくづく感じたのだ。つまり、こんなものを喜んで読むやつの顔が見てみたい、的な書き方。心の中ではどんなにしょっちゅうそう思っていることか! 口に出すべきことではないのだろうが、気をつけていないと、ついやってしまう……。
 あまりにも当然のことなのだが、他人に対する批評は、常に自分に直接的に返ってくる。評論家・批評家というのは、狭い知見の中で(人によって狭さに多少の差はあれど)自分勝手な判断を下して好き勝手なことを言う人間のことであり、私もそのような職種に属している人間だ。書きながら、そのことは充分以上に意識しているのである。
 どんなに本を読んだとしても、あるいは見聞を広めたとしても、こんなに情報があふれかえった世界では、狭い知見に陥らずにはすまないだろう。専門特化すれば良いのだろうが、文学というのは広がりが厖大で、そんなに簡単には特化出来ないので厄介だ。
 果してすみずみまで自信を持ってものごとを言える日が来るのだろうか、と考える。うーん、わからない。でも、取りあえず書いてみる。捩じ曲げられ歪んだものを、少しでもまっとうにすることができるという可能性がある限り。