Isidora’s Page
古雛の家

 ●夫婦別姓●           2001年11月29日日 

 夫婦別姓についての法律の、この国会への法案提出がまた見送られた。意見が調整できないからもう少し慎重に協議するだあ? 自衛隊の海外派兵のようにきわめて重要な法律が、カップヌードルのように成立したではないか。何年も前からの懸案で、このように通り続けないということは、作る気がないのだということは、もう見え見えである。
 夫婦別姓に対する根強い反対に対しては、フェミニズム・サイドからも常に批判され続けており、議論も出尽くしていると思うので、私が今更言うことは何もないのであるが、ちょっとした機会ではあるので、姓について書いてみたい。

 私は、日本の社会的な場では、姓が人を識別するのだ、と思っていた。学校でも職場でも、公の場では「石堂さん」と呼ばれる。「藍さん」などと呼ばれることはない。ついでに言えば、私の場合は、友人同士での日常の呼び名も姓の呼び捨ての場合が多い。「らん」とか「らんちゃん」ではなく、「イシドー」と呼ばれるわけだ。それが私という人間のイメージにあうのだろう。だから私を名前で呼ぶのはほとんど肉親、縁戚だけだ。
 ところが山梨の田舎に引っ越して、社会的には姓で呼ぶという通念は、とんでもない間違いだったことに気付いた。姓の数がものすごく少ないのである。「浅川」「小林」「小沢」「清水」など限られた姓しかない。部落(集落の単位のことをこう呼ぶ。差別語ではない)全部が単一の姓であることなど、珍しくもなかった。だから子供はみんな名前で呼ばれる。わずか20人の長男のクラスには三人の「えり」ちゃんがいて(字はそれぞれ違った)、それぞれ名字の一字を取って「あえり」「こえり」「おえり」と呼ばれていた。
 田舎に越してのカルチャーショックはいろいろあったが(どうぞと言わないうちに人の家に上がってくる、家が遠いからといって新聞を配達してくれない、車が曲るときにしばしばウィンカーを出さないエトセトラ)、この名字で呼ばないというのも一つの衝撃ではあった。子供だけではない、大人になっても、「清水さん」と言っても通じないから、「よしおさん」、また「上町のまさかずさん」「清水のまさかずさん」といったような呼ばれ方をすることになる。もちろん同姓同士の結婚など珍しくもなく、姓が変わらないということもある。
 このように、名前がある意味で重視されるようなこうした地域では、夫婦別姓を主張しても無意味である。違う姓の人たちが結婚して、妻がもとの姓でいたいと言ってもそれは通らない。そんなことを考えていると、このあたりでは暮らせないだろう。例えば、私の住んでいる地域には「まき」というものがあるのだが、何かというと、同じ姓の人たちが集まるという催しである。一つの本家から分れた家々が一堂に会するのである。おそろしく封建的な感じだ。だが、当人たちはそれを当然のことだと感じるらしい。なにしろこの「まき」の当番だからと言って家を大きく建て替えてしまうということすらあるのだ。こうした風土では、姓は一つの仲間意識を形作る重要なものだから、夫婦のくせに別姓などとんでもない、ということになる。
 とはいえ考えてみれば、姓が出来たのは明治以降に違いないから、こうした「まき」にしても、もともとは親戚筋の集まりという意味合であったのだと思う。そしてそれが姓によらずともすごくはっきりとしていた時期があるのだろう。姓というのは目に見える縛りだが、目には見えぬ、もっとはっきりとした縛りがあったのではないか。共同体が小さければ、そうした緊密な縛りが容易に成立することは、誰にでもわかる。
 こうして考えていくと、夫婦別姓においてよく言われる、家族の絆云々という世迷言は、家族の絆が事実上消滅していることを言い立てるに等しいということになる。まあこれもさんざん言われてきたことではあるが。
 子供たちは、姓をも人格の一部として成長する。呼び名は大事だ。同じ姓だらけで、名前で識別される地域では、自分のファースト・ネームはことさらに大事なものになるに違いない。一方、姓で呼ばれ続けたものは姓を自分の人格の一部とするだろう。ならば結婚するというだけのことで自分の一部を棄てさせられるのは、あまりにも不当と言わざるを得ない。そのことに対する怨念がどれほど大きいのか、私は姓を変えたことがないのでよくは実感できないのだが、相当なものであることは傍で見ていて感ずることがある。
 学生時代からの友人でもなければ仕事の関係者でもない女性をどのように呼ぶかというのはしばしば頭の痛い問題である。母親になると、「てるちゃんのお母さん」というような呼ばれ方をするようになったりするし、「石堂さんの奥さん」と呼ばれたりもする。親しくない人にどう呼ばれようとかまわないが、後者の呼び方など、私にとってはなんとも奇妙な感じがすることは確かだ。だから自分が女性を呼ぶ場合には、必要以上に気を使ってしまう。PTAで知りあったお母さんたちの場合は、彼女らの夫と知りあうことはほとんどないから、単に名字で呼べばいいが、それでも時折、この名字はこの人の夫のものなのだろうなと考えると、名前で呼びたくなるときもある。だが、それはさほど親しくない相手にすることではないだろう。
 妻帯者の男性との会話で、お連れ合いの話が出ることもあり、そういう時にどう呼んだら適切か悩むことは日常的にある。一般的には「奥様」と言えば済むのではあるが、私は鳥肌が立つほどにこの言葉が嫌いだ。うげえと思いながらこの言葉を発するわけで、気分の良いものでは全くない。お連れ合い様という言葉も使ってはいるが、何度も繰り返すには長くていまちだし、この言葉を使うと怪訝な顔をする人もいる。パートナーなんぞと呼ぶのも、目上の人に対しては奇妙なものだ。そこで少しでも親しくなると、手っ取り早く名前を聞き出してしまい、勝手に名前で呼んだりする。さらには、夫婦別姓にしていてくれたらなあ、なんぞと自分に都合のいいことを考える。
 私の友人には、完全な別姓にしている人もいれば、戸籍は変えたが、普段はもともとの姓で通している人などが、職業柄だろう、結構いる。というよりも出版業界で出来た知人というのはほとんどそうだ。こういう人たちの呼び名については、頭を悩ませなくていい。夫に対しても、妻に対しても、名字で気軽に呼べばいいのだ。そしてそういう付き合いをしている女性たちのことを、夫の姓+名前で考えることは決してない。私がたとえその夫と親しかったとしても、私は夫の妻として彼女たちと付き合うわけではないのだから。彼女らは夫婦関係から独立した一人の個人として私個人と付き合っているのである。人間関係というのは結局のところ対個人なのであって、だからこそ、別姓であればどんなにかすっきりすることだろうと私は思う。
 子供のことはどうするのか? ある程度の年齢になったら好きなほうを選べるようにすればよいと私は思う。私がもし選べる立場だったら、どちらの姓もまっぴらだと思ったかもしれないけれど。