Isidora’s Page
古雛の家

       ●週刊広告論●           2001年9月7日

 このサイトは趣味的に作っているものなので、私個人はどのページを読んでもおもしろい、と思っているが、中でも「週刊広告論」はこんなサイトに載せておくのはもったいないような作品である。
 特に今週アップしたホンダの広告についてのエッセイが素晴しい。
 これについて書く予定、と連絡をもらって、まず広告そのものを手に入れて仔細に眺めた。そして、どのように論じるのだろう、と考える。広告としてはまあ良い出来なのでは。とすると珍しく褒めるのだろうか。いや、それはないんだろうな、などと考えていたら、意表をつかれた。単体の広告について語るのではなく、広告とは何かということを語るものになっている。もちろんこれまでもこの「週刊広告論」にはそういうスタンスがいつでもあった。それが強いときも弱いときもあるけれども、いつでも広告という近代に特有の表現形式を考えようとするまなざしを持っている。私はそれなのに、広告を眺めているあいだは眼前の広告にとらわれてそんなことはすっかり忘れてしまった。
 けれども範国くんのエッセイは、広告とは何か、ということをまず考えることを土台にしているのだ。単体の広告を語るついでに現代について考察してるのではなくて、広告を見るときに、いつも広告全体のことやその背後に広がる時代を同時に見ているのだ。そこが私のような素人とはまったく違うところだ。しかも今回のそれは特に秀逸だった。
 広告製作者、コピーライターとしての範国くんが、このホンダの広告を作る立場になって考えている、という形でこのエッセイは書かれている。こんなふうに作られたかもしれないと考えることで、同じ製作者としての同情を示す。にもかかわらずこの広告は醜悪だとあっさりとそれを否定し、広告とはもともと醜いのだ、と斬り捨てて見せる。
 一見、「ああ、こんな、広告なんていうものを作っている私」という自己憐愍とも見えるこのエッセイは、けれどももっと奥深く、人間そのものへの嘆きを窺わせる。広告というものが、人間の本性の一つを垣間見せる、まさにその瞬間を、このエッセイは捉えているのだ。
 この広告の成り立ちを、「木の願うとおりに彫ったら美しい彫像ができた」かのようだと範国くんは言う。でもなお醜いのだと。広告そのものがもともと醜いものだから、と。
 実のところ、表現するということは、広告に限らず、もともとそうなのではないか。人間というのはもともと醜いものであって、それが自己主張するのが表現行為なのだから、その本性として美しいものではないだろう。だが、そのことに対する自覚の度合いが、作品を決定づけると強く思う。
 無自覚な人はとまどうことなく創作が出来るのだろう。例えば古代の呪術的絵画などは、自己表現などというものがあることすら想像されていないから、創作が醜い行為であるなどいう意識がありえようはずもない。そのような場合に、創作物が醜悪なものになるはずがないのだ。
 また、自覚があってもそれは当然のこととして、無自覚と同じ状態にまで乗り越えられてしまう人もいるだろう。一般的なすぐれた芸術家とはそういうものかもしれない。それもまたそのような醜さとは無縁であるだろう。
 しかしそうしたことに極度に自覚的な人もいる。自覚され、意識された途端に、それは醜悪さを必然的に持たざるを得ない。広告などは無自覚に作られることがないのだから、この範疇に入るのではないだろうか。また商売として書かれるあらゆる大衆小説などの書き手にその可能性があり、また先鋭的な意識で芸術に取り組んでいる人々にもその可能性があるだろうが、しかし、そのようなことについて極端に自覚的である場合は、普通ならばペンを動かすことが出来なくなるものなのだと思う。つまり、創作活動にとって、それはとても矛盾したことなのだ。自覚して葛藤を抱えつつ表現行為に向かう人もごくまれにいるだろう。創作することの意味のなさに驚愕しながらも、なお表現しようとする意志を持つというのに、それは近い。
 私は考えてみる。もしもこのホンダの広告が本当は範国くんが手がけたものだったとしたら。このエッセイはそれでも同じように書かれたことだろう。こんなふうに、刻苦の中から生まれる広告の、価値も意味も分っていながら、なおその無意味と無価値に思いを致してしまう、逆説的な精神。時として、それはとても危うくも見えるが、本質的にはとても強いものなのだ。
 私はいま創作する側から考えてみたが、あるいはこれは逆で、作られたものをそのように見てしまう人々がいる、という話であるに過ぎないのかもしれない。このホンダの広告を醜いとは普通の人は思わないのである。そのように見てしまう精神にだけ、醜く見える。つまるところ、世界をどのように見ているかが違うだけなのかもしれない。